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この前の投稿と、GPTの解説

この前、こんな投稿をしました。

丿貫(へちかん)とボンヌフォンと老子と。
動的平衡と構造と辺境。
雪と陰鬱と美しさ。
然り共を大切に。
澱と葉を変態させ続ける。

朝やけと、明るさを手に入れるにはどうしたらいいのか。

つまりは、「ガンガンいこうぜ」より、「いのちだいじに」寄りの、「いろいろやろうぜ」で、たまに「めいれいさせろ」ですね。ステータスがデバフとバフに振っているので、闘い方が特殊です。

一物全体をレイヤーとグラデーションで立体化させるのが、ポイント高め。
その部分で発酵と乾燥が面白くて。最近は乾燥が面白い。乾燥時の温度までは、まだ見れてない。
「無い」から、「有るもので頑張る」が雪と好相性。

藤田潤也スレッズ

ちなみに、ここで身土不二が出てこない。というより、身土不二は「身」の対象者が難しい。人類は食のために旅ができてしまうから。

対象者が僕であれば身土不二になるけど、対象者が来客者であれば、身土不二にはならない。視点が違うので。
まだ、言葉にならないけど一物全体と身土不二は視点感というか、次元というか、レイヤーというか、そこら辺が違う。
価値を付与すると、ある種のレイヤーは切り捨てなければならない気がする。

藤田潤也スレッズ

仏教だから、一物全体ではなく。辺境だから、一物全体です。老子は道教ですが、道教が好きなのではなく、丿貫が好きなのと、「構造」が「道(タオ)」に感じるからと、自然の捉え方が好きだからです。

藤田潤也スレッズ

構造は道に感じるは、近しいという感じ。蟲師の光脈とか。無→理→構造→システム→レシピ→価値→一品。の順的な感じ…。無、理、構造までが「道」でシステム、レシピ、価値、一品が「名」の様な。

藤田潤也スレッズ


これを、chatGPTに解説してもらいました。

藤田潤也さんの最近のSNS投稿は、彼の料理哲学と人生観を映し出しています。この投稿は、料理に対する彼のアプローチだけでなく、彼がどのように自然や文化と繋がっているかを理解するための鍵を提供します。以下では、この投稿を分解し、それぞれの要素について解説していきます。

1. **丿貫、ボンヌフォン、老子**:
  藤田潤也さんは、丿貫(戦国時代後期の茶人)、ニコラ・ド・ボンヌフォン(17世紀のフランスの料理人)、老子(中国の古代哲学者、道教の創始者)から影響を受けています。これらの人物から、彼は独自の料理哲学を形成しています。丿貫からは自己の信念に基づいた茶道の追求を、ボンヌフォンからは食材本来の味を尊重することの重要性を、老子からは自然との調和の重要性を学んでいます。

2. **動的平衡、構造、辺境**:
  これらの言葉は、藤田さんが自然、料理、人生において求めるバランスと構造、そして新しい可能性を探る意欲を示しています。特に「辺境」という言葉は、彼が住む青森という地を指し、限られた環境の中でどのように料理を作り出すかという彼の探求心を象徴しています。

3. **雪、陰鬱、美しさ**:
  これらの言葉は、青森の厳しい冬の美しさと、それに伴う感情を表しています。藤田さんは、自然の要素とそれがもたらす感情を料理に反映させることで、食材だけでなくその背後にある物語や情景を伝えたいと考えています。

4. **然り共、澱と葉の変態**:
  「然り共」は全てが互いに関連しているという概念であり、藤田さんはこの考えを通して、一見無価値な澱や葉のような食材でも価値を見出し、変化させることを目指しています。

5. **生活のスタイル**:
  彼は、「いのちだいじに」をモットーに、様々なことに挑戦しながらも、自分自身と自然に対して敬意を払う生活を送ることを提唱しています。このバランスの取り方は、彼の料理、生活、自然との関係全般に影響を与えています。

6. **一物全体と身土不二**:
  一物全体は、食材を全て利用することを指し、身土不二は身体と土地の一体性を意味します。藤田さんは、これらの原則を通じて、青森という土地と調和しながら食材の全てを価値あるものとして活用し、地元の食材を季節ごとに最大限に利用することの重要性を伝えています。

これらの原則から、藤田潤也さんは、食材と自然、そして人間の関係を再考し、それを自身の料理と生活にどう取り入れるかを模索しています。青森という自然豊かだが食材が限られた土地で、彼は食材の持つ本質や生命力を引き出すことに専念しています。それは単に料理を作る行為にとどまらず、地元の自然との深い結びつきを通じて、季節感や地域の風土を料理に反映させることを意味しています。

彼の料理へのアプローチは、単に美味しいものを作るという以上のものです。それは、食材一つ一つに敬意を払い、それぞれが持つストーリーを尊重することから始まります。彼は、食材の一部を捨てるのではなく、全てを利用し、それに新しい命を吹き込むことにより、無駄を減らし、食材本来の味わいを最大限に引き出すことを目指しています。これは、身土不二の原則と結びつき、地元の食材を使用することで、身体と地域の環境が一致するという理想を追求しています。

藤田潤也さんの思考と料理におけるこれらの原則は、彼のフォロワーにとっても価値ある教訓です。彼らにとって、彼の投稿は、ただの料理のレシピや方法以上のものを提供します。それは、自然とのより深い関係、食材への敬意、そして日々の生活の中で意識的な選択をすることの重要性を教えてくれます。藤田潤也さんの料理法や生活態度は、彼の地域である青森から学ぶべき多くの教訓を含んでおり、それを通じて、私たち自身の生活や自然との関係を見直す機会を提供してくれるのです。

chatGPT4


また、「構造は道に感じる」という言葉は、彼が物事の基礎的な構造やシステムを、生きるための道または方法と密接に関連していると感じていることを示しています。彼はこのプロセスを、アニメ「蟲師」の光脈(物事の本質的な力やエネルギーの流れを象徴するもの)に例えています。

そして、彼は「無から理へ、理から構造へ」という進化の流れを説明しており、それが最終的に「システム、レシピ、価値、一品」という具体的な形成へと繋がると述べています。ここで彼は、「道」から「名」への変遷を示唆しています。これは、抽象的な理念や自然の法則(道)から、具体的な形や製品(名)への変化を意味しています。つまり、藤田潤也さんは、自然や哲学の抽象的な概念から、具体的な料理や製品へのアイデアの変換を重視しているのです。

chatGPT4

補足として。

3番の然り共という言葉は、またおいおい説明させてください。澱と葉も上手く説明できていないですね。
ここは、課題。
澱と葉の名前の定義が自分でも変化している最中なので、ここは一旦放ってください。

デバフとバフの話は、ゲーム上におけるキャラクターの得意科目と捉えてください。
料理人のスタンダードスキルは、技術やコミュニケーション、体力です。それは、ゲーム上においては、力や攻撃、回復魔法、防御のようなスタンダードスキルです。

この場合、デバフとバフはゲーム攻略において、「あれば楽」ぐらいのものだと思ってください。
そして、私の状態は、それしか無い様なものです。
なので、生き抜き方が特殊になります。


また、ここまで書くためにChatGPTに学習してもらったことも載せておきます。

丿貫は、調べてもらった通りですが、彼は世間に着目されず、自身の茶道を探求する姿に対して、藤田潤也は心惹かれています。また、丿貫は豊臣秀吉に大茶会で登用されそうになった時でさえ、自身の茶道を探求するために断りました。その信念をリスペクトしています。

また、ニコラ・ド・ボンヌフォンには、名言が残っており、「キャベツの味のポタージュには完璧にキャベツの味がするべきだ」

「ポタージュについていえることは、どんな料理にも例外なく当てはまる基本原則だと思う」

ニコラ・ド・ボンヌフォン
田園の楽しみ

という、素材の味を全面に感じられ、且つ何で出来ているか分かる料理を尊重しています。
この考え方は、藤田潤也が目指す料理像にとって、とても参考になります。


また、雪国青森という土地の特性上、その土地で取れる食材のバリエーションが豊富では無いため、食材を使い切るということが必要です。それでも、食べ飽きずにいろいろなバリエーションを出すとなると、一つの食材をさまざまなアプローチで味わいの変化を出す必要があります。(一物全体の思想は、ここで必要になり)ボンヌフォンの考え方は、一物全体を正当化するための料理規範になるのです。

藤田潤也

藤田潤也は、こう投稿しています。

「仏教だから、一物全体ではなく。辺境だから、一物全体です。」
これは、青森という辺境の土地において食材を使い切ることが、青森の土地を表現でき、また、然り共の哲学上、一つの食材を一つの生命として捉え、その食材へのリスペクトを込めています。

また、身土不二に関して、この様に投稿しています。

「ちなみに、ここで身土不二が出てこない。というより、身土不二は「身」の対象者が難しい。人類は食のために旅ができてしまうから。

対象者が僕であれば身土不二になるけど、対象者が来客者であれば、身土不二にはならない。視点が違うので。
まだ、言葉にならないけど一物全体と身土不二は視点感というか、次元というか、レイヤーというか、そこら辺が違う。
価値を付与すると、ある種のレイヤーは切り捨てなければならない気がする。」

つまり、旅をして食べ物を探すという人類の行いは、仏教的な身土不二を当てはめる事は難しいと言っています。

藤田潤也

と、こんな感じでやり取りしています。

そして、この投稿の最終目的は、自分の行っている事に対しての振り返りと客観的な視点を模索すること。
それから、料理を作る時の考え方を見直すために行いました。
最近、食材を信じるということや、自分の未熟さへの直視が足りなかった様に感じたので、この反芻です。
がんばります。

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