「わかっていないこと」を書く意味はあるのか。

 畢竟、このことに悩んだのが去年の僕である。そして今僕は、意味はなくとも意義はある、という仮説を措いている。これが今年の僕である。
 調書のような、遺書のような、観念的切迫をもった記述を行うのが論文だとするのならば、僕はそれから降りる。審問も、葬儀も、すべて馬鹿馬鹿しいものだとわかった。先に旅立つひとびとは、特段変わったようすもなく、死に、死に、死に続けることによって生きている。ひとりでようやく死ねるのかもしれないと思っていたのが馬鹿みたいじゃないか。救われるだなんて。
 であれば、わかるために、わからないことを書くということで、ひとつの大嘘を、詐欺を、あるいはSFを、書いてみよう。死にたいのは僕だけでよく、同時に、生きるのは僕だけでいい。

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