見出し画像

渤海国異聞(1)

J.N(元三井金属資源開発株式会社)

<はじめに>

 中国東北地区は、古くから関外(関東、万里の長城の東外側)の地と呼ばれ、漢民族にとっては、18世紀中葉まで、異民族-夷荻の住む辺境地帯があった。夷荻とは、ツングース系北方諸民族で、隋、唐時代の靺鞨(まっかっ)族、遼宋・元・明時代の女真族、清時代以後の満州族がその代表である。
 ツングース系民族の代表は女真族の一支族である満州族である。満州族は、17世紀、僅か30万人の軍民で数100倍の住民が住む中国全土を制圧し、北はモンゴル、東は沿海州から西は新疆・チベットに至る中国史上最大の版図を有する清王朝を築いた。満州族以外では、森林の住民エンベキ族、トナカイの民-オロチョン族、漁猟の民ホーチオ族、高原の住民-ダフール族などが本地区のツングース系住民である。
 本地区は広大な面積を占めるが、冬長く酷寒のきびしい気象条件のため、人口稀薄であった。ツングース系諸民族は半狩猟、半牧畜、半農耕の質実剛健自給自足の生活を送っていた。現在では、満州族のほとんどは、漢族に同化してしまったが、彼等は、小柄で頑強、皮膚が厚く、体の起伏が少なく、表面積が小さく、寒さに強い形質と体形を受け継いでいる。中国東北3省(黒竜江省、吉林省遼寧省)の総面積は、約80万km(日本の約2.1倍)、現在の人口は、1億400万人で、このうち、93%以上が漢族である。漢族の多くは、清朝末期の1740年代の華北の大飢饉以後華北から移住した。原住民であるツングース系諸民族は、満州族が400万人弱、その他の少数民族が約30万人である。その他にモンゴル系100万人弱、朝鮮族170万人強が居住する。朝鮮族の多くは


1869年の朝鮮北部の大飢饉の際移住した。
 中国東北地区は、日本と深い関わりを有する。古くは8〜9世紀の渤海使の頻繁な来訪。18世紀末葉からの日英対露の対決から日露戦争(1904)広軌鉄道のロシアと標準軌のイギリスをめぐる英一露の激しい駆け引き、夢を運んだ満鉄特急あじあ号、資源開発と重工業の建設など夢と希望の時期もあった。しかしその後は、関東軍の独断専行、柳条湖事件を契機とする満州事変(1931)と満州国の陰謀、歴史に消し去ることのできない汚点を残した盧溝橋事件に始まる日中戦争(1937-1945)、極寒の地に置き去りにされた満蒙開拓団の悲劇などの悪夢が続く。
 なかでも、吉林省延辺朝鮮族自治区は、日本と長期にわたり親交した渤海国が興隆した地である。吉林省の省都長春は、満州国の首都新京であり、関東軍の本部が置かれた。延辺自治区の琿春地区、ロシアのクラスキノーポシェット地区、北朝鮮の先鋒-羅津地区を含む3国国境地帯は、現在、UNDP主導による豆満江国際協力経済開発区構想が進行中である。本構想は、シベリアの豊富な地下資源を背後に抱く環日本海経済圏構築の可能性を指向している。豆満江は、渤海使が日本に向けて出航した地であり、琿春には一時渤海国の首都東京竜泉府が置かれた。
 筆者は、昨年初冬、JICAの吉林省地域開発総合計画調査の団員として、吉林省を訪れる機会に恵まれた。現地での見聞を通して、歴史の教訓と将来への夢について学ぶべきことが多かったので、その一端を書き留めて置きたいと思う。

<渤海交流史>

 4世紀中葉、大和朝廷による国内統一が進んだ。この頃、朝鮮半島では、高句麗、新羅、百済が並立し、勢力を競っていた。大和朝廷は半島東南部の百済・任那と親交する一方、直接大陸に遣隋使(607)遣唐使(630)を派遣し、大陸の文化を吸収し、国造りに努めていた。645年、律令国家体制の構築を目指し、大化の改新を実行した。しかし、662年、百済日本連合軍は、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗退し、半島への足掛かりを失った。
 ちなみに、藤原京(橿原)からの平城京(奈良)遷都が710年、平安京(京都)遷都が794年である。いずれも、唐都長安を模して建設した新首都で、東西約4km、南北約5km、長安の1/3の規模であった。しかし、当時の都市国家では常識とされた城壁を設けなかったことが、我が国の置かれた地政的環境を象徴している。
 この頃、鴨緑江及び豆満江両岸の中国東北部及び北朝鮮を含む古代国家高句麗(ツングース系貊族)が、668年、唐・新羅連合軍に敗北、滅亡した。ツングース系靺鞨族は、高句麗人と協力し、698年、長白山北東の地に振国、後の渤海国を建国した。渤海国は唐の干渉を退けた後、唐と修交し、唐の5京の制にならい5京を置き、上京竜泉府(黒竜江省東京城)を首都とした。仏教を振興し、唐書に海東の盛国と記されるまでに発展した。上京竜泉府の旧跡には、当時の寺院跡、丸瓦や獅子頭、石灯ろう、仏像などが出土している。
 渤海使の初めての来訪は、727年である。この時は、対馬海流に流されて、蝦夷地(現在の秋田県)に漂着、24人のうち16人が殺害される悲劇に遭遇した。渤海使の来訪は、929年迄、計34回に及んだ。来訪の季節は秋〜初冬、北西の季節風を利用して、日本海を真直ぐに横断したらしい。当初は30人程度の小グループが多く、盛時には300人を越えた時もあった。
 渤海使の来訪の目的は、隣国新羅を牽制するための軍事同盟が目的であったが、内政重視の大和朝廷には、軍事は興味なく、交易と文化交流が主目的となった。交易品は、貂(テン)・虎・熊などの毛皮、長白山の特産品、朝鮮人参蜂蜜など、日本の輸出品は絹綿の繊維製品であった。
 渤海路は遠回りではあるが、中国本土への最も安全・確実な交通路であった。朝鮮半島西岸をたどり黄海を横断するルートは敵対する新羅に妨害されたし、北九州から東シナ海を横断し朝鮮または揚州に至るルートは、暴風の通路で当時の帆船では危険で命がけの旅となった。帰国の手段を失った多数の留学生や留学僧が渤海ルートを通って帰国した。なかには、唐女と結婚し、混血の子女を伴って帰国する者もいた。安史の乱(755)の情報は渤海を通じてもたらされた。なお、茶の栽培、製造、飲茶の習慣を伝えたのは、12世紀末葉、南宋から帰国した栄西であるとされる。しかし、8世紀末、栄西の400年前に、渤海路を経由して入唐、帰国した留学僧永忠が、当時流行していた餅茶(型に入れて押し固めた固形茶)を持ち帰り、嵯峨天皇に献じたと記録されている。

<海東域略史>

 女真族の渤海国は、927年、西方よりモンゴル系の契丹族(遼)に侵攻され滅亡した。しかし、12世紀に入ると、女真族は東北地区で独立、金国を建国した(1115)。国都をハルピン南東の上京会寧府(阿城県)に置き、やがて華北を制圧し、燕京(現在の北京)に遷都した。モンゴルの圧迫を受けてからは、都を南方の開封に移したが、1234年、モンゴル軍に席巻された。
 1616年、愛新覚羅(アイシンギョロ)氏出身のヌルハチは後金国を建て、建州衛(遼寧省東部)に独立し、瀋陽を本拠とした。後金国は、1636年、国号を清と改めた。この時の満州族国家の特色は、国民皆兵を原則とする八つの軍団から成る八旗の制度である。平時は農耕・牧畜に従事し、戦時は全壮丁が兵隊となった。1619年、明の大軍をサルフの谷に誘い込み撃破した。八旗軍の総大将ドルゴンは、降伏した明の敗将を巧みに使いこなし、華北から華中へ進軍した。この時の満州族の兵力は総勢30万に過ぎなかった。明の忠臣史可法は、長江北岸の揚州に拠り抵抗したが、彼が敗れた時、みせしめのため大略奪大虐殺が行われ、軍民80万人が殺されたと言われる。
 清朝第4代皇帝康熙帝(1661 〜 1722)は、軍事、政治、文化の各方面で英明な政治家と評されている。辧髪を強制したり、思想弾圧を行ったが、減税を実施したり、四庫全書を編纂したり、文化面や科学技術にも配慮した。当時の漢民族の人口2億数千万人に対して、満州族は30万人程度であった。全中国を支配するため、高圧政策と懐柔政策を時と場合に応じて使い分けた。呉三桂ら漢族の反乱も三藩の乱(1673 〜 1681)をもって終束した。康熙帝の後、雍正帝(1722 〜 1735)、乾隆帝(1735 〜 1795)が続き、3代、130年間にわたって、清朝は最盛期を現出した。勇猛果敢で柔軟な民族性に加え、指導者に恵まれたことが中国最後の王朝の栄華を演出した。彼等は自分達の実力とその限界をよくわきまえていた。明朝末期の宦官の専横と党争、各地の農民反乱が彼等の活躍の舞台を用意した。決して拙速に動かず、機の熟するのを待ち、政策変更にも柔軟であった。

<鉄道利権の争奪戦>

 朝鮮半島の支配権をめぐって争われた日清戦争(1894)以後、満州の情況は緊迫した。三国干渉(1894)により、遼東半島を日本から清国に返還させた代償として、ロシアは、シベリア鉄道から分岐し、満州を横断し、満州里からウラジオストックに至る東清鉄道約1000kmの敷設権を要求した。ロシアは、遼東半島にも進出する一方、フランス資本の支援を得て、1897年、ハルピンを基点に、満州里〜綏芬河(ウスリー鉄道連結点)間の工事を開始し、1902年に全区間の路線工事を完成した。さらに、1898年に旅順大連を占領し、ハルピンより奉天を経由して大連に至る東清鉄道南满支線の建設を認めさせ、1903年には工事が完成した。
 当時の世界では、鉄道が最も安全確実な大量輸送の手段であった。ちなみに、ロンドンから上海までは海路3ヶ月を要したが、モスクワからシベリア鉄道と東清鉄道を経由すれば、ウラジオストックまた大連へは2週間で達する。イギリスは華中から華北へ勢力を拡大し、更に東方へ進出するため、京奉鉄道(北京〜奉天間)を建設中であった。ロシアは満州から華北及び朝鮮半島への進出政策を強化し、イギリス及び日本の進出策と正面衝突することになった。
 中国の鉄道ゲージは、現在では国際標準軌(1435mm)に統一されているが、ロシアの軌条は広軌(1524mm)であった。イギリス及びヨーロッパ諸国の軌条は標準軌が普通であるが、日本の国内規格は狭軌(1067mm)である。朝鮮半島の鉄道、京釜鉄道(京城〜釜山)や京義鉄道(京城〜 新義州)の軌道は標準軌であるが、建設の過程で、広軌敷設を主張するロシアとの間で、激しい駆け引きが行われた。
 ロシアが広軌を採用したのは、ヨーロッパの影響力を、国境で遮断するためであったという。なお、インドでは、広軌あり、標準軌あり、狭軌ありで全く統一されていない。鉄道ゲージが異なれば、相互乗り入れは不可能であり、ケージが変わる度毎に積み荷の積み替えが必要となる。数年前のことであるが、モンゴル・ウランバトールから北京まで国際列車を利用した。国境のエレンホトで、軌条変更に伴い、台車を入れ替えるため8時間停車した。まず、ウインチで客車を引上げ、台車を切り離す。次にクレーンで台車を撤去し、替わりの台車を入れ替える。時間と熟練を要する人海戦術の作業であった。機関車は勿論交換する。広軌のジーゼル車から標準軌の蒸気機関車に換った。
 義和団の反乱(1898)を機に、ロシアは満州全域に進駐し、さらに朝鮮半島にも圧力を加えてきた。満州及び朝鮮をめぐる日露の緊迫した状況のなかで、イギリスは「光栄ある孤立」政策を放棄し、1902年、日英同盟が結ばれた。1904年の日露戦争には列強のおもわくがうごめいていた。日本はロシアに勝利はしたが、厳しい消耗戦を強いられた。すでに補給路を確保したロシア軍は、兵力、弾薬、資機材の補給において圧倒的に優勢であった。これに対して、日本軍は広軌の満州鉄道を狭軌に変更する突貫工事を行いながら、また鴨緑江河口の丹東から軽便鉄道(762mm)を建設し、兵站線を延ばしながら兵を進めた。日本では広軌で使用できる機関車も貨車も調達できなかったからである。日本軍は常に弾薬・砲弾の欠乏に悩まされた。日露戦争は、日本が初めて経験した本格的な総力戦であった。屍の山を築いた旅順要塞攻略戦(1904/7月〜 1905/1月)、遼陽・沙河・黒溝台の消耗戦(1904/8月〜 1905/1月)に続き、奉天決戦(1905/3月)では双方合わせて60万の兵力が対峙し、双方で16万人の死傷者を出した。
 旅順港口閉塞作戦(1904/2 〜 5月)、旅順・黄海海戦(1904/8月)及び日本海海戦(1905/5月)では、ロシアの太平洋艦隊62隻、バルチック艦隊など50隻、総排水量51万tが壊滅した。この時の日本の連合艦隊は83隻、総排水量24万tであった。日露戦争の日本側の参加兵力は108万人、死傷者10数万人、日本側の戦費は当時の通貨で16億円に達した。ちなみに、当時の国家予算の総額は26億円程度である。戦費の大半は、戦時内公債(約6億円)と戦時外国債(約9億円)で賄われた。日露戦争の結果、ロシア、日本とも財政的に破綻した。ロシアでは戦争中に第一次革命が発生し、日本では軍部の独走が始まった。

<吉林省都-長春市>

 長春市は、吉林省のほぼ中央部、伊通川中流域の西岸の広大な台地に位置する。長春市の街並みは、中国の他の都市とはかなり趣を異にする。市の中央に円形の人民広場があり、大きなロータリーとなっている。人民広場には坑日戦の戦勝記念碑があり、塔上に双発攻撃機PE2の模型を乗せている。ちなみに、瀋陽の戦勝塔はT34戦車である。ここから人民大街が南北に長春市を縦断する。人民大街は、往復4車線、自転車道と歩道を有し、道幅53mの大通りである(写真1)。人民大街の北端に革命後改築された市の表玄関長春駅がある(写真2)。


 人民広場には、南北方向の人民大街のほかに、北西方向及び北東方向の西安大路や長春大街が交差する(写真3)。これに東西方向の解放大路や自由大路が交差する。西欧風の放射状道路網と中国の伝統的な格子状市街を組み合わせている。このため南湖公園は3角形の区画となっている。格子状市街は、東西・南北系と北

東・北西系の2系統がある。南湖は巨大な人工湖である。澄みっきた湖水と周囲を取り囲む白樺林と落葉松の対照が美しい(写真4)。
 長春市は吉林省人民政府の首都であり、現在の人口は660万人であるが、19世紀以前は満州族の放牧地であり、小地方都市にすぎなかった。日露戦争の結果、長春以南の南満州鉄道が日本の権益となり、長春は満鉄の終着点、日露の接点として、鉄道付属地を中心に都市開発が進められた。
 長春は満州事変以後、満州国(日本の傀儡政権の意味で偽満と呼称される)の首都として新京と改名され、首都を飾るための都市建設が急速に進められた。主な建築物として、10本の円柱を並べた重厚な旧満州中央銀行(現在の中国人民銀行)、


城郭様式の旧関東軍司令部(中国共産党吉林省委員会)、新宮殿(途中建設が中断され、現在長春地質学院校舎に使われている)、国会議事堂を連想させる国務院庁舎など当時の建物がそのまま残っている。
 東北3省は中国を代表する重工業地帯である。長春第1汽車製造廠は、1953年、旧ソ連の協力で建設された中国最初で最大の自動車工場であり、かって高級車「紅旗」や新中国最初のトラック「解放」を製造した。最近では、フォルクスワーゲンと乗用車生産で合弁企業を発足している。長春市には、自動車のほかに、中国最大の鉄道車両工場があり、吉林市には大型の石油化学工場がある。長春市第1汽車製造廠の正式名は、中国第1汽車集団公司で、中央政府の機械工業部の傘下である。省政府とは同格の資格があるので、省政府の管理監督は一切受けない。吉林石油化学集団公司は、発足時は地方の所管であったが、現在は中央の化学工業部の管轄となり、省政府から独立した。中国の組織は複雑でタテ前と実体がからみ合い部外者には容易にうかがい知れない。組織内の責任者以外、分からぬことが多いようである。
 なお、遼寧省には鞍山、本湲などの大型製鉄所や各種の金属・機械工場があり、黒竜江省では、大慶油田及び発電設備を製造する重電気工業が著名である。
 東北3省は、建国当初は中国産業の牽引車であったが、1980年以後、経済の停滞が目立って来た。その特徴は、「重、大、死」であるといわれる。「重」は重工業、「大」は国有大型企業、「死」は市場に活気がないことを意味し、こうした特徴は「東北現象」と呼ばれている。その原因としては、原料を供給する鉱業(採掘業)の生産がピークを過ぎたこと、機械設備の老朽化、過大な余剰労働力、技術導入と産業転換に立ち遅れたことなどがあげられよう。
 東北3省の重工業を支えたのは、石油、石炭、鉄鉱石などの資源産業であった。10数年前の改革・解放政策直後に中国を訪問した時、「工業は大慶に学べ」のスローガンが何処へ行っても目に付いた。大慶油田は1960年に生産を開始し、1976年には中国産油量の40%を占めるまでになった。新中国建設の希望の星であり、低硫黄分の原油を産出する大油田の生産量は、最近では5,500万t/年で頭打ちとなっている。

<長春市の生活環境>

 吉林省現地に滞在したのは、10月上旬から12月上旬であった。10月上旬の長春市は、初冬の気配濃厚である。11月に入ると、数日周期で吹雪に見舞われた。気温が低いと、一度積もった雪は凍結し融けることがない。-10°C以下では普通のタイヤでも凍り付いてしまうのかスッリプしない。しかし昼過ぎになり積雪が緩み出すと、或いは、輻射によって表面だけが融け出すと、歩くのも危険で、車のハンドル操作は難しくなり事故が多発する(写真5)。降雪の翌朝は商店や事務所は仕事を中止し、住民、職員が全員除雪に出動する。積雪はたちまち片付けられる。なお、寒冷地で積雪が減少するのは、融けるより蒸発の効果が大きいらしい。
 長春市でのホテルは、新築の長春国際飯店であった。完全暖房ではあるが、給

湯がいつも赤褐色であるのと、停電が頻発し、停電すると水が出ないのが不満の種であった。ホテルの料金は54$、この価格は個人でチェックインする場合の外人料金をかなり上まわる。日本から参加した中国人団員は納得できないと言って、全員ホテルを換ってしまった。最新鋭の豪華ホテルから料金50%割引で勧誘があったので試してみた。ほぼ同じ料金で、サービスの質、待遇が格段に異なる。もとのホテルに戻るのは気が重い。なお一般の住居、事務所などの暖房は、石炭ボイラーによる地域集中暖房で、市政府が管理しており、どんなに寒くても11月11日以後でないと利用できない。
 国際飯店は人民広場西方のアーチ状窓枠形の特異な区画にある。この区画の中央部に長春地質学院がある。地質学院は、実は満州国の皇居に予定された場所・建物である。長春地質学院は武漢、北京(大部分が武漢へ移転)と並ぶ3大地質学院の一つである。現在、15学部、28学科を有し、学生は5000人、教職員は800人である。各国から学生を受け入れており、日本からも学生30人を受け入れた。2年後、総合工科大学へ編成替えする計画である。鉱物学の先生は日本語が堪能である。「ここは日本が造った皇居で、地下には網の目のように地下壕が張り巡らされている。日本の天皇もいずれこちらに移動してくることになっていた」との話に唖然とした。これが関東軍の本音だったのだろうか。
 冬の長春市街は寒さが厳しいが人出は多く、道路が凍結しても車は多い。赤色の小型タクシーとバスが住民の足である(写真6)。狭い露地の各所に露店ができ、

近隣の農家のリャカーが集まる。リンゴ、ナシ、ブドウなどの果物は美味である。トマト、キュウリ、ナスなどの温室栽培の野菜も味がよい。価格は0.5kg単位で、単位以下の買物は嫌な顔をされる。果物や野菜は油断するとたちまち凍結する。
 吉林省の料理では、回族風味の餃子が人気がある。餃子というより饅頭の感じで、丸くて皮は軟く、中身は何種類かあり、食べると汁があふれ出る。このタイプの餃子は長春にきて初めて知った味である。一人分12個で、とても食べ切れない。餃子の専門店は大変な人気で、食事時には何時も満席で待たされる。
 長春駅前と人民広場北側の重慶路がショッピングのセンターである。両地区とも大きな百貨店が2〜3店あり、地下は個人商店が密集している。商品、特に衣類は豊富に出回っているが、品質はいまいちである。店員は多く、買い物客で賑わっているが、物が売れている様子がない。購買力は落ち込んでいると感じた。
 中国は何処へいっても建設ラッシュが著しい。長春市もその例外でなく、市の中心部では高層ビルが幾つも工事中である(写真3)。旧市内はほぼ再開発を終えアパートが林立している(写真7)。中国のアパートは、4階建から8階建までが普通である。8階建までならばエレベーターの設置義務がない。最近のビルは8階建が多いが、低層のビルほど築年代が古い。西郊外の開発区では、現在、大規模な副都心の建設が進行している。

ぼなんざ 1997.7

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?