爺さんの墓参り

先日、気まぐれを起こして墓参りに行った。本当に気まぐれだ。

「墓参り」という行為には一生縁がないと思っていた。何なら今でも、俺の中では「墓参りに行く」と「血液型占いを信じる」は完全に同じ棚に分類されている。つまり、バカな真似をしに行ったのである。

社会人生活2年目の現在。
アパートで独り昼飯のピザを食っている最中に、古い記憶を思い出した。まだ俺が中学生だった頃、爺さんが一度だけ「墓参りには来てほしい」と呟いていたのだ。

なぜ今この時機に思い出したのかは自分でも分からない。大して印象的でもなかったはずだ。それよりも当時は俺の人生の中で最も生活がぎりぎりだった。殴られる、蹴られるはまだいいのだが、空腹が堪えた。人間、腹が減ると本当に絶望的な気分になる。いつも次の食事のことを考えていた(どうして中学校には給食がないのだろうか。いわゆる毒親にも段階があって、「給食費くらいなら一応払う」層がいる。給食がなくなるとこの層にいるガキは栄養失調コースに全速で突っ込むことを余儀なくされる。俺がそうだった)。

しかし、それを稀にではあるが救ってくれたのも爺さんである。その時も菓子パンくらいもらっていたのかもしれない。

「墓参りには来てほしい」という言葉は、爺さんのどのような感情が込められたものだったのか。今では知る由もない。あるいは、どういう感情があったとしても、死んだのだから関係がない。骨だけでは俺の来訪を確認する術はないだろう。

したがって、どういう観点に照らしても、「バカな真似」だった。俺は電車を乗り継いで、「ああ、いまバカなことをしている」と思いながら墓地に到着した。

当然、墓参りの作法は知らない。スマホでググれば分かるのだろうが、調べる動機がなかった。腕組みをし、墓石を眺めながら、「感傷に浸るにしても、自宅で良かったな」と思った。

何もやらない以上、必然的に退屈だった。数分も持たず、帰路についた。そしてアパートに戻って、こうして考えの整理もつかないまま記事を書いている。今回支払った電車代と、費やした時間は何だったのだろうか。自分にも良心があることを確認し、ささやかながら道徳的に立派だと自賛したかったのか。

だとしたら、本当にバカだ。二度とやるまい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?