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20210131 泣いた振りをした、最低の話 前

「おばあちゃんが緊急搬送された」

母親から突然の連絡が入った夜、私はエヴァンゲリオンを見ていた。好きなアニメを何周も見る性質を持つ私は、2022年秋現在、エヴァンゲリオン(注:劇場版ではなくアニメ版)を4周視聴しているが、2021年1月31日は記念すべきその2週目の視聴を始めた日であった。2月を直前にして寒さもいっそう深まっていた22時の自室。正月気分もそこそこに、成人式も2年後期の期末試験も終わった当時の私は、解放感に溢れ、当時ハマっていた「暖房をつけずに電気毛布に包まって、ドクターペッパー(ペットボトルは不可。ドクターペッパーは缶に限る)を飲みながらアニメを見る」という最高の娯楽を貪っていた。そんな夜。

第8話の途中、弐号機が海中で使徒と闘っていた頃にスマホの液晶の上に踊ったLINEの文字に、当然私は驚いた。先週成人式のスーツを見せびらかしに行った時には元気そうであった父方の祖母が病院へ運ばれたというのだから当然である。心配になった。しかし、祖母の身体が弱くなり入院しがちになった数年前から何回かこういうことはあった。緊急搬送されたことも一度ではない。人間というのは恐ろしいもので、このような肉親の一大事にもいつかは慣れてしまうのである。心を動かされるのは、疲れてしまう。私は当然ながら人間であるし、人間はもれなく全員、多分だけど、疲れたくない。当時の私は、「心配ではあるが、まあ、いつもの通りなんとかなるだろう」という考えを持ち、楽観かつ達観していた。してしまっていた。

私はそれまで21年間生きてきて未だに肉親の死に立ち会ったことがなかったのである。その時は考えたことも、想像したこともなかった。今思えば、なぜその時までに何も考えたことがなかったのか不思議なくらいである。葬式はいつも知らない人のもので、墓参りは「ちょっとだけ掃除のお手伝いをしたら帰り道にご褒美のお寿司を食べさせてもらえるイベント」くらいの認識でしか無かった。肉親の死は、それほどまでに遠いものであった。

翌朝、祖母が亡くなったことを知らされた。「知らされた」というのは、そのことを聞かされた時には既に亡くなっていたからである。私がエヴァンゲリオンを見ている間に亡くなっていたらしい。2月1日の早朝。いや、私は起きていたのだから1月31日の深深夜という認識の方が正しいのかもしれないが。

ただ、そんなことはどうでも良い。祖母が亡くなった。浴室での溺死だった。遺体の身元や事件性の有無を確認するため、父は既に家を出て警察に向かったらしい。家には父以外の家族が集まっていた。

当日の夕方だったかもしれないが、確か朝の時点で、2月4日の通夜と2月5日告別式と、既に葬式の日程は決まっていたように思う。これも朧気な記憶であるが、警察での遺体確認が済むと葬式場に連絡が入ったり、案内を渡されたりするらしい。そんな形の官民一体があるなんて知らなかった。前のnoteにも書いた通り、我が街は衰退の一途をたどっている為、比喩なしに駅前にはコンビニより多くの葬式場があるから、選ばれる葬式場の方は必死なのかもしれない。結局決まった葬式場の場所は、高校の最寄り駅のすぐ近く、母校の所謂「カップルロード」の麓にある葬式場だ。元パチンコ屋で私が幼い頃に葬式場にモデルチェンジされた葬式場なので正直若干抵抗はあったが、比較的最近改修されたのでとにかく綺麗ではあった。

翌日、2月2日。事務的なことも進めなくてはならない。私も姉も葬式の日に向けてアルバイト先と会社に連絡を入れる必要があった。先日コロナになった時も感じたが、肉親の死に直面したとしても、新型感染症にかかったとしても自分でシフトの代わりを見つけなくてはならないというのは、本当に社会は厳しいなと感じる。この先40年以上もこの社会で社会人として生きていけるのか、非常に心配になっている。まあ姉は半分キレながら休みの連絡を入れていたが、姉には多分人の心がないのだと思う。

ヘルプを探している時の俺

今思えば、正直葬式まではトントン拍子だったな、という小学生でも持てそうな感想を持っている。何をして過ごしていたかもよく覚えていない。覚えている範囲であれば、部活再開に向けて弽を買ったり、月末に控えたTOEICの勉強をしたり、来春に控えた公務員試験の勉強をしたりだったか。

父はその日も家に帰ってこなかった。準備が忙しいらしい。父はそういった運営を、やるなら徹底的にやる人だから、細部までこだわったり調整をしていたりしていたみたいだ。父のそういうところは本当に好きである。また、存命の祖父が喪主ではあるが、東京大空襲の経験者なくらいにはお年を召しているので、そのサポートも大変なのだろう。それくらいしっかりした父親が、その母親の死に向き合った時にどう言った反応をするのかが全く想像がつかなかった。ケラケラ笑っている姿も想像がつくし、若干不機嫌になっている姿も思いつく。まぁ、大泣きとかはないだろうな、その程度の想像ではあったけれども。

想像がつかないなら、実際に見る方が、話は早い

その頃になっても、私には未だに「祖母が亡くなった」ことへの現実感はなかった。シュレディンガーの猫、ではないが、棺の窓を最初に開けるまでは亡くなっているかわからない、とまで思っていた気がする。そんなはずはないのに。2月2日には、溺死した祖母の遺体は水分を多く含んでいるため、祖父母の家まで戻ることは叶わないということも聞かされていた。そのような、詳細な、ある1面からするなら大変に残酷な現実を聞かされて、逆説的に唱えるならそこまで祖母の死を意識させられているのに、それでもまだ、祖母の死をわかっていなかった。受け入れられていなかった。

事実

まだ、数駅先の電車に乗れば、駅前の不動産屋で仕事をしているように思えたし、車で15分走れば祖父母の家に着きいつものように優しい笑顔で出迎えてくれるようにも思えた。

2月3日になっても父親は帰ってこない。夕方、母親から「センコーバンをやりなさい」と言われる。センコーバンとはなんだ?

そして、そのまま2月4日を迎える。

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