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渤海国異聞(3)


J.N(元三井金属資源開発株式会社)

<極東のパリーハルピン市>

 黒竜江省の省都ハルピン市は、東清鉄道と松花江の交点に位置し、極東のパリと謳われる。ハルピン市は、極東進出政策を進める帝制ロシアが建設した満州における拠点都市であるが、19世紀までは松花江河畔の寒村にすぎなかった。19世紀末葉、東清鉄道建設を進めるロシアの技術者は、ロシア本国から海路ウラジオスットクに渡り、ウスリー鉄道を経由してハバロスクに至り、そこから黒竜江、松花江を船でさかのぼり、2年がかりでハルピンに達したという。
 帝制ロシアは、7つの海を支配し世界の物流をあやつる大英帝国に対抗して、1891年、ヨーロッパと極東を結ぶシベリア鉄道の建設を開始した。工事はウラル山脈の東麓に沿うロシア東部の都市チェリャビンスクとウラジオストックで同時に始まった。東清鉄道は、工事の難行が予測された長い迂回路となる黒竜江北岸のシベリア鉄道に対して、絶好の短絡路となるばかりでなく、ハルピンを起点に南満州から華北さらには朝鮮半島へ進出する基幹ルートとなるものであった。
 ハルピン市の都市建設は、首都ペテルブルグや花の都パリを模して1898年から始められた。ハルピン市の現在の人口は530万人であるが、20世紀初頭のハルピン市の人口は10万人にも満たなかった。ロシア革命(1917)以後は大量のロシア人難民が流入し、ロシア人だけで16万人に達した。この数は全人口30〜40万人の40%を越えていた。ハルピン市は中国人とロシア人の街であったが、1920年代には欧米企業が多数進出し、国際都市として発達した(写真13)。
 なお、ハルピン(哈爾濱)の地名は、女真語で光を意味するアラジンに由来するという。清代に哈拉浜(パラピン)と記され、清代末に哈爾濱と改められた。


 ハルピン市へは11月24日、休日を利用して、7名でマイクロバスをチャーターして旅行した。長春-ハルピン間は240kmで、順調なら4時間とはかからないが、前日から吹雪となり、道床が凍結して難行苦行の旅程となり、7時間を要した。緩やかな起伏のある広大な平原は、完全に雪化粧し、防風林が規則的に延びるのが印象的であった。点在する農家や集落は吹雪のなかの積み木細工のように小さく心細く見え、生活の厳しさが感じられた。
 ハルピンのホテルは、ハルピン駅南側の官庁街、秦家の紅軍街にある国際飯店であった。チェックインしてすぐにハルピンの繁華街、ハルピン駅北側の商業地区、埠頭区の中央大街へ出掛けた。中央大街(旧キタイスカヤ、中国人街の意味)はロシア時代の姿が保存された、道幅10m程度の石畳の街並である。中央大街は南北に一直線に延び、その北端に松花江の埠頭がある。埠頭の対岸は太陽島である。中央大街の当初は、中国人労働者が船で輸送された建設資材を、ハルピンの中心、秦家崗地区へ運ぶ運搬道路であったという。建物は2〜3階建てのレンガ造りが多く、一つ一つに特徴がある。ほとんどが19世紀末にフランスやベルギーで流行したアール・ヌーヴォー様式の建物で、軒先や窓枠など外壁の装飾の多様性に特徴がある。商店はブティック様式が多く、石畳の街路とあわせ、パリの雰囲気を漂わせている。
 時間が遅く、一般の店は締まり始めていた。夕食は戦前のハルピンで格式を誇ったモデルンホテル(馬送爾賓館)で取った。館内は閑散としており、我々の他には客はいない。ホテルのロシア料理は、上品で味が良く、しかも安価であった。ロシア製のウオッカを2本あけたが、これが口当たりが柔らかくうまっかった。ウオッカは厳しい大陸の気候風土とロシア料理によく合う酒なのだろう。ウオッカ代は食事代に匹敵するほど高価であった。なお、翌日は旅行ガイドブック推薦の、モデルンホテルの正面にある華梅西餐庁で夕食とした。庁内の豪華な雰囲気はともかく、料理は大味で、また来たいと思う程ではなかった。

 モデルンホテルは、3階建て、明るい黄褐色の外壁で、1913年に建築された。客室はすべて外側に面しており、内側にカフェやレストランがある。地階にはサウナやマッサジ室があり美人どころをそろえている。明日はこちらに泊まることにした。ホテル代は45US$で国際飯店より安い。モデルンホテルの正面右手に、1909年に日本資本が建てた百貨店、バロック様式の松浦洋行ビルがある。本ビルは修復・保存され、現在は新華書店となっている(写真14)。

<ハルピン散策>

 ハルピン市内を散策した。まず、国際飯店の近くの中外民貿市場を見学した。狭い露地の両側に露店が立ち並び、上野のアメ横に類似する。防寒衣料や生活用品が並べられている。北方の特産品、テンや銀ギツネのえり巻が売られている。値段を聞いてみたら、1500元だという。うまく交渉すれば1000元程度にはなるかも知れない。大きな買物袋を引きずるロシア人買い物客が目立った(写真15)。国際飯


店には幾組かのロシア人グループが逗留していた。若いロシア人女性の見事なプロポーションにはほれぼれとした。
 松花江の埠頭は積雪が凍結し寒々としていた。防洪記念塔は鋭い槍のように天を指している。松花江は一部の急流部を除き氷結を始めており、大きな底広の遊覧船が放置されていた。一月になると、冬の観光イヴェント、氷灯祭が、氷結し車が自由に走れる松花江上で催される。松花江南岸に広がる斯大林(スターリン)公園を右手に進み、松花江にかかる公路大橋を渡り、雪に覆われた太陽島へ向かった。大橋では数千人の人達が出て除雪していた。除雪というより、道床に凍結した氷をスコップでたたき割り片付ける作業である。
 太陽島は、かって短く暑い夏を過ごすロシア人の別荘地であり、松花江の真珠と謳われた中国有数の避暑地である。現在の太陽島は、樹木と草花が繁る公園で、各種の保養施設と観光施設が立ち並ぶ市民のオアシスである。すでに厳しい冬が始まっており、人の気配はなかったが、新潟市との友好親善のスローガンが印象に残った(写真16)。
 午後は、中国人街として発達した傳家甸区へ出かけ、アジア大会の会場となったスケート場を見学した。室内スケート場は立派な施設であるが、一般には解放されていないようにみえた。ハルピンの冬は零下30°Cに降るので、運動場に水をまけば直ぐにスケートリンクが出来上がる。
 市の南東部、香坊地区の段丘上では、大規模な開発区の建設が進行中で、骨格


はほぼ出来上がっている。広い道路網、8階建のアパート群、近代的な中層ビル群、街のシンボルとなる幾つかの高層ビル、石材で色どられたショッピングセンターなど新都市がまもなく誕生する。そのあまりの雄大さに感激したが、不安も感じた。中国国内数100の各都市で、同時平行的に大規模開発が進むことで景気は上昇し、経済は成長するが、開発が一段落したとき、景気と経済は転機を迎えるだろう。莫大な建設コストの償却は誰が負担することになるのだろうか、その負担に耐えられるのだろうか。共産化革命政策でも、大躍進政策でも、文化大革命でも行き過ぎて壊滅的な打撃を社会に与えた。ブレーキを踏むのは不必要なのか、どのようなフォロー策が有効なのかを配慮すべき段階に来ているのではなかろうか。
 黒竜江省博物館は、渤海国の資料が豊富であるというので訪れたが、月曜日は休館日であった。火曜日に再訪したが、館員の研修日ということで閉館されていた。革命博物館を訪れたが、これも閉鎖されていたので、隣の東北烈土記念館を見学した。抗日戦でたおれた抗日英雄約1000名の写真を展示している。なかには日本人の名前もあった。記念館は厚いコンクリート造りで薄暗く、まるでトーチカのような建物である。館員が我々の後を付いて回り、電灯を付けてくれる。この記念館は日本軍の本部があったと聞いて、歴史の巡り合わせと中国人のこだわりの深さに脱帽した。
 中央大街のブテック街を散策した。小粋な店が多く長春とは別の国のようだ。長春では見かけぬような商品を置いている。皮製品、ファッション品などのイタリア商品専門店もある。客は少ないが、良く売れている。ハルピンでは、商店は買い物に来る所であって、見はてぬ夢を見に商品見物に来る所ではないらしい。長春のあるデパートでは、2組あるエスカレーターを適時止めて、特に上階の降りのエスカレーターは2本とも止めて、買い物客を足止めさせ、賑わいを演出していた。どうしてハルピンが豊かに見えるのか、それは石油、石炭、木材などの資源に恵まれているからではなかろうか。
 ハルピン市は交通の要を占めるとともに、電気・機械工業が発達した重工業都市でもある。ハルピンにはスズキの技術協力による軽自動車工場がある(契約相手は中国航空技術進出口公司、生産工場はハルピン飛機製造公司)。1994年の生産台数は軽トラック、同バン、6.5万台/年(将来計画は10万台/年)であり、瀋陽方面へ盛んに出荷している。途中、軽自動車を満載したトレーラートラックを多数見かけた。時流に乗った適切な投資であったのだろう。他方長春のフォルクスワーゲンは、合弁企業の難しさか、政治的な需給調整か、部品輸入に伴う高品質、高コストによる需要失調か、本当の理由は良く分からぬが、操業半減からストップ状態になっていた。パーティで会ったドイツ人技術者はいずれもうかぬ顔をしていた。
 モデルンホテルの売店に、気に入った水彩水墨画があったので、値段を交渉した。3000元の価格を1000元に値引きするよう交渉したが、2000元が限界であったので購入をあきらめた。この種の商品は、3割程度の値引きは可能であるが、4割以上の値引きは急に難しくなるようである。

<列車の旅>

 外国では日程さえ許せば、できるだけ列車やバスや地下鉄を利用することにしている。飛行機や車は早くて安全便利ではあるが、単なる移動の手段に終わってしまう。その点、列車に乗れば、時間もかかり不安もあるが、現地の人々と親しく接して話しができ、風土、生活、社会、文化などについて生の情報に接することができる。人間、旅に出れば誰でも解放的になり会話がはずむ。その上、列車では車中で資料を整理したり、報文をまとめることもできる利点がある。
 2泊3日のハルピンの旅の帰路は、車では安全性と所要時間に不安があるので、列車を利用した。ハルピン-長春間はおおよそ240km、所要時間は急行、特急と


も3.5時間、平均時速は70km/時である。軟座車はほぼ満席であり、広東省新圳からの中国人団体客約30名と乗り合わせた。深圳とハルピンの旅行会社から2名の美人添乗員が付き添っている。団体客とは言葉は通じないが、彼女等は英語と日本語を理解する。深圳の女性は小柄でふくよかで如才なく南方系の漢民族である。ハルピンの女性は長身、卵形の顔で皮膚がひきしまり筋肉質で逞しい。本人は漢民族だというが、満州族と蒙古族の血を引いているに違いない(写真17)。
 団体客の旅行日程は、航空機でハルピンへ飛び、列車で長春、吉林を回って、瀋陽に出て航空機で帰る4泊5日の観光旅行であり、合弁企業の慰安旅行らしい。旅の目玉は今まで見たことがない雪景色を観賞・体験することであるという。旅行の費用は5000元(約7万円)というので決して安くない。数年前の中国では、移動の自由はなく、長距離の観光旅行などは考えられなかったであろう。改革・解放政策の成果が、庶民の生活レベルにまで浸透しつつあるといえようか。
 先月の延辺朝鮮族自治州からの帰途、延吉から長図線(長春〜図們)の寝台車(軟臥車)を利用した。待合室で切符を金属製の札に交換する。車両に乗り込む時、金属札を各車両の担当車掌に渡し、紙の札を受けとる。共産革命時代の厳しい管理・統制が継続しているのだろうか。最近、地方で列車強盗が頻発しているとの噂を聞く。貨物列車を止め積荷を持ち去る山賊行為も報告されている。厳しい管理はそのための対策なのだろうか。
 軟臥車は定員4名のコンパートメントで寝台は上下2段である。軟臥車の乗客は我々2人の他僅か数名であった。寝台は熟睡できて快適であったが、夜半トイレに立って困惑した。ドアに鍵がかけられていて使用不能である。トイレの窓から強盗が忍び込む、あるいは逃亡するとでもいうのだろうか。これ程困惑し、心証を害したことはない。田舎の宿舎では、宿舎内のトイレは鍵をかけられ、外の共同トイレの使用を強制されることが多いのは経験済ではあるが。中国では各室、各車両、入り口のドアー毎に鍵がかけられ、3重の密室になることがある。
 中国の田舎を旅行すると、大抵の日本人は、中国のトイレ事情に、強弱の差はあるが、文化的ショックを感じてしまう。反抗を許さず、個人の自由を抑圧する封建制の伝統が生き残っているのだろうか。共産制を推進するため、個人のプライバシーを奪い取ろうという方針が徹底したのだろうか。中国は解放後も長期間広範囲に外国人の立ち入れを禁ずる処置を続けた。その本当の理由は、軍事上、治安上の問題を除けば、トイレ事情が影を落としていたのではなかろうか。恥部を晒したくないのは当然の心情であろう。外国人用のホテルの改造と新築が進み、対外解放地域は急速に拡大したのではなかろうか。
 中国の鉄道は、貨物優先、軍事優先で建設・運営されたので、乗客の都合はあまり考慮してくれないということか。参考までに、長春-大連間702kmの所要時間は12時間(平均時速で60km/時)、長春-北京間約1100kmは15時間(平均時速75km/時)を要する。最近は道路網の整備が進み、大連瀋陽長春間は高速道路が完成した。近い将来、鉄道と高速バス・トラックとの競合が激化しよう。なお、ハルピンには、各国各時期のSL(蒸気機関車)が保存されているという。

<吉林市>

 吉林市は、長春市の東方約100kmの松花江河畔に位置する満州族ゆかりの地である。明代以後、木材、小麦、大豆の積出港として栄え、古くより東北地区の中心都市として発展した。1937年、日本が松花江中流に豊満ダム(現在の発電能力80万kw)を建設したのに伴い、電気化学工業が興り、中国屈指の化学工業基地となった。イギリスが建設した京奉鉄道は、瀋陽から吉林市、更にハルピン市まで延長されている(いわゆる満鉄平行線)。現在の人口は区部を含めて420万人である。
 吉林市へは、長春市に到着した翌日の10月12日に旅行した。車で3時間弱、伊通河東岸の東群街からその周縁の工業区を過ぎてからは、緩やかな起伏を示す雄大な丘陵地帯が続く。一面にトウモロコシ畠が広がり、谷筋には小規模な水田がある。すでに刈り取りを終わり、サイロに入り切らないトウモロコシの一部は野積みされている。本地域は「トウモロコシの黄金地帯」と呼ばれる松遼平原の東縁に位置している。
 東北3省は中国有数の穀倉地帯であり、トウモロコシは全国生産量の32%を占め、豆類は34%を占めている。吉林省のトウモロコシ生産量は中国最大で14.5%を占めており、大部分を他省へ供給している。豆類の生産量は黒竜江省が多く、全国の25%を占めている。折しも旱魃を理由に、中国がトウモロコシの輸出を停止したことから、シカゴ相場が高騰し、史上最高値を更新し、価格は通常の2倍となった。買い上げ価格は引き上げられることになり、農民の苦労が多少は報われる。省政府は農業生産を強化する一方、農産物加工を振興し、付加価値を向上させる計画である。
 吉林市は松花江に沿った盆地内にある小綺麗な街である。丘陵上を走る吉長公路から吉林市を一望できる。市の北半部は工業地帯で立ち並ぶ煙突と立ちのぼる噴煙が気にかかる。吉長公路を左折し、アパート群の谷間のような桃源路を西へ進むと吉林駅がある。吉林駅は長春駅と瓜二つの姿で、偉容を誇り、周囲を圧している。高層ビルが林立する吉林大街を真南へ進むと吉林大橋に出る。此々から西方の松花江に沿う区画が官庁街で、川辺の柳並木が美しい。11月8日に再訪した時は樹木は純白に雪化粧していた。冬期は豊満ダムから流れ落ちる流水の川面から立ち上げる水蒸気が凍り付き樹氷となる。中国4大奇観の一つだそうだ。
 松花江の名称は、天の川を意味する女真語、スンガリーウラのスンガリーの音に松花の文字を当てたことに由来する。松花江の源頭は、鴨緑江、豆満江同様、中国-北朝鮮国境の最高峰長白山(2774m)である。
 豊満ダムまで足を延ばした。大きな遊覧船が桟橋に係留されていた(写真18)。湖畔の山林は紅葉が見どころであった。吉林市の周辺は遺跡が多い。4世紀頃築かれた高句麓の山城、龍潭山が市の北東部にある。戦国時代の猴石山遺跡は竪穴式住居跡で石器や土器を出土する。明代の摩崖文字碑は、吉林の地に造船所や港湾基地が設けられたことを示す。烏拉(うら)古城は、17世紀、建州女のヌルハ


チに敗れた海西女真の拠点であった。
 吉林市は自然環境に恵まれた歴史都市であると同時に、近代的化学工業の基地である。吉林化学工業集団公司の製油能力は500万t/年、エチレン生産能力は30万t/年であるほか、各種の有機・無機化学製品を生産している。石油は大慶油田及び吉林扶余油田からパイプラインで供給している。いずれの製品も大幅に生産量を増強する計画である。
 長春市と吉林市は、各々自動車産業及び化学工業が発達しており、長年の技術的な蓄積がある。その上、長春市には大学、各種研究機関が集積し、科学技術の蓄積がある。しかしながら、両地区の産業は、業種的にも、技術的にも、空間的にも各々独立に機能し、発展への波及効果に欠ける状況に置かれてきた。長春市と吉林市の中間にある九台市も含めた長春・吉林工業圏を構築し、各企業、各業種、各機関が競合関係と同時に協力関係を維持し、産業間連関の一層の深化と産業構造の多様化及び高度化を図るべきだと考えるのが大方の認識であった。

<永吉モリブデン鉱山>

 現地確認踏査を実施したいとの当方の要望は、吉林省計画委員会にはなかなか受け入れられず、永吉Mo鉱山の日帰り訪問が実現したのは11月11日であった。あいにく、前日から吹雪となり、前途が危惧されたが、予定通り出発した。案の定、車の走行は難行した。凍結がゆるみ始めた書時である、車は操作不能となり50m程スリップした。
 車は後ろを向いて止まったが、溝に落ちる寸前であった。もしも対向車があれば大事故につながるところだった。通常の2倍以上、6時間もかかって吉林市に着いた。無理をしないで引き返すよう申し入れたが、案内役の計画委員会の傳さんは、山元で準備しているので予定どおり実行したいという。永吉Mo鉱山は吉林市の管轄で吉林市の南方約70kmに位置する。吉林市から先は気温が低下し、車は雪上車のごとく雪煙りをあげて快調に進んだ。しかし、山元に着いたのは暗闇のなか7時頃であった。期待していたピットの見学は不可能となり、李鉱山長から鉱山の概況を拝聴した。
 永吉(大黒山)Mo鉱山は、Mo金属量109万t埋蔵鉱量16億tに達する世界トップクラスのポーフィリー型大鉱床である。鉱床規模は2km×1.5kmである。Moのほか、Cu,Leを含む。しかし、品位が低く、平均品位はMo0.006%台である。本鉱床は、1954年に旧ソ連が発見した。1957年に中国へ移管され、1985年着工、1987年に生産を開始した。操業は高品位部を選別採掘しており、1994年の生産実績は、Mo精鉱1200t(Mo40%)、粗鉱品位は、Mo0.112%である。Mo精鉱は瀋陽の製錬所へ出荷し2000万元の利益を上げたという。現在の生産規模は、粗鉱2000t/日である。鉱量的には大幅の拡張が可能であるが、品位が低下するので採算性に問題が生ずる。しかし、採算性は苦しくとも、拡張に成功すれば経済波及効果が大きいので、今後の拡張余地を検討することが望ましいと思う。
 鉱石サンプルを観察すると、珪化、絹雲母化の変質が著しく、Moは細脈状〜鉱染状に分布し、コロラドのヘンダーソンMo鉱床の鉱石に類似する。本鉱山は吉林市計画局の管轄であるが、有色金属工業公司や鉱産局の技術者が操業をバックアップしている。
 永吉鉱山では珍味をご馳走になった。それは全長数cmの小さな黒い蛙で、丸ごと食べるものという。腹には黒い卵をたくさん孕んでいる。珍味というよりゲテ物と云うべきか。暗闇の雪道を下り吉林市にたどり着いたのは夜半となった。

ぼなんざ 1997.9

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