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『夏の終わりに君が死ねば完璧だったから』感想

 斜線堂有紀さんの『夏の終わりに君が死ねば完璧だったから』(メディアワークス文庫)を読んだので、その感想を。
 本の感想をまとめるのも久々だけど、とにかく自分が触れたものとその時の感情を残してみたいと思う。

 何か本を読もうと思う時、手に取るきっかけは意外と「ジャケ買い」ならぬ「装丁買い」だったりする。
 あとは「タイトル買い」。
 今回はなんならどちらも動機だった。Kindle Unlimited の読み放題の一覧をざっと眺めて、ふと目に留まったものから、「なんだこのタイトル?」と。数秒考えてピンと来なかったので読んでみることにした。

 読み終わったいまでも、少しこのタイトルをうまく消化できないのは、寂しいような苦しいような感傷のせいだろうか。


 まずはこの物語を簡単にまとめてみる。
 未読の方でもこの後の読書経験を邪魔しないように、ざっくりとあらすじを。

 主人公は江都日向(えとひなた・以降エト)。昴台という閉鎖された地形の田舎に住む高校生の男の子だ。
 昴台には他の町にないものがあり、それが昴台再興の理由だった。それは昴台サナトリウムという、奇病患者の療養所だ。体が金に変質していくという未解明の病気、通称金塊病の患者が収容される。
 サナトリウムの誘致は昴台の発展にもつながったが、一方で住民感情の反発も招き、サナトリウムの塀の壁面には反対のビラや落書きがされるなど、反対運動は今でも続いていた。エトの母親は反対運動の筆頭として私費を投じ、義父は昴台の再興に失敗した事業家で、家庭は困窮の一途を辿っていた。

 エトはある時サナトリウムの住人である大学生の女性、都村弥子(つむらやこ・以降弥子)に出会う。
 聡明でいたずらっぽい弥子は、エトを病室に招き入れこう言った。

 「単刀直入に言うよ。エト、私を相続しないか?」

斜線堂有紀『夏の終わりに君が死ねば完璧だったのに』p.18

 金塊病の患者は死後、ほぼ金と同じ組成に体が変質し、弥子の死体は三億円の価値になるという。
 エトは弥子とチェッカーの勝負をし、自分が弥子に勝ったら相続するという約束をした。
 何度も勝負を続けるうちに、弥子との交流は深まるが、弥子の終わりは少しずつ近づいていたーー。


 斜線堂有紀さんの作品を読んだのは初めてだった。寡聞で申し訳ないが。
 淡々とした語り口と、登場した要素がまるで元からそこにあったように収まっていく気持ちよさは、とても気持ちよいミステリーだ。

 とはいえ、ぐっと唇を引き結んでこらえたくなる感情の沸き起こりも何度もあった。
 ミステリと思わずに読んでいたので、余計にどきっとしたのもある。
 読みながら少しずつ息を詰める。苦しいのは、言葉の不確かさが故だ。言葉を声に出すのは、述べたそれが真実であると伝えることが本質であるはずなのに、そうでないことばかりが訴えかけられる。

 弥子の病状の進行とともにエトに突きつけられるのは、金に変わる病人の見舞いをするのは金を相続するためだという周囲の視線と、ただ弥子が好きだからだと言う自分の心との食い違い。そして弥子への想いの証明だ。

 三億円がありさえすれば、エトの望みは全て叶えられる。
 弥子が死んだら、エトは幸せになる手段を手に入れられる。
 たとえ金が目当てでなくたって、利害が一度絡んでしまうと愛を口にするだけ嘘みたいに聞こえてしまう。
 言葉とはなんて不確かか。

 それでも口にすることに意味があると、言っていいのか?

 ただ望まれるだけの言葉を口にすることに、果たして意味はあるか。
 その言葉はどう聞こえるのか。
 エトの直面した悩みに、自分ごとのようにはっとしてしまった。
 弥子に望まれた言葉を本心から口にしたエトでさえ、自分の言葉が薄っぺらに聞こえてならなかったのなら、本心の在処もわからない私の言葉は誰にどう聞こえたのか。
 私自身にどう聞こえていたか。
 ……ちょっと思い出せないので、次人と言葉を交わすのが少し怖くなりそうな気さえしている。


 そしてもうひとつ。
 この小説は次の一文から始まる。

 弥子さんと過ごした時間には一銭の価値もないのに、彼女の死体には三億円以上の価値がある。

斜線堂有紀『夏の終わりに君が死ねば完璧だったのに』p.2

 価値ってなんだ? と思う。

 値段がつくと、私たちは簡単にその価値を判じることができる。のだろうか?
 100円のチョコレートと1000円のチョコレート。
 後者の方が質の良い材料を使っているか、製法にこだわっているか、美味しいか、いずれかに当てはまりそうだ。
 でも、100円玉ひとつを握りしめた子どもにしてみれば、手に入れやすさもまた価値と言えそうだ。

 価値は各々の、判じる人の考え一つによって決まる。同じような見方をする人が集まれば、価値を一様に判じることもできる。
 その最も同じような見方が、定数的に表すことのできる値段という価値なのだと思うし、その信奉者が多いことには疑問がない。事実私もそういう貨幣経済のなかで生きているのだし。

 だけど、物語の最初でこうして、お金に替えることのできない時間と物質的な金の価値を同じ天秤で語るーーあるいは語るしかならないことが苦しくてならない。
 先に言った通り、価値の測り方が各々の考え一つであるならば、弥子と過ごす時間に価値をつけることができるのは、同じ時を過ごして、弥子を大事に思うーー弥子の存在を金塊病云々を抜きにして価値あるものと感じることのできるエトだけなのだから。
 それでも一般の感性に立てば、金額的価値を第一にすれば、この物語の語り手としては、「弥子さんとの時間は一銭の価値もない」。
 なんて切ないんだろう。


 大切だと言えることを大事にしようと思う。
 好きだ、素敵だと言えることを大事にしたいと思う。言えるなら言うべきだとも。
 その価値観を持つのは、もしかしたら自分だけなのかもしれないし。その価値観を共有できるのは、同じ見方をできる相手とだけなのだから。いれば、だけど。

 まあ、言うのは正直何の言葉でもいい。
 価値観について語るのは、ほとんど感情について語るのと一緒だ。
 私はこう感じた、思った、ということに価値をつけることができるのは自分だけだ。あるいはその価値を捨て去ることも。
 自分を大切にできるのは究極、自分しかいないということである。考えてみれば語り尽くされた言葉だろうが、それもまあいい。
 自分の言葉を、感情を、心を価値のあるものと思っていたいものだ。


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