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書き残さなかった世界は二度と戻らない

反論され、それは違うと言われた時、惨めな思いをするのが恐ろしくていつしか口が勝手に動くようになっていた。

考えを発したその瞬間から、取りつかれたように自分の意見の真実性を訴えるのは毎度のことで、また、そんな自分を滑稽に思い、後になって後悔するのも毎度のことであった。

喋りすぎる様が滑稽というのもあるが、本質はそこではない。人に伝えようとした瞬間、頭の中で思い描いていた景色や思想、或いは悲しみなんかがその場の雰囲気とか空気とかそういうものに触れてぽろぽろと崩れていく。どんなに意識していても、外気にあたるとどうしても、見栄をはったり、気をつかったり、怖気づいてしまう。

かと言って何処までも小心者の僕に、見栄をはらず、気をつかわず、怖気づかず外を出歩けるわけがない。だから、後悔をせずに歩こうとすると、もう口を閉ざすしかなくなる。

脳の奥底でふわふわと思い描く景色程美しいものはない。どこまでも繊細で、それでいて豪快で、移り変わりながらも絶対的。矛盾が矛盾と成立せずに存在できていることも少なくない。それなのに言葉で説明しようとした途端、あり得ないくらい陳腐で、幼稚なものになり下がる。

そんな残酷で惨めな仕打ちをくらうくらいなら何も言わない方がましだと思う。

もしも、その想像上の世界が「完全な真実性」を持っていたならば言葉足らずで時間がかかっても、言葉に侵されることなく、その世界を構築できたかもしれない。

しかし、僕のちっぽけな頭では、真実性の欠片さえも捉えることは叶わず、さらには言葉足らずまでもが加勢して、文字をひねり出すごとに嘘の割合は増していく。すべて出し切った頃に残っている真理は自分の名前くらいで、嘘の箇所を直そうと躍起になると、矛盾だらけの生ごみの様な哲学が出来上がる。

臭くて仕方がない。


それでも書きたくなることがある。喋らずにはいられないことがある。伝えられずにはいられないことがある。たとえ吐いた言葉がすでに無価値だとわかっていても、別れたほんの数分後には後悔に襲われることを知っていても。

そのわけ。

それは、美しい世界を自身で踏みにじること以上に、その世界がいつの間にか雲散していることに対して感じる、恐怖心である。

自分の思考が消え去ることは、自分の存在そのものが消え去るようなもので、生ごみの臭いさえしなくなると決まって、死が脳裏をよぎる。


笑いが込みあがる。

これではまるで、僕が勤勉な哲学者のようではないか。そんなことはない。

怠惰に食われ、駆られない日も勿論ある。

そして、そんな日に見た景色はもう二度と、戻ってはこない。


このところ、ぼくは自分についてあまり書きとめていない。多くのことを書かずにきた。それは怠惰のせいでもある。                           しかしまた、心配のためでもある。自己認識を損ないはしないかという心配だ。この心配は当然のことだ。というのも、書きとめることで、自己認識は固まってしまう。それが最終的なかたちとなる。そうなってもいいのは、書くことが、すべての細部に至るまで最高の完全さで、また完全な真実性をもって行われる場合に限られる。                                                    それができなければ —いずれにしてもぼくにはその能力はない― 書かれたものは、その自律性によって、また、かたちとなったものの圧倒的な力によって、ただのありふれた感情に取って代わってしまう。そのさい、本当の感情は消え失せ、書かれたものが無価値だとわかっても、すでに手遅れなのだ。                                                                      1911年1月12日 フランツ・カフカ

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