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小指

タイトル画像は、2013年05月05日、助任川の夕暮れです。
お話とは関係ありません。

note.com  目次機能が便利なので、今まで章ごとに分けて掲載していたのをまとめることにしました。
他の記事もまとめます。
これで読みにくい私の話が少しは読みやすくなると思います。

01 ノルウェー

私は人前で話をするのが物凄く苦手です。
こんな仕事をしていますが、なるべくなら人前には出たくないです。

塾の講師の前はアルバイトでテニスのインストラクターをしてました。
今はインストラクターではなくコーチと言うみたいです。
私的には、コーチは学校で教える人、インストラクターはテニススクールで教える人だと思っています。
でも今はインストラクターって言ってる人はいないみたいですからコーチにします。

塾の講師の前はテニスのコーチをしてました。

大学1年の9月くらいだったと思います。
テニス部の練習の準備でネット張ってたらOBのAさんが来て3年生の先輩数人と話してました。
Aさんとは、そのときまでほとんど話をしたことはなくて、地元のテニスコートでお見かけして挨拶したことがあるくらいでした。
ネットを張り終えたらキャプテンに呼ばれて、今日は練習休んでいいからAさんについていけって言われました。

それでAさんの車でオープン間近のテニスクラブに行って、オーナーさんの息子さんの前でAさんと試合をしたら『合格』って言われて、テニススクールのコーチになりました。
この時点で、私のテニス歴は一応3年…高1の頃は球拾いがイヤでサボってたので本当は2年くらいでした。

もちろんテニスの指導者の資格は、持ってませんでした。
講習とかもなくて、いきなり新しくできたテニススクールで教え始めました。

当時、鳴門大橋が架橋工事中で技師のBさんが1人、スクールにいました。
その技師さんのお友達で、ノルウェーから来ていた技師さんのご家族もテニススクールに入ってこられました。

お父様は身長190cmを超えてて、お母様も高校生くらいの娘さんも180cmくらいあって、話す言葉は英語かノルウェー語でした。
日本人技師のBさんがいるときは通訳してくれるんですが、その人がお休みのときは、大きい3人に囲まれて強制英会話教室でした。

娘さんは、うまくいかないと怒ってノルウェー語になってました。
っていうか、ノルウェー語って…。
ノルウェーの言葉は2つか3つあって、なんとかかんとかって説明を聞いた気がします。
まあ、私にとっては、ノルウェー語だろうとスワヒリ語だろうと古代火星語だろうと解らないという点では同じなんですけど。
私の囲まれることへの恐怖は、この時に植えつけられたのかもしれません。

それから、他のスクールにも教えに行くようになって、結局、そちらに移って、合わせて5年くらいテニスのコーチをしてました。

最近、うちに来ている高校生に偉そうにテニスの話をしていますが、実は、テニス歴もコーチ歴もそんなに長くないんです。
テニスもそんなに強くなかったです。
すぐ足つるし…。

ちょっとしたことでテニスをやめてコーチもやめて、毎日テニスばっかりしてたのにすることがなくなって、仕方なくて塾の講師を始めました。
スクールの生徒さんに頼まれて、お子さんやそのお友達の家庭教師をしていたので、自然な流れでした。

知り合いの医学部の教授から、研究室に残してやるから医学部に来いと誘っていただいたのもこの頃でした。
リアル白い巨塔には心が揺れたんですが、人前に出ることの何倍も何十倍も病院と注射が嫌いな私には無理な話でした。

02 pulse

ところで私は人前で話をするのが物凄く苦手です。
こんな仕事をしていますが、なるべくなら人前には出たくないです。

それなのに人前に出るような仕事ばかりしています。
お話した通り、テニスのコーチも塾の講師も望んで始めたわけではないです。

テニスのレッスンも塾の授業も始めてしまえばそうでもないんですが、始まるまでは緊張してました。

塾の授業での緊張は島村塾じゃなくて、前にいた石井の明峰塾です。
そこは個別授業と集団授業があって、集団授業は学校の教室みたいな感じで黒板があって、同じ学年の20人くらいの前で授業してました。

だいたい私は黒板が嫌いです。
チョークの粉って体に悪そうだし指や服につくし…
だからと言ってホワイトボードが好きってわけではありません。
だから島村塾には黒板もホワイトボードもありません。

私は教室の隅っこで遊んでて、たまに生徒の前に座って教える…私にとって理想の仕事です。

さて…

人前で話をするのが物凄く苦手な私ですが、テニスのコーチも塾の講師も学会の研究発表から比べたら可愛いもんでした。
最凶にして最大の恐怖…それが学会の研究発表です。
私は徳島大学の電子工学科、大学院は電気工学専攻でした。

卒業論文、修士論文の研究テーマは、電流形PWMインバータによる太陽光発電システム でした。
検索してみたら、電気学会全国大会の論文の記録が残ってました。

1988年03月、33年前の論文です。
電流形PWMインバータによる小型多機能太陽光発電システム(J GLOBAL)

ここから下は、つまらないから読み飛ばしていいです。
話の流れで書くだけですから、読まなくても全然大丈夫です。

私たちが普段使っている電気には直流と交流があります。
乾電池や携帯電話やゲーム機の充電池、車のバッテリーなどの電池からの出力は直流です。
太陽電池も電池ですから直流です。
家の壁のコンセントは交流です。
太陽電池の出力を家庭の電化製品で使うためには、直流を交流に変換しなければいけません。
そのための変換装置がインバータです。

PWMインバータのPWMは、Pulse Width Modulation、パルスの幅を変えることで出力を制御することです。
PWMインバータには、直流の電圧を制御する電圧形PWMインバータと直流の電流を制御する電流形PWMインバータがあります。

当時の主流は、電圧を制御する電圧形PWMインバータでした。
しかし電力会社と並列運用する太陽光発電システムに組み込むPWMインバータは、電流を制御する電流形PWMインバータの方が安全、安価で制御も簡単だという…マイナー、サブカルの好きな私にぴったりのテーマでした。
電圧形PWMインバータは、当時高価だった電界効果型トランジスタ…MOS FETと大きくて重たいインダクタで構成されます。
電流形PWMインバータは、比較的安価なバイポーラトランジスタと比較的小さくて軽いコンデンサで構成されます。
高速動作による制御という点では電圧形が優れているのですが、電流形の前段にチョッパを置くことで、電流形の欠点を補い、付加価値を持たせた高度な運転が可能となります。

付加価値の一つがアクティブフィルタによる力率改善です。
最近の電気製品の充電器とかアダプタとかの直流変換はインダクタを含む遅れ負荷が多くて力率が低下します。
力率が低下すると使えない電力、無効電力が増加します。
その無駄を解消するために、太陽光発電システム側から監視して、電力会社からの電力の力率が1になるように供給電力を制御します。

インバータのお話はここまでです。

30年以上前のお話ですから、もう全然違うと思います。
私がブログを書き始めてから15年になります。
最初は Yahoo!ブログでした。

ブログ歴15年間で一番求められていない…他の記事も普段からそんなに求められてはいませんが、それ以上に求められていない、絶対に求められていない、抜群に求められていない…じゃあなんで書くんだっていう需要のない話だと思います。

03 バランス

ところで私は人前で話をするのが物凄く苦手です。

こんな仕事をしていますが、なるべくなら人前には出たくないです。
そんな私にとって最凶にして最大の恐怖…それが学会の研究発表です。

当時、徳島大学には修士課程までしかなくて、その修士課程の2年間に、電気学会四国大会、電気学会全国大会、産業応用工学会全国大会…3回の学会発表と大学院の修士論文発表…4回の研究発表がありました。

研究発表ということは、研究論文を提出しないといけません。
論文を書くこと自体は苦痛ではありません。
文章を書くのは、むしろ楽しいです。
需要さえ考えなければ、内容さえ気にしなければ、ここに書いてるようなくだらない文章ならいつまでもダラダラと書いていられます。

問題は『研究論文』の『研究』の部分です。
前回も書きましたが、当時は島村塾ではなく、石井の明峰塾で講師をしていました。
2年目、大学院の1回生から教室主任を任せていただきました。
社会人の正社員の講師の方もおられる中でアルバイト学生の私が教室主任になってしまって変な感じでしたが、楽しかったです。
教室主任ということでずっと授業が入ってて、毎日、午後4時半から午後11時くらいまでは塾にいました。

私の所属していた研究室は、お昼前に出てきて深夜まで実験する、夜行性のハムスターみたいな学生ばかりでした。
ハムスターが深夜のケージでカラカラと水車を回すように、一晩中研究を続けます。
他の研究室の事はよく分かりませんが、多分、他も似たようなもんだったんじゃないかと思います。

私が塾に行ってる時間は、研究室が一番活発に活動してる…水車を全力で回してる時間でした。
そんな大切な水車タイムに抜け出してるから研究も全然進みません。
しかも研究室に帰ってきたら、だいたい、皆さん、まったりコーヒーブレイクです。
みんながまったりしてたら、やっぱり私もまったりしたいです。
だったら、私だけ朝早く行って一人でやってたらいいんだけど、研究室に誰もいなかったら寂しくてイヤです。
私は、人見知りで人前に出るのはイヤだけど、一人寂しいのもイヤです。
できたらいっぱい人がいる中で、無視されながら、隅っこでコソコソしていたいです。

そういうわけで研究は全然進まないのに、論文の締め切りはどんどんせまってきます。

論文締め切りに追われて、追いつかれて追い越されて締め切りの2日後くらいに先生の詫び状と一緒に私の分だけ別に発送していました。
詫び状を書いてくださるのが、さっきの J GLOBAL の論文の著者の私の次に書いてある 大西徳生先生です。
私の名前がトップを飾っていますが、論文の著者は偉い人を後ろに書くみたいです。
論文が遅れるのは、論文を書くのが遅いからではありません。
論文を書き始めるのが遅いからです。
論文を書くには、結果を出さないといけません。
結果を出すには、実験をしなければいけません。
実験をするには、回路を作らなければいけません。
回路を作るには、設計しなければいけません。

設計はそんなに難しくありません。
もちろん全部最初から考えるんだったらすごく難しいです。
出力波形の算出とか位相制御とか、それぞれユニットとして出来上がったものがあって、それを組み合わせるだけなので、意外と簡単にできます。

その回路を作るのは大変です。
200mm×250mmくらいのユニバーサル基盤にICチップとか抵抗とかをびっしり乗せて半田付けします。
ICの向きを間違えて5V端子に12Vかけて破裂させたことがあります。
バチッ!って音と光の一瞬後に背後でカラカラカラって破片の転がる音が聞こえました。
寝ぼけて熱い半田ゴテの先をつまむのは、何回かやると指先の皮が厚くなるのか痛覚が鈍くなるのか痛くなくなりましたが、皮膚の焼ける臭いは今でも覚えています。

制御回路が完成すると実験です。
オシロスコープで波形を確認しながらする実験は楽しいんですが、注意力散漫の私は何するか分かりません。
エネルギーの貯まったコイルに素手で触ったときは死ぬかと思いました。
電力の回生実験で、実験室のある階のブレーカーを落としたときは、大西先生と一緒に、各部屋に謝りに行きました。
なんとか論文を書けるようになるのは、締め切りの2、3日前です。

だから締め切り前は、いつも研究室にこもって論文を書いてました。
そうなると研究室に誰もいなかったら寂しくてイヤとか言ってられません。
時間との闘いです。
家には帰ってる暇はないので、どうしても眠いときは事務用のイスを3つ並べてバランスとりながら1時間くらい仮眠します。
イスから落ちたことはありません。
意外と寝られるもんです。
偉そうに言ってますが、時間との闘いには毎回敗れています。
毎回敗れて忙しい大西先生の仕事を一つ増やしてしまいます。

今回も需要無視、誰が読みたいのって話でした。

04 進路指導

ところで私は人前で話をするのが物凄く苦手です。
こんな仕事をしていますが、なるべくなら人前には出たくないです。

そんな私にとって学会の研究発表は恐怖でした。
そして論文提出は時間との闘いでした。
毎回敗れて…完敗して…大西先生の詫び状を添えて提出していました。

修士論文は学会の研究論文と違って…まあ学会も本当はダメだったとは思うんですが…たぶん、先生の詫び状がなければアウトだったと思いますけど…修士論文は学会の研究論文と違って、提出の時刻を1秒でも過ぎると受け取ってもらえず、留年確定…と脅されていました。

受け取る担当の先生…これがまた冗談の通じなさそうな人で…まあ、冗談が通じても許してもらえるもんじゃなかったんでしょうけど…この文章を当時の先生が読んでおられないことを祈りながら書いてるんですけど…そういうの聞いてなくても絶対無理だろうなって思ってました。

そういうわけで修士論文は、研究室での仮眠も無しで本当に2日間徹夜して仕上げて、なんとか12時前に修士論文を提出しました。

日本の大学は入るときは大変だけど入ってしまえば学生は勉強しないで遊びまわっているという話、その当時も良く言われていました。

私には理解できません。
みんな本当によく勉強、研究していました。
私は…まあ…比較的…よく勉強、研究していました。
塾のないときは…。

大学院は、いわゆる授業は、そんなにありません。
数学とか英語の授業が週に4つか5つくらいだったと思います。
それらは研究室から出られる息抜きでした。
大学院の学生の本分は研究だからということで、授業は普通に出てたらAがもらえます。
今はどうか分かりません。
当時はもらえてました。

今はどうか分からないと言えば、昔は、工学部の正門と研究室のある建物のドアはコンビニなみの…最近、都会のコンビには夜は閉店するところもあるみたいですが…ハローズなみの24時間オープンでした。
10年位前に徳島大学理工学部に進んだ卒業生によると、今は、時間が来ると施錠されるそうです。

さて…

私は、大学院を修了したら独立するつもりでした。
大学院の2年のときにこの家を建てて、島村塾を開きました。
だから私にとって明峰塾の講師のアルバイトは、お金のためだけでなく必要なことでした。

大西先生からしたら私は最悪の学生だったと思います。
研究が捗らないのに出かけてばかりで、よく叱られてました。
そして怒りながらも詫び状を書いてくださいました。
大西先生の寛大さには、今でも本当に心から感謝しています。

しかも大学院を修了後、お子さんを島村塾に預けてくださいました。
こんな嬉しいことはありませんでした。
私の塾講師としての力を認めてくださっていたということだからです。

受講生の保護者としての恩師に進路指導をするという、なかなか得がたい経験もできました。
あんなに緊張した進路指導は、後にも先にもあの一回だけでした。
終わったら、汗びっしょりでした。
3kgは痩せたと思います。
しかも遠方にお住まいだったので、大学の研究室の帰りにお迎えに来るという…

さて…

私は人前で話をするのが物凄く苦手です。

こんな仕事をしていますが、なるべくなら人前には出たくないです。

そんな私にとって最凶にして最大の恐怖、それが学会の論文発表です。
言ってしまえば大学院のラスボスです。
タイミング的に言えば大学院のラスボスは修士論文の発表です。
でも、修士論文の発表にはそこまでの恐怖はありません。

聞いている先生も学生も知っている人ばかりです。
それにそんなにすごい質問も飛んできません。
先生同士が仲が悪いと学生が巻き添えになって、すごい質問が来て立ち往生するという噂も聞きましたが、そういう場面に立ち会ったことはありません。
なんとなく和気藹々とした感じで進んでいきます。
みんなちょっと薄笑い…薄笑いは違いますね…ニコニコ…も違う…まあ、緊張感は少ないです。
人前が苦手な私にとっても圧倒的な恐怖ではありませんでした。
だから最大の恐怖は学会の論文発表なのです。

大変長らくお待たせいたしました。
ここからが本題です。

これまでの物語は序章に過ぎなかった。
本当の恐怖が今、始まる。

だから、ここからが本題です。

05 高速道路

こんな仕事をしていますが、私は人前で話をするのが物凄く苦手です。

やっと辿りつきました。

話が大分長くなってしまいました。
本当に私の話はあっちこっち迷走します。
わざとやってると思われるかもしれませんが、そんなことはないです。
私は前に進みたいんです。

ところで、こうやって前回の話の続きを書いていますが…私は、物凄い勢いで色んなことを忘れます。
続きものなら読み返してから書けばいいんですが…もっと前に書いた話は、分厚く淀んだ霧の彼方に霞んでいます。

ブログの話なら忘れても大きな問題ではありません。
困るのは生徒の名前です。
ただでさえ忘れっぽいのに、同じ名前がたくさんいます。
当然混乱します。
名前を思い出せなくなります。
思い出せないときは、勝負に出ます。
勝負はだいたい裏目に出ます。
つまり名前を間違えます。
2,3回間違えると間違えた方の名前が刷り込まれます。
もしかしたら私の前世はヒヨコだったのかもしれません。
解らない人は、「すりこみ理論」で検索してください。

前世がヒヨコってことはありません。
それを言うならニワトリだと思います。

さて…

仕方ないとは思うんです。
小さいとはいえ塾ですから、それなりに人数はいます。
私は、男の子は下の名前、女の子は下の名前+「ちゃん」で呼びます。
少し前までは、中学までに入った男の子は下の名前、高校から入った男の子は上の名前でした。
高校生の男の子をいきなり下の名前の呼び捨てはどうかと思うのと、少しでも名前がかぶるのを避けたくて、そうしていました。
それでもかぶります。
ちょっと前まで、ちひろちゃんが4人いました。

数年前に、ある高校生の男の子に、友達は下の名前で呼ばれてるのに、自分は上の名前で呼ばれるのは寂しいと言われたので、全員、下の名前にしました。

これで、さらにかぶるようになりました。

同じ名前が何人かいる上に、私が間違うから、呼ばれる方は大変です。
仕方ないから、生徒を呼ぶときは、そちらに腕を伸ばして呼んでます。
指差すのはちょっとあれだから、手のひらをそちらに向けて…エッグポーズです。
違う名前で呼ばれてそちらを見るとエッグポーズのおじさんが微笑んでいます。
島村塾に入ったばかりの生徒はたじろぎますが、入ってから長い生徒は慣れてるので、普通に話します。
これは、生徒の精神力の鍛錬でもあるのです。
嘘です。

さて…
こんな仕事をしていますが、私は人前で話をするのが物凄く苦手です。

私は本当に本題に入りたいんです。
こんな仕事をしていますが、私は人前で話をするのが物凄く苦手です。

それなのに、私の選ぶ仕事は、人前で何かするようなのばっかり…
テニスのコーチも塾の講師も人前で話をしないと話になりません。

お話した通り、テニスのコーチも塾の講師も望んで始めたわけではありません。

こう書いてみて、ちょっと考えてみました。

そういえば、今、塾で人前に出るのは何にも緊張しません。
相手が子供だからかもしれません。

テニスのコーチも、3ヶ月もしたらドキドキはなくなっていたような気もします。
テニスのスクールは、自分よりも年上の生徒さんの方が多かったです。
前にも書いた鳴門大橋の技師さんとか、某地方銀行の支店長さんとか、建築会社の社長さんとか…それなりの立場の方もおられました。

その方たちを平気で『おじさん』、『おばさん』呼ばわりしてました。
『走れ!おばさん!これでちょっとは痩せる!』
なんて恐ろしいことを…今考えたら、ゾッとします。
でもこういうのがウケたのか、私のクラスは人気がありました。
他のクラスから移りたいって人達もいて、『おじさん』、『おばさん』が一杯来てました。

人前での緊張に相手の年齢は関係ないみたいです。

多分…多分ですけど、仕事だから…かな?
仕事だから責任が…とかじゃなくて…お金を貰ってるから…かもしれません。

つまり、
こんな仕事をしていますが、私は人前で話をするのが物凄く苦手です。
ではなくて、
こんな仕事をしていますが、私は人前で無料で話をするのが物凄く苦手です。
とてつもなくイヤな感じです。

さて…

やっと…やっと、本題です。
わざとじゃないです。
私は本当に本題に入りたいんです。
嗚呼、本題が私を呼んでいる!

さて…

こんな仕事をしていますが、私は人前で無料で話をするのが物凄く苦手です。
テニスのコーチや塾の講師はお金貰うから大丈夫です。
学会の論文発表はタダだから物凄く苦手です。

大丈夫ですか?

学会の論文発表はタダだから物凄く苦手です。
しかも学会の論文発表はタダのくせにもう一つの関門があります。

ネバーエンディングストーリーで言えば『南のお告げ所』みたいな感じです。
全然違います。
でも勘弁してくれ感には共通のものがあります。

学会の論文発表の『南のお告げ所』、それは移動です。

私は、塾の仕事があるので、先生や他の院生とは別行動で、発表に何とか間に合うギリギリまで徳島にいました。
電気学会四国大会は愛媛県でありました。
他の人たちは前の日に愛媛に着いて1泊してました。
私は発表が昼過ぎだったので、前の日の夜は授業をして、その日の午前6時に車で徳島を出て、5時間くらいかけて愛媛に着いて、車の中でスーツに着替えて…スーツ嫌い…ネクタイ締めて…ネクタイ嫌い…15分間発表して…発表嫌い…徳島に帰ってきたのが午後9時過ぎでした。

今みたいに高速道路は、ありませんでした。
多分、あっても使わなかったと思います。

この3年くらい前に鳥人間コンテストを観るために琵琶湖に行きました。
そのときは、高速道路を走りました。
もう二度と走りません。
なぜなら怖いから。
田舎もんの私には一般道が似合っています。
一般道でも大阪の街中を走ったときは泣きそうになりました。

さて…

一般道を往復400kmの日帰りドライブでした。
団体行動ができない人間ですから、こういう方が、まだ嬉しかったです。
でも、たまたま時間が合って、一緒に行く人がいることもありました。

大変長らくお待たせいたしました。

『ところで』って書くからいけないんです。
もう『ところで』禁止です。

ここからが本題です。
今度こそ本題です。
間違いなく本題です。
寸毫の揺るぎもなく本題です。

06 フェリー

こんな仕事をしていますが、私は人前で無料で話をするのが物凄く苦手です。
テニスのコーチや塾の講師はお金貰うから大丈夫です。
学会の論文発表はタダだから物凄く苦手です。

さて…

電気学会全国大会は東京でありました。

ここでちょっと疑問が…

大学院は修士課程で2年間あります。
学会で発表した記憶にあるのは、電気学会四国大会と全国大会、産業応用工学会の3回です。
四国大会は愛媛、全国大会は東京、産業応用は名古屋…2年あるのに各1回ずつしか行ってません。

学会は毎年あるはずなのに、どうして…

思い出しました。

大学院の1回生…M1は論文発表はありませんでした。
M1…上沼恵美子さんの採点でとろサーモンの久保田さんが干されたM1ではありません。
大学院の1回生のことをM1って言ってました。
少しずつ記憶が甦ってきました。

M1、大学院入ってすぐの4月頃は自分の卒業論文を整理してました。
5月頃に各研究室に学部生が配属されます。
学部生の卒業論文は配属から10ヶ月ほどで書き上げますが、そのテーマは、代々引き継がれています。

私のいた研究室では三相誘導電動機とアナログ演算回路と太陽光発電システムの3つだったと思います。
1人か2人で1つのテーマを担当します。

私は1人で太陽光発電システムを担当しました。
その頃は、大学を卒業したら独立して島村塾を開くつもりだったので、生徒にウケのよさそうなテーマを選びました。
三相誘導電動機とアナログ演算回路は、それが何であるかの説明が大変そうなので却下、消去法と響きのよさで太陽光発電システムを選びました。

私の卒論のテーマ、太陽光発電システムのための高周波チョッパ制御電流形PWMインバータは私から始まっています。
私から始まってるって偉そうに言ってますが、全部、大西先生が考えられたものです。
一応、こういうことができないもんかな?みたいに言われて2、3日考えてみるんですが、結局、こうしたらどう?みたいなかなり具体的な提案を頂いていました。
でもまあ、それまでなかったものなので、タイミング的には『私から始まっています』ってなります。
私から始まって、5月に入ってきた学部生の1人に引き継ぎました。
私は私で同じ高周波チョッパ制御電流形PWMインバータについて別の流れで研究を続けることになります。

大学院の1回生…M1は論文発表がないので、自分の研究をしながら、M2や学部生のお手伝いもしていました。

2年間で4回しか発表しないのに忙しいイメージなのは、M2の1年間に4回を集約していたから…だと思います。

さて…

電気学会全国大会は東京でありました。

先生方と他の院生は、ビジネスパックで行きました。
ビジネスパックと言うのは、飛行機とホテルをまとめると格安になるセットだったと思います。

ところで、私は高速道路は走りません。

なぜなら怖いから。

速度だけではありません。
もちろん速度も怖いです。
U=1/2mv^2
^2 は、2乗と読んでください。
速度を上げると、この式が頭に浮かんで恐怖で半笑いになります。
速度が2倍になるとエネルギーは4倍です。
でもそれは、高速道路がイヤ、怖いの理由の3割くらいでしかありません。
高速道路を使わないのは、自由がないからです。
一般道は、コンビニがあります。
きれいな景色や面白そうな店があれば寄り道できます。
高速道路は、目的地まで一本道です。
寄り道はできません。
高速道路を降りたらいいんでしょうけど、それにしても気ままにって感じではないです。
サービスエリア?はあるけどコンビニよりは少ないです。

高速道路の速度と不自由感がイヤなら、飛行機はもっとイヤです。

速度は高速道路の6、7倍でしょうか?
そうなると運動エネルギーは40倍くらい…高速道路が半笑いなら飛行機は爆笑です。
飛行機の中で意味もなく爆笑してたら、引き返されて多額の賠償金です。
飛行機できれいな景色があるから途中で降りようと思ったら、ハイジャックかパラシュートです。
ってか、どっちも無理です。

つまり飛行機には乗りません。

さて…

電気学会全国大会は東京でありました。
先生方と他の院生は、ビジネスパックで行きました。

私は、中国からの国費留学生のTさんと一緒に行きました。
どうしてそうなったのか、どうしても思い出せません。

思い出そうとすると別の記憶が浮かんできて、思い出そうとしていたこと自体を忘れてしまいます。
記憶の奥にある何かを守ろうとする自己防衛本能なのか、何か別の存在による妨害なのか…

単に集中力がないだけだと思います。

とにかく、Tさんと2人で行きました。

まずは小松島港から和歌山港までフェリーに乗って2時間半の船旅でした。

07 新宿

私、フェリーにしたの。
だって飛行機も汽車も涙乾かすには短すぎるでしょう。

さだまさしさんの『フェリー埠頭』をお届けしました。
皆様、いかがお過ごしでしょうか?

さて…

Tさんと私は、フェリーに乗り込みました。
フェリーの中は、重低音のエンジン音とともに穏やかな時間がゆっくりと流れています。

皆様、いかがお過ごしでしょうか?

私は一人でフェリーの中を散策したり海を眺めたり…高速道路や飛行機は苦手ですが、船はわりと平気です。
そこそこ広くて、まあまあウロウロできて、自販機とかあるからでしょうか?
昔、大阪の日本橋に買い物に行った帰り、台風の影響で次の便から欠航っていう高速船の縦揺れで死にそうになったことがあるだけです。

フェリーの中はとても快適でした。

着岸10分前のアナウンスに急かされて昇降口付近でTさんと合流しました。

接岸を待つ行列に2人で並びました。
私達のすぐ前には、なかなかな感じのお兄さんたち5,6人のグループがいました。

皆さんは、チンチロリンという遊びをご存知でしょうか?
お茶碗とサイコロ3つで遊ぶゲームです。
詳しいルールは知らないんですが、サイコロの目のパターンで得点と勝敗が決まるらしいです。
お茶碗は、特に拘るものではなく、形状が似ていればよしとされているらしいです。
当時、フェリーに載ってるトラックの運転手さんが移動中の娯楽として楽しんでいるという不確定情報もありました。
その場合、八百屋さんの店先でリンゴとかミカンを入れて並んでるザルでお茶碗の代用とすることもあるらしいです。
もしかしたら金銭を賭けることもあるかもしれないと聞いた気がします。

さて…

私達のすぐ前の、なかなかな感じのお兄さんたち5,6人のグループなんですが、よく見るとその内の1人は、八百屋さんの店先でリンゴとかミカンを入れて並んでるザルをぶら下げていました。

私も、噂では聞いたことがありました。
例のザルです。
私の持つチンチロリン情報に合致します。
しかしながら、それだけでは判断できません。
もしかしたら、みんなでミカンかリンゴを食べたのかもしれません。
それにトラックの運転手さんだとしたら、一般乗客とは別の下船コースがあるように思います。
トラックの運転手さんじゃないとしたら、もっと怖そうです。

私の思い過ごしかもしれません。
人間、人を見た目で判断するのはよくありません。
私はお兄さんたちを見るでもなく見ないでもなく心の中で呟いていました。
『怖~。見んとこ。』

一緒に並んでいるTさんもお兄さんたちを見ています。
そのとき、Tさんから信じられない言葉が聞こえてきました。
『島村さん、この人たちガラ悪いね~。感じ悪いよ~。』

!Σ(▼□▼メ)

元々Tさんは声が大きかったです。
しかも無駄に滑舌が良くて聞き取りやすい。
しかもしっかり私の名前出してるし!
私は『島村さん』ではない風を装いました。
後ろを振り向いて『島村さん』を探しました。
でもTさんは、私を見ています。
続けて何かを言いそうな感じで私を見ています。
さっきまで穏やかに流れていた時間が、私達の周りだけ凍り付いています。
もしかしたら私だけ凍り付いていたのかもしれません。

私は神様に一生一度のお願いをしました。
『神様、私を透明人間にしてください。(T◇T)』

私の声は神様には届かなかったようです。
永遠のように永い下船までの時間でした。

幸運なことに、そのお兄さんたちには聞こえなかったのか、それとも余りにもストレートなツッコミに気勢をそがれたのか、何事も無く船を降りていきました。
私達もフェリーを降りて…もちろん、私は、例のお兄さんたちがいないか、ビクビクしながらフェリーを降りて、和歌山港駅へと向かいました。

そこからは何事もなく電車と新幹線と乗り継いで、新宿のビジネスホテルに到着したのは、午後8時くらいだったと思います。

ビジネスホテルで先生方と飛行機で行った他の院生と合流しました。

翌日の朝食を買ってあると聞いたので、Tさんと二人で新宿に翌日の朝食を買い出しに行くことにしました。

私『Tさん、明日の朝、何が食べたいですか?』
Tさん『パンがいいです。』
私『パン屋さんを探しましょう。』
中2の英語の教科書みたいな会話ですが、本当にこんな感じでした。

少し歩くと、大きなビルの1階にオシャレなパン屋さんがありました。

私『Tさん、ここでいいですか?』
Tさん『はい。』
パン屋さんに入って、トレーとパンばさみを持って…
私『私がとっていきますから、買いたいパンを言って下さい。』
Tさん『はい…、これと…、これと………。』
私『これでいいですか?』
Tさん『島村さん、私、やっぱりご飯が食べたい。』

!Σ( ̄ロ ̄lll)

私『え?』
Tさん『ご飯を買いにいきましょう。』
私『いや…パン…もう…とってますよ?』

人の話を聞くようなTさんではありません。
Tさんは、すでに店の外です。

私は神様に一生一度のお願いをしました。

『神様…10分だけ時間を戻してください。(T◇T)』

無理だと分かっていました。

私は、仕事帰りの人たちで賑わう新宿のオシャレなパン屋さんで、小さな声で『すみません』と謝りながら、トレーにとったパンを一つ一つ返していきました。

08 テレビ局

さて…

一夜明けて電気学会全国大会当日です。
実は、発表のことはあんまり覚えていません。
あんまりっていうか、何も覚えていません。

だって、30年くらい前の話です。
終戦直後です。

嘘です。

30年くらい前なのは本当です。
覚えているのは発表の前後だけです。
確か会場は明治大学で山の上にありました。
最寄の駅は山の麓にありました。
大学前駅とかって名前だったような気がします。
駅を降りて見上げると気が遠くなるような坂道がありました。
明治大学はその先にありました。
これ登るんかって思いました。
学生さんが原チャで坂道を登ってました。
それを見て、自転車はキツイだろうなって思いました。
周囲には店屋さんが、ほとんどありませんでした。
会場で知らない学生さんと話をしました。
『他の人の発表は何言ってるのか解りませんね。』
みたいな話だったと思います。

会場からは、一人で帰りました。
塾の授業があるからって理由で、自分の発表が終わったら先に帰りました。
もっとも、その日の塾の授業ができるはずもなくて、早く1人になりたかったんだと思います。
つくづく集団行動のできない人間です。

会場からの帰りに帰宅する人達の満員電車に乗って苦しかったです。
電車のドアが開いて、開いたけど入れる余地ないって思ってたら、押し込まれました。
東京の学生さんや会社員さんは大変です。

徳島が田舎でよかったです。

徳島でも満員電車はあるんでしょうか?
徳島には電車は走ってないから満員汽車ですね。
徳島には満員汽車はあるんでしょうか?
汽車通の経験がないから良く解らないです。

電車のない徳島では、鉄道のことを汽車と言います。
鉄道で学校に通うことを汽車通と言います。
満員汽車と言うかは、知りません。
ところで汽車の汽ってこの汽でしょうか?

『汽』は、蒸気や湯気を表すんだそうです。
『汽車』は蒸気機関車が牽引する列車らしいです。
いくら徳島が田舎でも蒸気機関車は走ってません。
観光のために走ってるかもしれませんが、普通に走ってるのはディーゼル機関車です。

だったら、徳島の『きしゃ』は『機車』でしょうか?
なんとなく『攻殻機動隊』とか、キャプテンスカーレットの『追跡戦闘車』みたいでカッコいいです。

さらにところで、昔、香川から徳島大学に通ってた学生がいました。
たまたま同じ実験班だった彼は鉄道マニアで、鉄道で通学したくて徳島大学に入学したそうです。
でも半年くらいで時間的、体力的に辛くなったので徳島に引っ越しました。
でも全然乗らないのは寂しいからと徳島大学から3駅離れたマンションから汽車通してました。
彼が飛行機マニアでなくてよかったです。

ところで、私が思い出したこと、思いついたことを好き放題、書いていますが、これ読んでる人います?

需要、あります?

さて…

会場で覚えているのは、こんなところです。
発表以外は、結構覚えてます。
発表の様子はどうしても思い出せません。
もしかしたら、発表の中で重大な何か、命に関わるような重大な何かがあって、自分を守るために識閾下で記憶を遮断している…みたいな話をゴルゴ13で読んだことがあります。
識閾下って言いたかっただけです。

名古屋であった産業応用研究会は、物凄く鮮明に記憶に残っています。
発表も、そこまでの道も帰りの道もしっかり覚えています。

いつものように塾を理由に他の人達より1日遅れて行きました。
大西先生と他の院生は、前日に名古屋入りしていました。
私は、朝、沖の洲で高速船に乗って天保山に着いて電車を乗り継いで近鉄特急で行きました。
高速船には、ミカンのザルも空気の読めない留学生もいません。
近鉄特急は、M1のときにM2の先輩に教えてもらいました。
ゆったり座れて景色も楽しめて、なかなか快適です。
今もあるなら、新幹線よりお勧めです。
快適な一人旅です。

名古屋駅から会場まで歩きました。
途中で、大衆食堂みたいなところに入ってきしめんを食べました。
色も味も濃くて、私にはちょっとあいませんでした。

会場に到着しました。
会場は、テレビ局のビルでした。
まずここから緊張感が違います。

電気学会は四国大会が愛媛大学、全国大会が明治大学でした。
大学の建物は、確かに大きかったりキレイだったり違いはありますが、大学は大学です。
根本的には、そんなには違いません。
大学には、受付のお姉さんも警備のおじさんもいません。

もしかしたら、今はいるんでしょうか?

受付のお姉さんも警備のおじさんも威圧感はなくて優しそうなんですが、ここは違うんだって思い知らされて、否が応でも緊張感は高められます。
緊張感をさらに高めるのが、客層と人数です。
客層っていうんでしょうか?
観客…聴衆…観覧者…学会はなんて呼ぶんでしょう?
電気学会の大会は、四国大会にしても全国大会にしても、大学の先生と院生が各部門ごとに集まって発表するので1部門あたりの会場の人数もそんなに多くなくて…だいたい数十人でした。
卒論、修論ほどではないですが、先生方同士も顔見知りみたいな感じで何となく和気あいあいって感じでした。

産業応用は、企業の方達がいました。
会場は名古屋テレビの大広間で300人くらいいたと記憶しています。
私ともう1人の院生と大西先生は、会場の一番後ろに座りました。
私の番が来るまで他の方の発表…など耳に入るわけもなく、手元の資料を確認します。

いくつかの研究発表が終わり、私の名前が呼ばれました。
皆さん、一斉に内容梗概のページをめくります。
そのページをめくる音が私を威嚇します。

『はい…』
返事をする声が震えています。

09 強敵 最終回

いくつかの研究発表が終わり、私の名前が呼ばれました。
皆さん、一斉に内容梗概のページをめくります。
そのページをめくる音が私を威嚇します。

『はい…』

返事をする声が震えます。
もちろん足も震えています。
震える足で演台へと向かいます。

演台に立って会場を見渡しました。
そして、すぐに後悔しました。

もし目の前に超えなければならない困難や恐怖があったとして、その大きさや厳しさを確認することがいつもいつもいい結果をもたらすとは限りません。
何度も学んでいるはずなのに、何度も同じ過ちを冒してしまいます。

大学の先生方や院生とは違う、世間の荒波に揉まれてきた企業戦士たちの冷徹にして残酷な視線が私を凍らせます。
多分、冷徹ではなくて普通に次の発表者である私を見てただけでしょう。
なんなら内容梗概見てて、こちらは見ていない人も多かったと思います。
そういうことに関係なく、私は凍りつきました。
箸が転げても凍りつく年頃でした。
もちろん足の震えは止まりません。
むしろ大きくなります。
立っているだけなのに、その振動でクルクルと回ってしまいます。

すみません。
それは嘘です。

足の震えはとまりません。
むしろ大きくなります。
その振動で演台がカタカタなります。

すみません。
それも嘘です。

足の震えはとまりません。
むしろ大きくなります。
演台の机に置いてあるマイクを震える手で握りました。
震える手で握ったマイクに震える声で話し始めました。『フ…ンフ…そ…フン…それで…フ…は…フッ…は…フ…は…ひょう…しま…ふ…(ToT)』

人間の生存できる限界を超えた緊張です。

さらに追い討ちをかけるのがOHPです。
OHP…オーバーヘッドプロジェクタ…です。
OHPシートという透明なセルロイドに自分の論文の要点や図を印刷したものをスクリーンに拡大して投影します。
クイズ番組で解答者の書いた答を拡大して表示する…あんな感じです。
もう今はパワーポイントとかになってるんじゃないかと思います。
OHPは、OHPシートの原稿をすべて拡大してスクリーンに投影します。
ついでに原稿を指し示す指やボールペンも拡大してくれます。
当然、指やペン先が震えているのも拡大してくれます。
スクリーンに映し出された私のボールペンの先が盛大に震えます。
だからって、指示棒でスクリーンを直接指すと指示棒の先がプルプル震えてスクリーンをパタパタ叩きます。
指や指示棒が震えているのを自覚するとさらに緊張感が増します。
緊張感が増すとさらに震えが大きくなります。
声も震えます。
負のスパイラルです。

ここまでは、既に経験済みです。

OHPの上の原稿をボールペンの先で指します。
もちろん震えは拡大されます。
だから震えないように、ボールペンを押し付けます。
カタカタカタ…グッ!

卒業論文、電気学会四国大会、全国大会…強敵(とも)との闘いが私を強くしてくれました。
そして十分な知識を与えてくれました。

なんとか15分間の発表が終わると5分間の質疑応答…他の学会だと挙手して『○○大学の…です。』しかありません。
だから、緊張しながらも何となくほのぼのとした安心感が漂います。
ところが、このときは『三菱電機の…です。』とか『日立製作所の…です。』とかでした。
極度の緊張の中で判断力の鈍った脳に響くメーカー名…メーカーの方だったのは覚えているのですが、どのメーカーだったのかが思い出せません。

何を話したのかも思い出せません。
思い出せるのは、演台から見渡した景色、震える足、震える声、震える指…です。
もしかしたら、質疑応答の中で重大な何か、命に関わるような重大な何かがあって、自分を守るために識閾下で記憶を遮断している…みたいな話をどこかのブログで読んだことがあります。

産業応用よ、おれにはあなたが最大の強敵だった。

質疑も何とか切り抜けて自分の席に戻りました。
隣に座っていた同期のI君が言いました。
『島村さん、マイクのコード、カールして持ってましたよ。』
私、演歌歌手みたいにマイクのコードを丸く束ねてたらしいです。
最近のマイクはコードついてませんね。
『それと、小指立ってましたよ。』
それは、教えてほしくなかった…

我が発表にいっぱいの悔いあり

こうして、大いなる安堵と後悔を残しながら、産業応用での発表は終了しました。

他の人達の発表を観て会場を出たところで、もう1泊する先生とI君とは別れて、近鉄特急から高速船で徳島に帰ってきました。

そうなんです。
名古屋も日帰りだったんです。
どんだけ徳島好きなんって感じです。
本当は、みんなと一緒に行動するのを回避したかっただけです。
今みたいに徳島-名古屋直行の高速バスはありませんでした。売れっ子演歌歌手並みの忙しい人間っぽい1日でした。

終わりです。

さっき、生徒の1人に『読んでます。鳩の話がおもしろかったです。』と言われて、背筋が凍りました。

確かに、ツィッターで告知してるから、読んでる生徒もいると思うんですが…直接言われると、顔真っ赤になります。

ところで、私は、塾の講師をしています。
小学生から高校生まで、全部の教科を教えています。
小論文や志望理由書についても教えます。
そういうときは、必要なら普通の文書も書けるし教えます。
だから、安心して聞いてください。

終わりです。