車の中で話すこと

 水曜日なおみちゃんと水の杜に行って、その帰りの車中で話していたことを書いてみたくなった。車の中で話すことって独特に面白い。夕方家に帰るために車を走り出し、森の緑を見ながら、やがて町に差し掛かってきたとき、なおみちゃんが車の中で座りなおして改まった感じで話し始めた。「・・・ってとき、しほさんはどうしますか?」みたいな話だった。私は一番フィットするアンサーを探しながらすこーしづつ言葉を出してみる。自分自身が移ろいやすく、言うてたことも翌日になれば変わってしまうことはわかっている。今の自分がその質問にどう答えるんかなあって眺めている。
 それにしてもなおみちゃんの質問は少し不思議な質問だった。どうしてそれを聞きたいのかわからない、というか。質問するときは何か意図があるような気がするんだけど、その質問は意図がありすぎるけど、なんだかつかみどころがないような質問だった。でもそんなに緊急性がないというか、なおみちゃんがそのことでものすごく困っている感じもないようにみえた。私はピンとこないまましゃべり始めていた。ただ、自分の中に小さなずれがおこらないような感覚を大事にしていた。小さい嘘すらつかない感じ。ノンストレスな状態。
 人とかかわるって疲れる。私はサービスしすぎ、気をまわしすぎの傾向があるのでより疲れやすいと思う。基本的には一人が好きだ。それでもこの20年以上人とかかわるようなことを選んできた。しかも複数の人々とがっつりかかわるような。それは自分がやりたいこと、どうやら人生で見たい景色があって、そこへ向かうには人々の助けが必要らしくて、と思っているのかな?とにかく人に助けてもらわないとできないようなことばっかりをやろうとしてしまう。田んぼも機械が入らない場所だから、ひとつづつスコップですすきの根っこを掘り出さないといけないし、昨日も書いたけど、それは一人ではできないことだった。それに中津商店街のボロボロのお店をリノベーションすることも。そしてそういうみんなで力を合わせてやることがけっきょくは大好きだ。だから、人とかかわらざるおえないからこそ、人と疲れないつきあいかたを学ばないと、なのだ。疲れない、というだけではない、楽しい、うれしい、むしろゼロよりはプラスのほうに大きく動いていてほしい。それくらいがいい。損得で言うと得のほうがいい。お金で言えば赤字より黒字がいい。そういうスタンスでいるので、たとえ車の中のなにげない会話でも気を使いたくないし、気を遣うって何か上下がある気がする。それもとっぱらいたい。とかとか思いながら、そしてそういうことも言葉に出しながら、車中の会話は続く。なおみちゃんと私、二人して探検しているような、茂みを分け入って何か大事なものを探すような、そういうセッション。そういう相手でないと。ってこれまでは思ってた気がするけど、私がそう思えば、そういうつもりでさえいれば、きっと誰とでもいいんだろうな。もちろん生きものみたいなものだから、思ったようにはならんだろうけどさ。別に期待ないし、ゼロであればOK。

 そういう車中でのたわいのない会話のなかで、「モモの家もわたしがやりたいことというよりかは、始めた人(りえさん)のやりたいこと、見たい風景が現実になったらいいなあ。そういう手助けができたらなあ、と思って」という話をした。「モモの家」というのは私が運営にかかわっている吹田にあるコミュニティハウスのこと。創設者の彼女が子どものときに感じていた昭和30年代になった空気。人々がもっとゆっくりとしていた時代。お隣同士の垣根は低くて、垣根をくぐってお隣さんに行けば縁側でおじさんが座っている。折り紙を持っていったら教えてくれる。通りではチンドン屋さんが通り過ぎている。そういうあたたかな満ち満ちている世界を彼女は夢見ていた。そこで手助けっていうか。私は何もできなくって自分としてそこにいるだけ。キャラクターとしてそこで自分のやりたいことをやっているだけ、そういう手助け。それが一番大事なことって思っている。そういう話をしたら、おもしろがってくれた。水曜日の車中での話の中での私の一番のピークはそこ。ああ面白いんや、これ。私にはあたりまえすぎることだ。


 
  

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