歩道橋の老婆

仕事が終わり帰路につく。会社を出ると、肌寒い秋の風が肌を刺した。舞い上がる長めの髪を鬱陶しく思いながら、ぼくは思わず羽織っていたコートのファスナーを上げた。会社から駅までの直線距離は凡そ徒歩一分もないのに、間に大きく構える駐車場を迂回しなければいけないため、実際は五分ほどかかる。このどうでもいい歯がゆさを億劫に思いながら、駅への坂を下りた。駅へ着くと、今度は階段があり、それを登る。そして改札を抜け、今度はエスカレーターを降りる。そこで電車を待つ。
迂回して、下がって、上がって、また下がる。この街はつくづく車本位に設計されている。
電車が到着する時間は毎日バラバラで、最近は時刻表も確認しなくなった。正確な到着時間を予測するアプリも複数あるにはあるが、先月信用していたアプリが停止して以来、別のを試していない。さほど問題ではない。10分間隔で運行する電車は、運が悪くてもそれ以上待つことはない。
今日は運が良かった。到着時刻が電子掲示板を見やると三分と表示されていた。聴いていた曲が終わりにさしかかる頃、足元のLEDが瞬き始めた。念のため一歩引き、少しすると電車が止まった。
電車に乗り込むたび、ほんの少し不安がある。国内では治安の良い都市だが、公共交通機関を使えば良いといっても程度がある。車両に足を踏み入れた瞬間異臭がしたことも、隣の席で異国の念仏を唱える仙人に出くわしたこともあった。大音量で妙に好戦的なラップ音楽を得意げに流す河童の遭遇率などは日常茶飯事だった。しかし、今日はまた、運が良かった。異臭も、仙人も、河童もいない。平和な車両で、出来るだけ綺麗な席を瞬時に見分けると、ぼくはそこに座った。


必要以上に揺れる電車の中で、ぼくは帰路にある、アパート近くの歩道橋に思いを馳せた。アパートの前を通る大通りの頭上に弧を描く、ガラス張りの、近代的な歩道橋だった。外から見ると、三角形をいくつも継ぎ合わせたような見た目をしていて、おまけに夜になると黄色やオレンジといった目立つ色に光る。街を代表する不思議な建築物だった。
そして特出すべきは、そこに住まう老婆であった。
彼女は、目がどこにあるのか分からないぐらい皺だらけで、腰は直角に折れ曲がってはいたものの、まごうことなき老婆であり、人間であった。
歩道橋の中には休息をとるためのベンチが複数あり、その一つ一つが人一人横たわれるサイズだった。そして、そのベンチの一つは老婆の所有物であった。
ぼくが帰路につく度、老婆はそこにいた。
彼女は物乞いをするわけでもなく、念仏を唱えるわけでもなく、こちらを睨むことさえしたことがなかった。ただそこにじっと座り、考えているように見えた。
彼女の横にはいつも買い物をするときに使うような、カートがあった。中には、大量の服と、そして本が積まれていた。
本が好きなのだろうか。しかし彼女がその本を手に取っているところをぼくは見たことがない。不思議だった。
きっと彼女は、あのベンチと同化しようとしているのだと思った。何故ならぼくは、彼女が本を手に取るところを見るどころか、立ち上がったところさえ見たことがない。あれだけ生命力で溢れているのに、彼女は微動だにしない。きっと、その内、ぼくには見えなくなってしまうのではないだろうかと、そう思った。

気付けば最寄り駅についていた。

相変わらず雑な停止で体ががくっと揺れた後、ゆっくり立ち上がり、電車を降りた。エスカレータを上がり、改札を抜ける。そしてもう二回エスカレーターを上がり、外へ出て、またエスカレーターを上がる。
上がって、上がって、上がって、また上がる。
そこは例の歩道橋だった。ガラス張りではあるものの、上が吹き抜けになっており、外と同様肌寒い。
半分ぐらい歩いたところだろうか、彼女がいた。老婆は今日も、じっと、ただそこにいた。
ぼくは、ほっと安心したと同時になにか妙なことに気付いた。カートの中のものが少ない。衣類の数はほぼ変わってないように見えるのに、かさが減っているように見える原因を探った。そして気付く。あれだけ山積みになっていた本がなくなっていた。生活が困窮し、売ってしまったのだろうか。しかし、それならなぜ、今までずっと抱えていたのだろうか。分からない。ぼくにはわからない。


家に帰ると、仕事の疲れがどっと押し寄せ、ぼくはソファーに横たわると同時に意識を失った。目が覚めると既に22時で、溜息をつきながらシャワーを浴びる準備をした。そういえばまだ晩御飯を食べていないな、とか、冷蔵庫に何かあったっけ、とか、明日の仕事はなにがあったっけ、とか、他愛もない事を考えながら、身体の芯をとかすように降り注ぐ湯に身を包んだ。
シャワーから出ると、とりあえず冷蔵庫を開け、中を確認する。当然なにも入っていないそれを閉めると、今度は冷凍庫を開けた。複雑な気持ちを抱きながら、そこからぼくは小さなアイスクリームの容器を取り出し、それを今日の晩御飯として任命した。そこから先は覚えていない。シュガークラッシュ、血糖値の急激な乱降下によってぼくの意識は彼方へと消えた。


次の日、歩道橋に老婆はいなかった。遂に同化してしまったのだろうと思った。次の日も、次の日も。ぼくはもう二度と老婆を見ることはなかった。

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