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暖炉のある部屋



 初冬の山中は、平野部よりもはるかに寒かった。枯葉を踏みしめて歩くと、ザクザクと乾いた音が聞こえてくるのだが、その音がさらに寒さをことさら強く感じさせるものだった。顔に当たる風は痛い程に冷たかった。夜風が全身に叩きつけるように吹いていて、スーツやコートの隙間から入ってくる冷気が身に染みた。

 鉄也が向かっていたのは、指定された駐車場から20mほど歩いた先にあるこじんまりとした洋館だった。見るからに古いものであり、あまり手入れされていない壁には無数の蔦が這っていた。まるで草の家のようにも見える。日本ではあまり見ない様式だった。

 家の前に立って辺りを見回してみたが、この家の他には何も見えなかった。腕時計を見ると、予定通りに9時だった。玄関横にあるコールボタンを押してみた。少しの間を置いて、ドアが開いて痩せた老人の男が顔を出した。薄い頭髪で痩せて白い髭を生やしており、黒いスーツの上に寒気対策用の肩掛けを羽織っていた。

「おお、ようこそおいでなさいました。ささ、どうぞお入りください。お寒うございましたでしょう。」

「あ・・・ああ。貴方が酒匂さんですか?」

 男は鉄也のコートを受け取り、ハンガーにかけながら頷いた。

「左様。お父上の管財人、酒匂孝之でございます。わざわざお寒い中、申し訳ございませんなあ。お夕食はお済になられましたかな?」

「あ、いえ。まだです。」

「それはそれは・・・まずはこちらへどうぞ。」

 この男から連絡を受けたのは、1か月ほど前のことだった。聞けば父親の興梠正明の財産について話したいとのこと。正明はすでに他界していて一周忌も済ませたばかりだったし、遺産相続については担当弁護士と相談しながら無事に済ませていたので詐欺だと思い、断っていたのだ。しかしこうやって会うつもりになったのには理由があった。

 家の中は白い壁紙で統一してあり、通されたリビングにはおそらく海外ものと思われる大きな三人掛けソファーが2台置いてあった。簡単な装飾は施してあったものの、本当にシンプルな部屋だった。

「酒匂さん、早速ですが、貴方は本当に父の管財人・・・なんですか。」

 鉄也は酒匂が運んできたコーヒーを手に持ち、飲む前に話し出した。父親から多少の遺産は相続していたが、相続税などを支払ったらさほど手元に残るほどのものではなかったし、わざわざ管財人に依頼するほどの資産などあるはずもなかった。

 酒匂は静かに笑みを浮かべながら、名刺を手渡した。そこには「(株)ノーティテパー代表 酒匂孝之」とあった。

「の・・・ノーティテパー?」

 酒匂は名前についてはスルーした。

「一応は管財を主な業務としておりますが、会長が個人的に作られたグループ企業対象のみのお仕事となっております。」

 鉄也は驚いた。父の正明は中小企業に永年勤続してはいたが、そんな企業グループを作れるほどの財力など絶対に有りえなかった。退職金を食い潰しながら、身体に負担のかからない程度のパートをやっていたことは知っていたので、そのような財産などあるはずもなかったはずだ。

「酒匂さん、僕が貴方と会う気になったのは、貴方からいただいた手紙に僕の子供の頃の写真が同封されていたからです。警察に届けようかとも思いましたけど、最後にあったサインは間違いなく父のものでしたね。何のことか全くわからなかったんですが、まさかそんな企業グループを父が持っていたなど信じられません。」

 通常ならば絶対に詐欺としか思えない話だった。しかし父親のサインもあったので来てみたものの、それでも半分以上疑っていた。

「まあ、無理もございません。私の言葉でご説明するよりも、まずこれをご覧いただきましょう。お話はそれからで。」

 酒匂は棚の扉を開き、ナンバーロックを解除して中に入っていた分厚いファイルを出し、鉄也の前に置いた。おそらく本革の、程よく色がついたカバーがあり、そこには「興梠財団」と掻いてあった。

「ざ、財団だって?確か、財団設立の条件って・・・。」

「はい。財団は設立時に300万円以上の資金を拠出する必要がございますね。」

 酒匂の説明を聞くまでもなく、鉄也もそのハードルの高さくらいは知っていた。鉄也が知る父の財務状態では、拠出金ですら不可能なはずだった。財団維持にはその後も厳しい運営条件は必要とされるはずだ。

「鉄也様、中をご覧ください。」

 酒匂に促され、鉄也はファイルを開けて目を通した。「設立者 興梠正明」・・・「理事 興梠鉄也」・・・さらに目を通していくと、「誓約書」と書かれた書類があった。そこに書かれていた内容を読んでいくうちに、鉄也の顔色が変わった。

「酒匂さん、これって・・・。」

「はい、理事会一致の上で、正明理事長逝去後は、鉄也様、貴方が理事長に就任されることを承認されたということでございます。」

「ということは、僕がこの財団の理事長になるってことですか?」

「左様でございます。」

 小市民だった自分が、いきなり巨額な財残を相続人になったとは。
 鉄也はやや冷めたコーヒーを一気に飲んだ。父のことを思い出してみても、全くそんな素振りも見えなかったし、母からも聴いたことはなかった。

「それで鉄也様、実はもうひとつございます。」

 酒匂はファイルの最後のページを開いた。そこには一通の封筒が入っており、間違えようのない父親の筆跡で「鉄也様」と表に書いてあった。酒匂は封筒をファイルから出し、開封した。そしてそれを鉄也に手渡した。鉄也は中の手紙を取り出して読んだ。

「・・・え?」

 意味がわからなかったので、鉄也は確認するように声を出して読んでみた。

「財団理事長就任条件

一 興梠鉄也本人であることを、管財人酒匂孝之が確認すること

二 興梠鉄也本人が独身であり、かつ子供がいないこと

三 2月7日の午前零時この家において、火を起こした暖炉の前のソファーに座していること。」

 独身であることや、暖炉の前にいることがなぜ必要なのか。鉄也は立ち上がり、件の暖炉のある部屋に入ってみた。いたって普通の部屋で、一人掛けのソファーとモニターとブルーレイデッキがあった。また左手にあるチェストには多くの写真が飾ってあり、鉄也はその中から一枚だけ親子3人で映ったものに目がいった。しかしその写真は鉄也が知らないものだった。おそらくは鉄也の七五三記念写真だろう。3人ともスーツを着ていた。

「それは、お父様が本当に大切になさっておられたものでした。ここに来られるたびに、じっくりと手に取ってお写真を眺めておられたものです。」

 鉄也は酒匂の一言が気になった。

「あの・・・ここに来るたびに・・・って仰いましたね。どのくらいの頻度で来てたんですか、父は。」

「左様でございますねえ。月に・・・10日ほどでしょうか。」

 鉄也は眉間に皺を寄せ、小さく笑った。

「酒匂さん・・・嘘はやめましょうよ。父はね、毎日決まったように僕の食事を作るために家に帰ってきてたんですよ。」

 鉄也は写真を置いた。どうせ父親を騙して得たものだろう。

「新手の詐欺かよ。とんだ茶番だな。」

 酒匂を疑っていた鉄也は、何かしらの嘘がないかどうか、そればかりを探ってきていた。どうやらこれは、とんでもない詐欺のようだ。鉄也は玄関に向かって歩いていき、コートを手に取った。

「お待ちください、鉄也様。では、これをご覧になられてから、お戻りになるかどうかお決めになられてみてはいかがでしょうか?」

 酒匂がリモコンのスイッチを入れると、部屋のモニター画面が起動し、音楽が流れだした。鉄也はその音楽を聞いて固まった。

「井上・・・陽水?」

 それは、鉄也が大好きな曲「人生が2度あれば」だった。そして父親もこの曲が好きでよく口ずさんでおり、それを聴いて鉄也は覚えたものだった。これは父との大切な思い出の曲で、他人が知るものではないはずだった。酒匂は変わらず静かな笑顔を浮かべたまま、鉄也を部屋に誘っていた。

 鉄也はまだ疑いながら暖炉の部屋に入っていった。モニターからは曲が流れ、黒い背景画面に歌詞がスクロールしながら流れていた。やがて画像がフェードアウトして消えていき、少しの静寂の後、画面に映ったのはあか抜けた身なりの老人だった。よく知っていた顔だった。

「親父・・・親父?」

 画面の中の男は、紛れもなく興梠正明本人だった。しかしそれは、鉄也が知っている父とは明らかに雰囲気が違っており、豪華な西洋風の部屋にいて豪華なソファーに座り、手には火のついた葉巻を持っていた。アスコットタイと上品なクリームイエローのセーターを着こんでおり、漆黒のパンツをはいている。父親は普段はジャージばかりだったし、喫煙しないはずだったのに。

「酒匂さん、これは・・・?」

 言いかけた鉄也を、画面の中の父が遮った。

「鉄也、もう一年になるな。お前と会えなくなって、寂しいよ。」

「親父?・・・親父!な、なにがどうなってんだ!」

 しかし画面の父は構わず続けた。どうやら録画のようだ。

「このビデオを作るにあたって、オープニングにお前が好きだった曲を流しているよ。私とお前の、同じ思い出だからな。」

 自分が知らない父親が、死後にこの動画を作ったというのだろうか。鉄也はもう何がなにやら全く理解できなかった。

「お前には私の財産をどうやって継いでもらうのか、ずいぶん悩んだよ。」

 その意味もわからなかった。それに父は一人称を「俺」としていた。「私」など使う父を見たこともなかった。別人が父親を演じているようで気味悪かった。

「鉄也。お前はいい息子だった。大切なことは、お前は私の全てを受け継ぐ資格があるということだ。」

 正明の横には、ここにいる酒匂が映っていた。ここにいる酒匂と雰囲気も服も変わらない。そして録画はここで、唐突に終わった。

 酒匂はモニターのスイッチを切り、優雅な動きで鉄也を元の部屋に誘った。さっきまであったはずの飲みかけのコーヒーカップはなく、新しいカップに熱々のコーヒーが注がれていた。香りが際立つモカは癒し効果を持つ。少なからずショックがある鉄也にを気遣ってのことなのだろうか。鉄也はフラフラと歩いて、椅子に落ちるように腰掛けた。髪がバサバサになっており、寒いのに汗をびっしりかいていた。

 壁にかけてある時計が、ボーンと鳴った。鉄也が時計を見上げると、もう10時になっていた。あっという間に1時間が経過していたようだ。

「お気持ちお察しいたします。無理もございません。ごゆっくりしていただきたいのは山々でございますが、如何せんもうお時間が迫ってございます。お夕食をご用意しておきました。お持ちいたしますので、少々お待ちください。」

 テーブルに置かれたのは、ハムと卵と野菜を入れたバケットサンドとクラムチャウダーだった。簡単なメニューだったが、どちらもすごく旨かった。鉄也が食べ終わると酒匂は静かに皿を下げ、アップルパイを小さくカットしたものを置いた。これも鉄也の大好物だった。考えてみれば、バケットサンドのチョイスもクラムチャウダーも、鉄也の好物。なぜ、知っているのだろうか。鉄也は横に立つ酒匂を見上げた。

「酒匂さん・・・なんで僕がこれが好きだってわかったんですか?」

 酒匂はデザートの皿を下げながら、ほんの少しだけ口角を上げて笑ったように見えた。

「お父上からよく聴かされておりましたのでね。受験勉強のときには、いつもアップルパイをお召になり、ときにはご近所のカフェでサンドイッチとスープのセットをお食べになりながらされていたと。」

 それから鉄也は酒匂に促されるままに風呂に入り、用意してあったブルーデニムと白いシャツ、軽くて暖かいグレー地のセーターを着た。あつらえたようにぴったりとフィットしていた。父親が子供のことを知ってはいただろうけど、サイズまで知っていたのだろうか。着替えて暖炉の前に行く頃には12時15分前になっていた。

 鉄也は部屋の中を改めて眺めてみた。およそ20畳ほどの広さであり、正面に大きな暖炉があり、すでに赤々と火がくべられていて暖かった。あの家族で映った一枚を手に取って見てみた。母の京子が他界したのは鉄也が小学校入学直前だったので、ほとんど顔は覚えていない。写真の中の母親は丸顔でニコニコ笑っていた。鉄也にしてみれば、それを母と認識することはできたものの、どこか懐かしいような愛おしいような、そんな気になるものだった。

 他の写真を眺めていると、酒匂が部屋に入ってきて、暖炉の前に小さなガラステーブルを置いた。そこにはあのファイルが置かれていた。

「鉄也様。」

酒匂の声で、我に返った。

「そろそろお時間でございます。どうぞ、お座りください。」

 父の遺産相続の条件には不安もあったが、なるようにしかなるまい、と思った。鉄也は酒匂の後に部屋に入った。暖炉には赤々と火がくべられていた。

 鉄也がソファーに座ったのは、零時5分前だった。酒匂は鉄也の横のテーブルに、そっとコーヒーを置いた。モカのよい香りが立ち昇る。湯気はゆらゆらと動き、鉄也はその動きから目を離さなかった。

 いや・・・できなかった。そらそうとしても目も顔も動かせない。

「う・・・うああ?」

同時に鉄也の中に全く場違いな感情が沸き起こった。それは激しいほどの「切なさ」だった。全く意味なく感情が芽生えることは誰にでもあることだが、これはその場に座っていることがたまらなく嫌になるくらい、強烈な感情だった。意味ない感情の暴走は、辛い。

「た・・・助けて・・・。」

鉄也はどうしようもなくなり、大粒の涙を意味がわからないまま流し続けた。両手はソファの肘置きを強烈に強く握りしめ、腰は半分浮いていた。寒いはずなのに大量の汗が流れて全身がブルブルと震えていた。鉄也は傍らにいるはずの酒匂を顔を動かせないまま見た。

「さ、酒匂さん、こ、これはどうなって・・・?」

 酒匂の顔からは表情がなくなっていた。機械のような冷徹な顔、誰かが作ったような顔がそこにあった。鉄也は焦りと怒りもこみ上げてきた。

「おい、どうした!」

 酒匂の顔に表情が戻り、そして鉄也を見てかすかに微笑んだ。

「これは失礼。この先のことをつい、考えてしまいましてな。」

「この先、だと?」

「左様。この先、のことでございますよ。もうすぐです。前をしっかりと御覧なさいませ。」

 鉄也は必死で顔を前に向けた。暖炉の火が、鉄也の顔に届くのではないかと思うくらいに大きくなっていた。感情の暴走もますます強くなり、それに応じるように全身の緊張は強くなってきていて、このまま死んでしまうのではないかと思うほどの苦しさだった。目が回り、周囲の空気さえも渦巻いていくような感覚があった。もはや口も動かすことができず、次第に何も考えることができないようになってきていた。

 永遠に続くかと思われる時間は、唐突に終わった。壁かけ柱時計がボーンと鳴ったと同時に、鉄也の中の感情が瞬時に消え去り、暖炉の炎も静かな火となり、鉄也の全身から一気に力が抜けた。鉄也はソファーにへたりこんで、痛む頭を左手で押さえた。そしてコーヒーが飲みかけであったことを思い出し、右手で取ろうとしたとき、鉄也は自分がすでに何かを持っていることに気がついた。指の間になにかある。それは細長いものだった。鉄也は右手を上にあげ、それを見た。

 それは、葉巻だった。しかも火がついている。そして鉄也はその葉巻を持っている腕にもまた驚いた。着替えたセーターはグレーだったはずなのに、今着ているものはクリームイエローのセーターだった。

「ど、どうし・・・。」

 鉄也は途中で声を出すのをやめた。いや、否応なく出なくなった、と言うべきか。たった今自分で出した声が、それまでの自分のものではなく、明らかに違った他人の声だったからだ。この声の主が誰か気がついたときには、本当に声を出すことが怖くなっていた。この声は、紛れもなく、父の正明の声だった。

「こ、これはどうしたことだ?」

 鉄也は目の前の暖炉から聞こえてくる声が、かつての自分のものだと気づいたが、もはや何がどうなってしまったのか全くわからず、ただただ混乱するだけだった。鉄也は暖炉にゆっくりと顔を向けた。そこには鏡があるかのように、鉄也自身がいた。

あちらにいる自分は父親の声で、戸惑っている。どっちにいる自分が本物なのかすわわからなくなってきていた。

「ご主人様。」

「ご主人様。」

 酒匂の声が、あちらとこちらで同時に聞こえてきた。暖炉の向こう側では、自分と酒匂がなにやら話しあっていた。そしてあちらの酒匂は自分に見える者の右側に立っていたが、こちらの酒匂は父親の姿をした自分の左側に立っていた。そこだけが、合わせ鏡のように見えた。

「さ、酒匂さん、これはどういうことなんだ!」

 父と同じ姿の鉄也は怒鳴った。こちら側にいる酒匂がそれに応えた。

「鉄也様はパラレルワールド、というものをご損じですかな?」

 名前くらいは知っていた。酒匂は近くにある椅子を引き寄せて足を組んだ。

「パラレルワールドというものは、現実に存在するのですよ。しかも無数に。あたかも木に生った葡萄のように多くの枝に分かれ、さらに房に分かれているようなものとお考えください。ですが、実もいつかは落ち、枝も枯れますな。宇宙においても、それはございます。ときどき「刺激」という栄養を与えてやらねばね。ただその刺激は同じレベルのものでなければなりません。」

「同じレベル・・・?」

「左様。わかりやすく申せば、同じ大地、同じ生物、同じ因果関係でなければなりません。なにせ、同じ世界なのですからね。人間においては、親子兄弟姉妹、本人ということになります。その刺激を与え、管理するのが、私たち高次元住人の役割なのですよ。あ、この身体はもちろん、こちらの世界のものですが。」

「高・・・次元?え?え?どういうことか、全然わからんぞ!」

 鉄也の激高を受け流した酒匂は、右手に火のついた葉巻を瞬時に出してみせた。

「鉄也様、あなたは線を引いたり、点を書いたりはできます。しかし時間には逆らえない。ということは、時間も空間も自在に操ることができる次元があって、そこに住む者はパラレルワールドさえも自在に操れるわけでございます。私はその管理官、とでも申す者でしょうか。肉体はこの次元にマッチするようにしてはいますがね。まあ詳しくは語ってもあなた方にはご理解いただけないでしょうが。ただ・・・。」

 酒匂は葉巻を再び消してみせた。

「この世界の調和がとれていないと、私どもの世界にも影響がございますのでね。なので、ときどきこうやって調整しているわけですよ。」

 鉄也はそれも聞いたことがあった。我々は時間を扱うことはできないが、より高い次元の目線で見ると時間も扱えるのだと。鉄也は気づき、背筋が寒くなった。そして肝心なことに気がついた。

「・・・ということは、僕と親父は、これからどうなるんだ?」

「どうなる?どうもなりませんよ。調整と言うのは、変わらない状態にしておくことです。」

「で、でも、これは親父じゃないか。なんで僕が・・・。」

 そこまで言って、鉄也は気がついた。パラレルワールドに刺激が必要で、しかも近親でなければならないと酒匂は言った。それは、「そのまま」の世界にしておく、ということなのか。

「左様でございます。調和が一番。」

 鉄也の考えを見透かしたかのようにそう言うと酒匂は立ち上がり、あちら側の酒匂と顔を合わせ、両手を同時に突き出した。

「さて、そろそろここを閉じますか。こうしたポイントは何か所かありましてね。ポイントを起点として世界に刺激が加わるのですよ。そして・・・。」

 2人の酒匂は同時にニヤリと笑った。この世の存在とは思えない、何か奇妙なもののように見えた。もはや元の酒匂には見えない「もの」は、酒匂と同じ声で言った。

「不要になった存在は、消去されます。これまでのあなた方は存在不要というわけです。」

「なんだって?」

 全く合せ鏡状態になっている二人の酒匂の両手が、ゆらゆらと動き始めた。

「何も問題はございません。」

 鉄也は立ち上がろうとしたが、指一本動かすことができなくなっていた。まるで他人の身体のようだった・・・事実そうなのだが。そして鉄也の頭の中に、何かが抗えない強い力で強引に入ってくるのがわかった。記憶を根こそぎ持っていかれる感覚に、鉄也は先ほど感じたのと同じような切ない感情が暴走していくのがわかった。

 遠のく意識の中で、鉄也は母京子のことを思い出していた。母親の顔が、あの写真のものから別人へと変化していったが、全てがどうでもよくなっていった。かつて興梠鉄也だった記憶がだんだんと遠いものに感じ、そしてついに、鉄也はそこにいなくなった。鉄也が最後に感じたのは、巨大な静寂が自分を包み込んでいく様だった。


※         ※


「おお、俺はどうしたんだ・・・?」

 興梠正明は、なぜ自分がここに座っているのかが思い出せなかった。

「ご主人様?」

「うん?おお、酒匂か・・・すまんが、コーヒーをいれてくれんか。」

 熱いコーヒーをすすっているうちに、正明の思考はすっきりしてきた。そして思い出した。

「そうだった。せがれの一周忌があるんだったな。」

「左様でございます。もう一年になりますね・・・鉄也様がお亡くなりになられて。」

 正明はソファーの横にあるフォトスタンドを見た。そこには病床に寝ている鉄也と妻と3人で写った写真があった。家族で最後に撮影したものだった。

「あの世と言うものがあるのなら、あいつは今ごろ何をやっているのかねえ。」

 この撮影は鉄也は他界してまもなく撮影していたものだった。鉄也は長期に渡る白血病との戦いに、ついに勝つことはできなかった。妻の幸恵も疲れ果て、しばらくは認知療法が必要になるくらいに落ち込んでいた。正明も気落ちしており、気のせいか世界中で天候不順とか震災とか太陽黒点の異常発生とかのニュースが頻繁に耳にするようになっていた。世の中も悲しんでいるようだと、そう思っていた。

「ご主人様、奥様がおいでになられました。」

 酒匂が幸恵の手を持って、部屋に入ってきた。ずいぶん回復はしていたのだが、まだ歩行することは満足にできなかった。幸恵は、正明の横に座った。

「あなた、またこちらでご覧になられてたの?週末2,3日は必ずここでお暮しじゃあありませんか。」

「まあな。あいつへ作ったこのビデオを見ていると、あいつもあちらの世界でこれを見ているんじゃないかなと思ってな。あいつに聞こえるように、俺の声も入れておいたんだが・・・無用だったな。」

「いいえ、きっと聞こえてますよ。この別荘も、鉄也さんの療養のために買ったものですしねえ。そうかもしれません。」

 正明はビデオを最初からスタートさせた。あの歌が流れ、赤子から幼稚園、小学校、中学、高校、大学と鉄也の記録動画が流れていった。何回も見たはずなのに、幸恵の目からは涙がこぼれ出してきた。

「鉄也さんは、ときどき・・・もし願いが叶うのなら、全然違った人生を送ってみたいって言ってました。幼稚園からの一貫校じゃなく、普通の学校に行って進路で悩んで恋して結婚して子供ができて・・・そんな暮らしがしてみたかったって。病気で苦しんだ人生に、疲れていたんでしょうかね。私も、もし京子さんが生きておられたらどれだけ助けになるかと思い悩みました。鉄也さんは、京子さんがお好きでいらっしゃいましたからねえ。」

 正明はファイルの中から一枚の写真を取り出した。それは、京子と3人で撮影した七五三の写真だった。

「もう京子のことは言うな。七五三の帰り道に、あんな事故に会わなけりゃ!俺だって、やり直せるものならもう一度別の人生送ってみたいさ。若い頃に戻れたらな・・・。代われるものなら・・・あいつの代わりに俺の身体をくれてやってもいいと、思ってた。」

 正明は、テーブルの上に置いてあったファイルを手に取った。

「いずれにせよ、我々の財産は鉄也名義に変えてある。我々がいなくなった後の財団の運営は理事会が決める。そういうことで理事会にも承認させた。後は、あいつの遺言に従って使うことであいつの人生にも意味が出てくるだろう。あいつはなぜか、高次元学会へ全面寄付すると残しておった。なんでも素粒子の世界を追求すれば世界が変わるから、と。よくわからんがな。」

「そうですね・・・。」

正明は自分が理事会に承認させた遺言状を手に取って読み返した。そこには2か条の遺言条件が書かれていた。3番目は、なかった。

ビデオは終わり、最後にテロップで「製作(株)ノーティティパー」と流れた。

「ご主人様、奥様。鉄也様はきっとあちらの世界ではそういうお暮しをなさっておられますよ。あまりご心配なされますと、鉄也様もご安心なさりません。」

 正明は残ったコーヒーを飲みほした。これは鉄也も好きなモカブレンドだった。

「ところで、なんでお前の会社の名前はこうなんだ?」

 ビデオ制作会社は、酒匂が立ち上げたものだった。

「REPETITION。繰り返し・・・という意味でございますが、逆にすれば、NOITITEPERになります。人生にやり直しはあってもいいのかも、という思いで名付けました。」

「そうか。では、後のことは頼む。」

 正明と幸恵は、後のことを酒匂に任せて本宅へと帰っていった。見送った酒匂は暖炉の前に立った。まだ細々と火はあったが酒匂は暖炉の中をじっと見て、そして両手を前に突き出した。何かに手が触れ、酒匂はかすかに笑った。そして言った。

「鉄也様・・・いや、御主人様。そちらでのお暮しはいかがでしょうか。再び若い時代に戻りたいという貴方の願い、確かに叶えましたぞ。」

 そう言うと酒匂はパッと消えた。

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