異言で祈ってみた
前にペンテコステ派の友達が、「異言で祈るのはどう?」とラインで勧めてくれた時に、「異言には抵抗があって…」と返信して話は終わったんですが、気になってはいました。
「異言」というのは、クリスチャンでない人は耳慣れないと思いますが、本人にも周りの人にも意味のわからない言葉で話したり祈ったりすることです。聖霊の力によると言われています。
教会の礼拝で、みんなが一斉に異言で祈っていたら、私はかなり抵抗を感じてしまうと思います。でもちょっと調べてみたら、異言というのは、個人的に祈ったらいいとわかりました。
ウツの時は、自分が何を願っているのか自分でわからないし、祈りの言葉を探していると混乱してどんどん辛くなるので、「言葉として意味のない音でもいいなら祈れるかも…」と小さな声で異言で祈ってみました。
その結果…混乱しきった自分を、神様がそのまましっかり受けとめてくださっているのがわかった気がしたので、「異言て、言葉で考えて祈るのが辛い時は、すごくいいかも!」と思いました。
異言で祈ることは、言葉を話せない赤ちゃんが何かを求めて泣き叫ぶのに似ているかもしれません。
神様はどんな時でも、親が赤ちゃんにするように私たちをしっかりと抱きしめて、ケアしてくれたり、なだめたりしてくれるということが、異言で祈ってみて、よくわかりました。
異言の祈りでこんな平安が与えられるとは思いませんでした。異言の祈りを必要としない人も多いでしょうけど、勧めたくなる理由がわかりました。
私の場合、「この気持ちをどう表現したらいいだろう?」と考えすぎてしまい、結局祈らないということがありました。「言葉」が邪魔になってしまうのです。
でも、頭で言葉を選んで祈ることも大切ですから、異言で祈ったり、言葉で祈ったり、その時の自分の状態で選び、声に出さない祈りもするなら、どこにいても、何をしていても、思いついた時に祈れると思いました。
[コリント人への手紙 第一 14:14,15]
もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈りますが、私の知性は実を結びません。
それでは、どうすればよいのでしょう。私は霊で祈り、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。
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