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ちょっとだけ米澤穂信の古典部っぽかった話

 あらかじめ断っておくけれど、この話には劇的なオチなどない。
 ほんの些細な勘違いから不思議に思ったこと、ただそれだけの話だ。
 誰も死んだりしない日常のミステリとも呼べないような出来事、それだけであることを覚えておいて欲しい。

 僕はかつて本屋で働いていた。
 今は書店員ではなくなったけれど、やはり本のまわりで仕事をしている。
 雑誌と新刊の文庫やコミックの陳列をする必要がないから、朝はさほど早くない。
 なので数少ない入荷する本や雑誌を運んで来るトラックは、地域の書店だけでなく遠方をも回り終わって一番最後にやってくる。

 昨日、ドライバーさんと梱包途中の段ボール箱を前に「明日これを返品に出すから心持ち遅めに来て欲しい」という話をした。
 というのも時々、納品数が少なくて、なおかつ僕らの始業時間直前に来てしまった時は、何しろオフィスビルの上の階で持ち去られる可能性は限りなく少ないから、暗黙の了解的に事務所の前に置いて行かれることがままあるのだ。
 なので、返品が出そうな時はこうやって前もってドライバーさんに話しておいたり、「置き配」が続いた時には電話したりもする。

 そして昨日、「台車を持って上がって来ようか?」「いえ、僕が一緒に台車を押して降りましょうか?」なんて話をしていたのだ。
 オフィスビルの前ということもあって、ある程度路上駐車は黙認されているみたいな空気だけれど、終日大型トラックから軽ワゴンまで色々な車がやって来ては駐停車するから、ドライバーさんたちの間には互いに長時間停めない紳士協定的なものもあるようで、だから駐車時間は出来るだけ短くしたいという相互認識が前提としてあったわけだ。

 そして今朝、僕が出勤した時にはもうビルの前にトラックが停まっていた。
 運転席を覗くとドライバーさんはもう降りた後だった。
 ビルの入り口、気持ち程度のエントランスホールの突き当たりにエレベーターが一台だけある。
 ちょうど閉まりかけたそのドアの中にドライバーさんがいたように見えた。
 ちなみに今の僕は軽めの近視と進行しつつある老眼が拮抗していて、普段は眼鏡をかけていない。
 エレベーターの隣には避難通路を兼ねた階段もあるけれど、最近膝痛がひどくなって来ているので、エレベーターが降りてくるのを待つことにした。
 降りて来たエレベーターは無人だったから、ドライバーさんは事務所の入口で待っているのかな? だったら少し無理しても階段で登ればよかったかな? なんて思いながら事務所に向かうと、上司が既に出勤していて入口の鍵は開いていて、返品の段ボール箱は無く、僅かな納品の梱包が置いてあり、ドライバーさんの姿はなかった。

「トラックはもう来ていて、閉まりかけたエレベーターの中にドライバーさんらしい人影を見たと思ったんですけど、途中ですれ違わなかったんですよね」
 僕は上司に話しかけた。
「ついさっき帰って行ったよ。階段使ったんじゃないか?」
「台車を抱えて、ですか?」
「いや、そうじゃなくて荷物を下ろして手ぶらで」

 つまるところドライバーさんは、納品はごく僅かだったので自前の台車は持たずに上がって来て、返品を載せてある僕らの台車を使って下に降りてトラックに積み込んだ後、空になった僕らの台車を押してまたエレベーターで上がるところを僕が目撃したわけだ。
 そして僕がエレベーターに乗っている間に、台車を事務所に戻して歩いて階段で降りて行った。

 全てはわざわざ二往復などするまいという僕の思い込みが引き起こした、パラドックスとも呼べない単なる思い違い、ただそれだけの朝だった。

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