シン・エヴァンゲリオンを観て。

あのラストシーンは、どこかで観た気がした。

それはデジャヴだったのかもしれない。気のせいだったのかもしれないが。

そしてあの駅。庵野秀明のふるさとが山口県宇部市だったことを思い出した。


劇場で観るエヴァは23年ぶりだった。

あのあと俺は病を得て東京を離れ、故郷で入院した。精神分裂病に似た症状だったので、友人のひとりは「そういえば徳田はエヴァにのめり込んでいた」と言っていたらしい。たしかにあの頃の、いわゆる旧劇場版は新興宗教や自己啓発セミナーと比較されるようなテイストだったから。だがそれは関係なかった。

21世紀になり、回復した俺は東京に戻った。そのうち新たにエヴァを作り直すというニュースを聞いたが、興味はなかった。もうあれは完結した話だと思っていたから。なので序・破・Qとも映画館では観ていない。

東日本大震災と原発事故から何年か過ぎたあと、たまたまDVDで観る機会があったが、あまり興味がなく寝てしまった。なのでそのとき三部作のどれを観たのかさえ覚えていない。自分の中のエヴァは20世紀の「新世紀エヴァンゲリオン」でしかないと思っていたからだろう。

その意識が変わってきたのは、「シン・ゴジラ」を観たからだろう。子供の頃からゴジラ映画をリアルタイムでずっと観続けてきた人間にとって、あれは衝撃だった。

庵野秀明があれを作れるのであれば、完結編となるエヴァも面白いだろう。タイトルも「シン・エヴァンゲリオン」だというから。「今のエヴァ」に興味が出てきたのはそこからだった。

去年、新型コロナウイルスのおかげで職を失い暇になったこともあり、改めて三部作をレンタルして観た。面白かった。序はほぼ以前の焼き直しだったが、破から庵野の暴走が始まっていた。ことに、「今日の日はさようなら」をバックに流しながら、ようやく心を開いたアスカの乗る三号機を破壊する初号機のシーン。鈴原トウジを乗せた三号機を初号機がズタズタにするテレビ・旧劇場版と比べてもエグかった。Qも突然14年が経過しており、劇中でその詳細が語られないことも、庵野らしい暴走のひとつだと思った。

そうした毒を期待すると、この「シン・エヴァンゲリオン」は物足りないのかもしれない。だがエンド・クレジットが出た瞬間、自分は拍手したい衝動に駆られた。結局思いとどまったが、拍手すればよかったと思う。高校生のときに初めて特撮映画のオールナイトを観たときのように。

話のテーマとしては、結局はシンジとゲンドウの対決になってしまう。それしか残っているものはないからだ。ゲンドウが妻ユイに会いたいがために人類補完計画という名のカタストロフを引き起こしたというのは、テレビシリーズでも旧劇場版でも語られていたことなので目新しくはない。シンジがそれを拒んだというのも旧劇場版と同じだ。だから残っているのは、シンジとゲンドウの直接対決しかない。

けれどそれが本筋だったとしたら、自分は感動しなかっただろう。いちばん感銘を受けたのは、庵野秀明が原始共産制を、とてつもないリアリティで描いたことだ。実写なのかアニメなのか判別しがたい映像、そのすさまじいクオリティが、郷愁あふれる「第三村」を実現させた。しかも、これは過去ではなく未来――最初の設定からすれば2029年の話なのだ。だから、村の家々の屋根にはソーラーパネルが取り付けられている。

そしてそこには、地縁も血縁もないバラバラな人々が寄り集まった共同体を支えるために働く、大人になった鈴原トウジと委員長、相田ケンスケがいて、まるで赤ん坊のような「アヤナミレイ」を、村のおばさんたちが快く受け入れ、育ててゆく。この「Aパート」を観ただけで、俺はもう十分だと思った。庵野秀明の25年にわたる苦闘・煩悶の終着駅がここだとしたら、それは素晴らしいことだ。

その後、シンジが再びエヴァに乗ってゲンドウと戦う理由も、ここに見つけられる。

最初のテレビシリーズの頃にはそんな言葉自体なかったが、「エヴァンゲリオン」とは自己肯定感を持てない人の話だったのだとつくづく思う。それは庵野秀明自身がそうだったのだろうが、シンジもアスカも、そしてゲンドウも自己肯定感に乏しい人間だった。ゲンドウはおそらくユイに愛されていたかどうかさえ不安だったのだろう。もしその確信があれば、あえてユイとひとつになりたいと思わないだろうからだ。人間は誰かに肯定されて、初めて生きていける。ゲンドウが己の心中を吐露できたというのは、庵野秀明が精神の安定を得ることができた、ということでもあるのだろう。

もちろんまだ謎は残る。不満もあるが、これで庵野秀明もわれわれファンも、エヴァンゲリオンに別れを告げることができる。

ようやく、大人になれるのだと思う。









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