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ミッドサマー、ホルガにおける「五月の女王」の風習

 ぼくは『ミッドサマー』が日本で見られるのをとても楽しみにしていた。白夜のスウェーデンで展開される「明るいホラー」がどのようなものか気になっていた。この2月に至ってようやく見られたというわけだ。
 『ミッドサマー』は「欧米の個人主義 vs ホルガの共同体主義」「主人公ダニーの救済」をえがいた映画として観ることもできるが、その見かたは全面的にただしいわけではない――などということはすでにまつきりん氏の記事で示されている。この記事とぼくの所感は非常に近い。

 ということで、このあたりの話はおまかせして、劇中でダニーが選出される「五月の女王(メイクイーン)」にまつわる儀式について書きたいと思う。
 『ミッドサマー』の舞台となるのはスウェーデンの秘境にあるコミューン・ホルガである。まずホルガの夏至祭について注意しておく。「90年に一度の夏至祭」という書きかたが各所で見られるが、夏至祭自体は毎年おこなわれている。90年に一度なのは、映画のラストシーン、9人の生贄を黄色い神殿のような建物で火あぶりにする儀式だけだ。アリ・アスター監督本人がRedditでそのように回答している。

 さて「五月の女王」の話をはじめよう。まず、ヨーロッパの各地には「五月祭」という風習が見られる。春に植物霊・樹木霊を祀り、夏の豊穣を予祝する風習である。そのかたちは様々だが、「五月の木(メイポール)」と呼ばれる木を花や葉で飾りつけ、植物霊の象徴とすることは広く行われている。そう、劇中で主人公ダニーと村の女性たちのダンスの中心に立っていたあの棒である。「金枝篇」にも、スウェーデンにおける夏至祭とメイポールについて述べている箇所がある。

スウェーデンでこれらの儀式が行われるのは、とりわけ夏至の季節である。(中略)メイポールは六インチから十二フィートの高さで、葉や花や色紙の紙片で飾られたもの、卵の殻で粉飾されたもの、アシが結びつけられたものなどがある。(中略)村の乙女たちによって飾り付けられたメイポールを立てることは、多くの儀式の中でも一大行事であり、人々は各方面からその周りに集まってきて、大きな輪を作って踊る
(金枝篇 第一章 森の王 第四節 樹木崇拝、強調筆者)

 「五月の女王」というのは、このメイポールの役割を人間が果たすものだと言ってよい。飾り付けられた木の棒の代わりに、人間が植物霊の象徴となるわけだ。『ミッドサマー』のホルガにおいても「五月の女王」とメイポールが同一視されているのは、メイポールを囲む踊りで最後まで残ったものが「五月の女王」になることから見て取れる。最後の一人に、メイポールの権能が与えられるのだと見て差し支えあるまい。
 ところで、メイポールは毎年飾られなくてはいけない; それは、いわば精霊を更新するためだ。多くの植物は冬に衰え、春に再び芽吹くが、古代の人々はそれを植物霊の衰えと復活というふうに解釈した。このサイクルに合わせて、植物霊のための祝祭というのは毎年行われる必然性がある。春に植物が芽吹くから祭りを行うのではなく、祭りを行うと植物が芽吹くのだ。ここには顛倒した発想がある。これは夏至祭が90年に一度ではなく毎年行われているとする理由にもなる。

 ここでひとつの事実がある。メイポールは植物霊の象徴であり、それは「五月の女王」のように人間によって代理されることもある――というのはすでに述べた。そして植物霊の象徴は、歴史上、儀式においてしばしば殺される(ふりをする)のである。たとえば、ボヘミアにおいては樹皮の衣をまとった「王」を木の剣で打ち、斧で王冠を落として斬首になぞらえる儀式があったという。
 植物霊の象徴が殺される理由は、先述した冬における死と春の再生の理屈だ。植物霊の(古い)表象を殺すことは、それを新しい姿でよみがえらせることに繋がる。冬に枯れる植物が、春に芽吹く新芽とつながっているように、だ。

 『ミッドサマー』本編の話に戻ろう。まずひとつ。最後の火あぶりの儀式と「五月の女王」はどのように関係しているのだろうか。そして、植物霊の象徴は殺されると言ったが、五月の女王は殺されなくともよいのだろうか。
 結論からいうと、各国の儀式において「五月の女王」は殺されない場合が多い。「五月の女王」の主な役割は五月祭を取り仕切ることだ。たとえば現代のイギリスでも、「五月の女王」が祭りを取り仕切り、「緑のジャック」という緑色の葉で全身を覆われたキャラクターが殺されるような五月祭の様式がある。
 『ミッドサマー』のホルガにおいても、「五月の女王」は生贄を選び、儀式を(形式のうえで)取り仕切る権利をもっており、それ故に自分自身は殺されなくてもよいのだろう。代わりに死ぬものがいればいいのである。生贄のうち幾人かが花や枝で飾り付けられていたことは、これのある程度の裏付けとなるのではないか。彼らが「五月の女王」の代理を果たしたのではないかということだ。
 ホルガのメイクイーンが生贄のうち一人を指名できるという制度は興味深い。劇中ではダニーは彼氏のクリスチャンを選び、彼は熊の生皮を被せられて焚き殺される。「五月の女王」に熊の生皮という取り合わせはぼくにはよくわからないのだが。

 もうひとつ。この映画においては通常の夏至祭ではなく90年に一度の大祝祭の様子が描かれているが、毎年の夏至祭についてはどのようなことが行われているのだろうか。これは憶測になってしまうが、メイクイーンが指名した人間ひとり(それはホルガの人かもしれないし、外部の者かもしれない)に熊の生皮を着せて火あぶりにする儀式だけが毎年行われるのではないだろうか。大祝祭では9人の生贄を捧げるわけだが、平年では残りの8人の生贄は省略して儀式の核となる部分だけをやるのではないか。
 先述したボヘミアにおける風習のように、平年は殺すふりをするだけに留めて大祝祭でのみ実際に生贄に捧げるのだという可能性もあるが、

1. どうせ72歳になった人間がいれば自死させるような習慣をもった集団なのだから、人死にをためらう理由がない
2. 主人公たちをホルガへ案内したペレが「両親は火事で死んだ」と発言したことから、火あぶりが90年に一度だとは考えにくい

などの理由から、ある程度の儀式は毎年行われていると考えたい。
 もうひとつの理由としては、この映画のラストシーン近くで、クリスチャンを入れるための熊の解体方法を子どもたちに伝承するシーンがあったが、もし熊の解体が90年に一度なのだとしたら技術伝承が途絶えてしまうように思える――ということがある。このことからも何らかの生贄の儀式は毎年行われていると考えたほうが自然だろう。

 そういえば、ホルガの人々は18歳ごとに「春」「夏」「秋」というライフステージの区切りを迎え、72歳で「冬」が終わると自死して生まれてくる子供に名前を引き継ぐが、衰える前に自死して魂を引き継ぐという発想もまた「金枝篇」に類例がある。

たとえばマンガイア人はつぎのように考える。「自然死を遂げた人々の魂は、非常に弱く脆い。それは、彼らの体が崩壊してしまったからだ。一方戦いで殺された人々の魂は、強靭で活力がある。彼らの体は病で衰えることがなかったからである」
(金枝篇 第三章 神殺し 第一節 聖なる王を殺すこと)

 魂が肉体のように、肉体とともに衰えるものならば、老いさらばえながらも生き続けることには益がない。それよりも、魂がまだ傷つかないうちに、若く強靭な肉体にそれを移し替えるほうがよい。また「金枝篇」によると、フィジー諸島人は

「精神的かつ肉体的能力を、死んだときと同じ状態で保有したまま、楽土に入る喜びを享受できる」

と信じているため、力の衰えを知った老人は自ら死を選ぶという。ホルガにおける「春夏秋冬」の風習もこのような発想に基づいて行われているのだろうか。
 ただ、個人主義者の意見を言わせてもらうとすれば、このような風習がつねにうまく――つまり共同体も死ぬものも満足させながら――遂行できるとは考えがたい。それは「ミッドサマー」の最後、黄色い神殿で焚き殺されるホルガの者が(痛みや恐怖を感じなくなる薬を飲まされているはずなのに)叫び声をあげるシーンに象徴されている。焼け死ぬものの悲鳴を「共感」の悲鳴でかき消すホルガの人々には、彼らが死すものの感情に共鳴しようとしているのだとしても、悪意を感じずにはおれない。

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