わたしだけの水玉自伝

 アーバンギャルドを好きでいてよかった。『水玉自伝』を読み終わった途端、何物にも代え難い喜びが胸に染み渡った。何よりも、それが一番嬉しかった。

 私はこうして感想文を書くことが幼少期から苦手だった。自分でも掴みきれない自分の感情を記すことに抵抗があった。本当はロボットみたいに淡白な自分に向き合うのが怖いからだ。この世界なんてきっとたかが知れていて、それだったら満たされないことで満たされていたい。自分や他人の生/性に執着できない、焦燥と退屈はいつもある。

 私の愛読書が近代文学に限定されている理由は簡単で、作者がみんな死んでいるからだ。生きている現代作家に興味は湧かなかった。様々な人間の生がデータベース化されている状態が心地よい。私の欲望を突き動かすものは、いつだって情報そのものだった。もっと言い換えれば、言葉だったのかもしれない。
 私は言語化されないと、他者はとにかく自分自身の感情さえもわからなかった。幼心ついた時から、物事を過度に客観視してしまう。やっぱり人の心は極めてわかりにくい。結局は肉体も精神も損得勘定が基盤にあるこの世界に、迎合できそうになかった。

 無機質さへのきっかけはどこにあったのだろう?
 幼稚園生の時に幼馴染である男の子に犯されそうになった。どうにか精一杯の力で彼を突き飛ばしたら、階段の下へ頭から転がり落ちていく。割れんばかりの大声で泣き喚く彼を見下ろしながら、私は妙に落ち着いた手付きでワンピースのフックをかけたのを覚えている。

「私は絶対に綺麗なままでいたいなあ。もっと言うならば、少女のままでいたいなあ」。

 そんな私がアーバンギャルドに恋に落ちたのは必然だったのかもしれない。

 14歳の時、YouTubeでたまたま『水玉病』を初めて聴いた時、圧倒的な面倒くささに襲われた。

 この曲を聴いてしまった以上、きっと私はこの人達の作品を一生聴き続けていくのだろうな。今までの自分が塗り替えられてしまう、そんな畏怖があった。
「こんなの絶対に・・・・・・人生が狂わされちゃうじゃん」
 だだっ広いリビングにて、思わず一人でつぶやいた。
 視聴早々そう思ってしまったのは、なんとか聴き取った最後の歌詞にあった。
「死にたい 消えたい いなくなくなりたい」。

 私が出会いたかったのはこの言葉だった。
 涙が頬に零れて、ようやく気付くものだってあるはずだ。本当はずっと、この歌詞の通りに願い続けてきた。直視するのを恐れていた自分の心の叫びをぴたりと言い当てられたような、そんな気まずさと高揚感。

 美しいな、と感じた。女性ボーカルの声も、この圧倒的な言葉も何もかも。
 今までの14年間、心のどこかでずっと探し続けてきたものをようやく見つけ出した気がした。

 それから今に至るまで、聴くたびに読むたびに、もっともっとアーバンギャルドが大好きになっていく。

 こんなに無機質な心の私でも、何かを愛したり、応援したり、感動できるものがある。そんな喜びに満たされるなんて、昔は考えてもいなかった。

 私は、アーバンギャルでいられて幸せだった。