午前3時の君へ、同じ時間を過ごす僕より

こんな時間に文字を打つことになっているのは、朝起きるのが遅かったからである。そんなことはどうでもいい。

法科大学院の一年間が終わった。二ヶ月の春休み期間真っ只中である。正直いうと勉強だけしていればいい環境は決してハードではない。理不尽なことは滅多に起きない、いや何が理不尽か無理やり考えることもできないではない。それは自分の能力への自信のなさそのものを理不尽ということができるかもしれない、その程度である。

近年の僕は、勉強ができることは褒められるべきことではないように感じている。
そこに不健全性を感じるからである。ここに不健全性とは、仮にその力を失うことで自己を統治できなくなる脆弱性に見ることにする。勉強ができるようになるには、その人が持つ理解力、適切な年齢、時期に勉強をすることが正しいと思える力、自分を勉強できるような環境に置く環境整備力、このような力が必要だが、そんなものを会得するのはあまりにも偶然性が大きいのではないか。

にも関わらず、このような偶然性を無視して、単に努力によって勉強ができるようになる(ここでいう勉強ができることは、広い意味で抑えて欲しい)と信じて相手を、できるないしできないで評価する風習に頭が痛くなる。

そこに自分の力なんて存しているのだろうか。

先ほど褒められるべきではないなどと消極的な命題を立てたが、ここで、「万人がいうところの勉強ができる」という定義に、その人自身が培った力が果たして少しても入っているのか。

例えば、今の僕は、ある朝起きて刑法の勉強を始めて共同正犯の処罰根拠の論証を覚えて、司法試験予備試験の過去問にてその論証が書けたとき、「ああ勉強ができた」と思うよりむしろ、どこに自分の頑張った点、どこに自己の力が反映されたのかさっぱりわからなくなっている。



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