読考録「『堕ちる果実』コミュにおける『道を外れた者』について」

※デレステの『堕ちる果実』イベントコミュのネタバレがあります



 『堕ちる果実』コミュOPの冒頭に「道を外れた者たちの物語」という表現がある。

 名前欄こそ「???」だが、蘭子の声で、バックログにも蘭子のアイコンが使用されているあたり、これを含む一連の言葉は神崎蘭子の述懐という体のモノローグだと考えることができる。
 つまり、蘭子の認識によれば、この物語の登場人物は「道を外れた者たち」ということになる。全員が全員そうではないかもしれないが、少なくとも主要な人物は道を外れていると、考えている。

 そして蘭子が自身の言葉でもって「道を外れている」と類似した表現で指したのは、自分自身と黒埼ちとせの二人。

 「正統派ではない」、「王道を歩む者ではない」。いずれも「道を外れた」と、完全に一致するわけではないにしても重なる部分は多いと、察することはできる。

 だが同時に、今回のコミュにおいて、蘭子は自分もちとせも「何も悪いことはしていない」と複数回に渡って主張している。

 悪いことをしたから道を外れた、のではない。道を外れるのは悪いこと、でもない。蘭子は悪いことをしたのは否定した上で、自分たちを「道を外れた者」と評した。これはつまり、少なくとも神崎蘭子の認識において「悪いことをしていない」ことと「道を外れている」ことは矛盾せずに両立するのを意味する。

 一般に、道を外れると表現したとき、その意味するところはそれなり以上に深刻であることが多い。犯罪を犯した、人倫に悖ることをした、など。蘭子の用いる「道を外れる」とはまるで合致しない。では蘭子の言う「道を外れる」とは何か? その答えは以下の通り。

 「正統派ではない」、あるいは「王道ではない」。蘭子の言う「道を外れる」はそういったものを指す、とする先の説が正しいことが明示されている。

 当然の疑問が浮かぶ。いくら何でも、指し示すものに対し使う言葉が大仰に過ぎないか? また、普通や王道でないというのは、特にシンデレラガールズにおいてはまったく珍しいことではない。それほどに強調する意味、あるいは意義、はどこにある?

 以下、私見もいくらか交えつつ論考する。

 第一の疑問、言葉の選択が大袈裟に過ぎること、に関しては「元より蘭子の言葉選びは大袈裟である」で一応の説明をつけることはできる。俗に蘭子語と呼ばれる独特な言葉遣いの一例として「普通でない=道を外れた」があると捉えるのは、安易だが大きな矛盾はないように思われる。
 あるいは、14歳という年頃ゆえの多感さや敏感さが反映されているとも考えられる。嗜好や言動が周囲とは違う……長じればそういうものと割り切れる差異のひとつも針小棒大に受け取ってしまう。そんな背景から「普通でない=道を外れた」という言い回しが生じたというのは、そこまで突飛な発想でもない……決め手となる根拠にやや乏しいが。

 そして第二の疑問、シンデレラガールズにおいて珍しくない「普通でないこと、王道でないこと」を殊更に強調するに値する理由。こちらに関しては、むしろ「普通でも王道でもないことは、他ではたいてい当たり前に過ぎて、話題に挙げるまでもない」ことが肝かもしれない。

 虹色ドリーマーのユニット曲『オタク is LOVE!』のイベントコミュは、そのほとんどが同ユニットのメンバー三人が同人誌を制作するシーンか、その同人誌の中で描かれる物語で占められている。一般に想起されるようなアイドルとしての活動の場面などは本当に申し訳程度にしかない。その意味において、こちらのイベントコミュは間違いなく「道を外れている」と言えよう。

 だが、そのこと自体に問題はない。アイドルの私生活として思い浮かべられるようなものとはまったく重ならないのだとしても、その在り方が虹色ドリーマーらしさに満ち満ちているなら、正解なのだ。「自分たちに相応しい道を行く」のが肝要なのであって、その道が普遍的なものでないのは、多くの場合はわざわざ言うまでもなく当然のことなのである。
(蛇足だが、「自分たちに相応しい道」を模索した結果として「正統派の道、王道」に行き着くということもありうる。いずれにしても、「道を外れているか、外れていないか」それ自体はさほど重要ではなく、故に深く語られずに済ませられがちになっているのだ)

 その上で、このコミュにおいて「道を外れている」ことを殊更に強調したのは何故か? さほどに難しい話ではない、「道を外れていることそれ自体が、今回の物語における重要なテーマ(少なくともその内の一つ)だったから」に他なるまい。そのために、『堕ちる果実』コミュに登場したキャラクターは、アイドルもそうでない者も何かしらの形で道を外れているのが伺える。

 神崎蘭子と黒埼ちとせは、当人たちの語を借りれば「闇の者たち」「闇の住人」だという。その意味するところに多少の違いはあれど、学校で浮いているのは共通のようだ。

 白菊ほたると一ノ瀬志希は、道の外れ方が受動的か能動的かという軸の両極に位置する。片や降りかかる不幸のために普通の生き方ができないほたる、片や自らの私利私欲のためなら責任も平気で放り出す志希、という具合に。

 先の二人ほど極端ではないとしても、白雪千夜と二宮飛鳥もそれぞれ受動的/能動的に道を外れている者たちと言えるか。

 固有の顔や名前を持たない、いわゆるNPCに関してもそれぞれに道を外れているのが明示されている。モブ子は登場直後から自身を平均以下(つまりは普通にすらなれない)と卑下しており、自らを陰キャと呼ぶのを躊躇しない。

 ライターの担当はゴシップ誌、社会の鼻つまみ者に他ならない。社会に必要だと説かれてはいるが、正道にいるとは言い難い。

 この二人に関しては、道を外れていることを特に強調するためか、各々と同等の立ち位置にいながら道を外れていない者も描かれている。モブ子はクラスの陽キャ達、ライターは真っ当なアイドル雑誌の記者がそれに該当する。

 モブ子とライターほど目立たないものの、他のNPCも少ない出番ながらに道を外れている様子が描かれている。
 コラボ相手のブランド社長は、あまり売れないと自ら言いつつも誇りを持ってゴシックテイストの服を販売している。あえてネガティブな話題にも触れているのは、道を外れていることを少しでも印象付けるためだろうか。

 シーシャカフェのマスターは、自らの店では社会的地位も本名も伏せねばならないという。なかなか癖のある言い回しも含め、実に分かりやすく道を外れている。

 プロデューサーに関しては、取り上げるかどうか自体もまず迷うところだが……スキャンダルを炎上プロモーションだったということにする奇手を確たる勝算もないままに採るあたり、良くも悪くも真っ当とは言い難いだろう。アイドルを信じる、その一念でここまでの博打を打つのだから。

 物語において似たような表現や事物が、繰り返し、手を変え品を変え出てきた時。それは大体において、それが重要なテーマであることを意味する。『堕ちる果実』コミュにおいて、「道を外れている」というのが少なからず大きなウェイトを占めているのは、ほぼ間違いない。
 冒頭に「道を外れた者たちの物語」と提示したのは、この物語の軸を明確に伝えておくという機能上の意義があったのだ。学術論文で例えるなら、序論でその論文の目的や背景を明示するのに近しいか。

 では、そうまでして「道を外れていること」それ自体を強調したのは何故か? ここまでお膳立てをして、『堕ちる果実』イベントコミュはどういったことを表現しようとしたのか? それはまた別の機会、気分が乗った時にでも論考しよう、といったところでひとまず筆を置くこととする。

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