2月2日

受精レースで1億3千もの精子と競争するなか、最初に卵子にたどり着くのは、鼻がよくきく精子だそうです。精子には匂いを感知する感覚器があって、卵子の匂いに向かって泳いだ一番早い奴が、生まれてこれる。

無事に生まれてきて、大きくなって出会ったある人の匂いが好みだとついていきたくなるのはその名残かな、と思う。

宮崎夏次系「と、ある日のすごくふしぎ」という漫画を読んだ。短編が20数話あり、直接的な関わりはないけれど前に出てきた風景がまた出てきたりする。好きだったのは「と、ある日の二人っきり」という話で、出会った二人がお互いに、女の子が「それはドラゴンボールというのよ」男の子が「これはBBQというんだよ」と教え合うところ。

今まで別の場所で別のことをしてきた二人が、出会い、今まで見てきた好きなものを教え合う。それがなんかいいなぁ、と思った。好きなものも見てきたものも違う、新しく教えてもらって「ふぅん」と知って起きているのはそれだけなんだけれど。

好きなものが同じでも違っても、同じことなんじゃないか、と思うようになった。もちろん好きなものが同じで共通項があれば話題になるし、きっかけにもなる。でも全く好きなものが違っても、聞く耳があって新しいことを知ろうとする好奇心があったら、共通項が無くても楽しく過ごせるんじゃないか、と。

今までは如何に同じになれるか同じものを好きか、を重要視していたけれど、自分の世界を狭めている気がしてきた。

自分にはなにもないとか、人とは違くなりたいとか言っているのを聞くと、自分の好きなものをただ貪っていたら勝手に偏っていくでしょ、と思う。なにもないっていうのは皆に知覚される内側はなにもないっていう意味だと思ってるけど、人に自分の感覚を認めて貰わなきゃ自分でも認められないって、どゆことって思う。

私に興味無い人は私のことを好き勝手に思うし内側を見る気もないから、その人たちに証明しなきゃいけない私って何。私の感受性で「気持ちいい」と思ったらそれで完結している。

「闇金ウシジマくん」ドラマ3シーズンと映画4作、すべて見た。ドラマの一話でウシジマくんが「俺は野菜は食わねえ」と言ったからすぐに親近感を覚えた。ウシジマくんはちゃんと借りたお金を返せば怖いことはしてこないし人の好き嫌いも差別もしないし、人の経済能力を見て回収できる分しか貸さないし、仕事相手としては信頼できると思った。出会いたくはない。

闇金ウシジマくんに出てくる沼る債務者、他人事じゃないというか私でも一歩入ってしまったらずるずると簡単に落ちていくだろうなぁと、怖かった。債務者で取り返しのつかなくなる人たちは、富・名声・一発逆転・モテ・今さえ良ければいいと考えている人ばかりで、反対に返済できる人たちはあるところで踏みとどまってやり直そう、今からでも変わろうと決めた人だった。

計画性って大事だな。沼っていた人たち、『人からこう思われたい』『社会的にこの位置に行きたい』というのが第一で、自分自身の感じる幸せが何か分かってないんじゃないかと思った。そういうとウシジマくんは「ひとそれぞれだろ」って言うんだろうけど。

私は社会や他者との関係の中に幸せを設定するだけじゃなくて、私ひとりでも味わえることに幸せを設定して、それが多い方が壊れず破滅せずに生きれるんじゃないかと思う。

例えば散歩して太陽が暖かいとうれしいな、とかご飯がおいしいな、とか。当たり前の、ショボいっちゃショボいことに、しっかり感受性効かせて『気持ちいいな嬉しいな』って思えることが大事な気がする。社会も他者も不安定で確実じゃないけど、自分のことなら動かせるもん。

でも『人にこう思われたい』と思う気持ちは凄く分かる。私も賢いと思われたい。かわいい、面白い人だと思われたい。その気持ちで暴走して、かわいいって言ってくれる人に付いていったり、賢いと思われたくて知的トークをしたり、したこともある。そういうもんでしょう。

自分の全部を連れていきたいという思いがあって、過去に失敗した自分も、人を蔑ろにした自分も、不道徳な自分も全部殺さないで、捨てず置いていかず、連れて一緒に生きたいと思っている。

テレステというsteamのゲームで、ある女の子が雪山に登る中で引きこもりのホテルマンや、自分自身の影に会いながらもどんどん上へ上っていくというストーリーなんだけれど。あるところで、自分の黒い部分が自分から分離して、それを捕まえようと追いかけるのね。で捕まえたら今度はそれが暴走して、大きくなって、自分を追いかけてくるの。それで逃げて逃げて逃げて、でも受け入れないとと気付いて、受け入れたら暴走は収まり、陰の自分と陽の自分が合わさって、前よりもっと高く飛べるようになる。

私にとってはこれが本当で、こうしていたいなと思う。自分の弱いところ、汚い見たくない、捨てていきたいところって、追いかけてくるんだよね、どうしてもずっと。諦めて受け入れて、私は実はいい人間じゃないんだ。ずっと弱いんだって思ったら、軽くなったりするんだよね。

『あれ以来私はポジティブになった。悩むのを止めた』って言う人もいて、今のその人にとってはそのやり方があっているのならそれでいいと思う。でもそういうことを人から聞くたびに、私はその人に置いていかれたネガティブなその人の一部を感じて、勝手に寂しくなる。

置いていかなくていいのに、捨てなくても、切り捨てなくても、ネガティブな部分だって、その時のその人を守ろうとどうにかこうにか頑張ってやってくれていたのになって思う。

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