一周忌と大学

 義母の一周忌で夫と車で高知に行ってきました。お義母さんの弟さんのKすけさんが徳島から息子さんたちと来てました。昨年はまだおなかの中にいた夫の甥っ子の赤ちゃんも5ヶ月になっていてにぎやかな法事になりました。Kすけさんが2年前にまとめた家系図を持ってきてていたのを徳島組が帰った後にながめていて、Kすけさんが覚えているいろんなことを想像してみたりして、赤ちゃんに気をとられてたけどもっとKすけさんにいろいろ話を聞けばよかったなあと思った。何が聞きたいとかわかんないけど、また会えるかなあ。義兄さんのお家でお泊りさせてもらって高知のおいしいもの、おいしいお酒で私はすぐに撃沈。翌日は早朝から日曜市に行って帰ってきました。淡竹やしいたけ、こんにゃく、ずいき、みょうがをゆずのきいたすし飯にのせた田舎寿司が素晴らしくおいしく、かわいい。それから街を走る路面電車が素晴らしいところだった。

 2日後に大学で大阪の人口の島、夢洲の自然や野鳥のこと、そして進められて行っている万博、IR、カジノの計画のことも交えて話をさせてもらう。カジノの是非を住民投票で決めさせてほしいという請求署名が大阪府では今集められているけれど、そのイベントを中津商店街ハナヤで開いた友人たちと、夢洲の自然観察を続けている友人と4人で登壇する。ほとんど私以外の3人がそれぞれの見えている感じている世界を話してもらって、私は大学の先生も含めて全員を知っているので、その場に立ち会うくらいの人としてそこに行くんだと思う。
 昨日の夜は高知から自宅にもどってご飯食べてお風呂入って、そのためのオンライン打ち合わせだった。
 政治家が票集めのための公共事業投資は昔からあるのだろうけれど、その延長線上にあるようなカジノ計画の気がする。行政が税金をつぎ込んで、カジノ運営。しかもそのことで大阪の景気が回復するとか何かいいことがあるのならまだしも、回収すら危うい。本来なら町のために住人のために未来への投資のために使えるお金を一部の人たちの利益のためにどんどんつかっていっている。
 大学生にどんな風に伝えるのがいいのかってことを考えると、どこから話していけばいいのだろう?と思う。この見えている世界、建前的に、法的に、一見民主的に見えている世界、そこに立ちふるまっている世界。と、同時に、それはあたかも書き割りのようなもので、いくらでもすり替えられるし、それを作っている人たちもいる。作られる世界が、人によって違っていたとしても、本来の自分とつながって創造されているものであれば、なにかしら通じえるような気がするけれど、今この世界に作られて行っているものたちに違和感を感じてしまう。つまり本当の自分と切り離して創造してしまっているのではないのかなーと。
 私たちは本来の自分とつながって創造を行うこともできるはず。でも今の世界を自動的に維持しようとしている力を意識しなければ、その自動に加担してしまうことになる。朝起きて寝るまでずっと無意識に加担している。生まれてから私たちが無意識にあたりまえにやっていること。

 私が書くということを始めようとしたのも、「意識」してみようと思ったから。何かしらの違和感、もやもやはあるんだけど、日々は過ぎていく。何か見えるのかもしれない。わからない。

 それでも直感的にであれ源流へと向かう本能みたいな自分の行動、その理由は、このことと関係がある。あたりまえのうその世界から脱出し、ほんまに生きるってことに近づきたいのだ。やみくもにわけもわからず何の計画もなく、ただただそっちへ行こうとしている。そういう大人もいるってことしか伝えられない。

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