9月3日

「あなたにいちばん似合う帽子」

チュージーク学園の入学式はあっという間に終わったが、その後のオリエンテーションはひどく退屈なものだった。寮生たちは一か所に集められ、学生の心得なるものをそれこそ暗唱できるほど聞かされて、すっかり参ったよ。

ようやくキャンパスを出たのは夕方に差し掛かるころで、ただでさえ慣れないスーツで全身ガチガチに凝り固まった僕らに待ち構えていたのは気立しいサークルの勧誘だった。やたら恰幅の良いそばかすの男はアメリカン・フットボール、ひょろひょろのチビは天文学愛好会、紅茶研究会、漫画同好会、チアリーディングまで。

ありとあらゆるパンフレットを貰ったが、そのどれもが自分には無関係なので、隅にあるダストボックスに全部捨ててやった。

チュージーク学園は学費が高いので有名だったが、僕の実家は反対に貧しく、両親は朝から晩まで工場で働いてる。上の兄貴たちも中学を出たらそのまま働きに出た。僕もそれに倣って働きに出るものばかりと思っていたんだけど、おつむの出来がそこそこ良かったらしく、両親は一種の賭けに出たのか、僕にチュージーク学園へ進むことを勧めてきたのだった。

それでも心許ない学費やなんかは、僕が授業のあとでアルバイトをして足しにするつもりだった。入学式の前までに、寮から程近い寂れたモーテルで受付と清掃の仕事にありついた。無駄話をしなくていいし、自分には丁度いいかもしれない。たまにチュージークの制服を着た頭の空っぽな学生たちを追い出すのは難儀するだろうし、給料は笑っちゃうくらい安いけど、別に構わなかった。

来週の頭から出勤が決まっているが今日のところはまだ自由の身だ。このまま寮に帰って寝ちまうのがベストだが、それでは少しつまらない。どうせもうじき、夕方までみっちり勉強して夜までみっちり働く毎日になるのだから、今日くらいは気晴らしをしたいと思った。

チュージークの学生が気晴らしをしようと思ったら、まず一番に挙がるのがセントラルショップステーションだろう。いわば超巨大な雑貨屋で、本当になんでも揃ってる。生活に必要な食べ物やノートはもちろん、世界中の文献から極太のバイブレーションまで、とにかくなんでも取り扱っていて、その占有面積は学園の5000倍もある。セントラルショップステーションに無いものは無いほど、とにかく巨大な店だったのだ。

噂には聞いていたけど、実際入ってみると目眩がするくらい広くて、魂消たよ。田舎育ちの僕からすればひとつひとつが初めて見るようなもので、かぼちゃひとつ取っても、信じられないほど巨大なかぼちゃが蔓のついたまま売られていたし、もっとびっくりしたのは、腐ったかぼちゃまで売られていたことだった。

近くにいた店員に「このかぼちゃ腐ってますよ、下げた方がいい」と伝えたが
「いいえ、これは売り物です。"腐ったかぼちゃ"を欲しがる人もいるかもしれませんから。あなた新入生?ここでは何でも売ってるの。セントラルショップステーションへようこそ」と
こうきたので、皮肉屋な僕は
「本当になんでも?たとえば、聖書の切れ端だけ、売ってたりする?モナリザを描くのにダ・ヴィンチが使用した絵具は?それとインディアンの赤ん坊から抉った新鮮な眼球も欲しいんだけど?」と返すと、店員はあっけらかんと「切れ端ならエリア35Ba67サの棚、絵具はあなたのすぐ後ろ、眼球はスラックスエリアのDd49メに置いてあるわ」と言われた。

「ご親切にどうも」

モナリザの絵具をひとつ手に取ってその場を離れると店員は追うように声をかけた。

「でも眼球は高いから財布とよく相談してね。今はセール中だったと思うけど、それでも学生には手が出ないと思う」

セントラルショップステーションに無いものは無いらしい。

そのまましばらく歩いていると、僕の頭くらいの高さに男の首が三つぶら下がっていた。
とうとう死体まで売っているのかと驚いたが、よく見るとあちこちの壁に穴が開いており、その横には脚立が備え付けてある。観察を続けるとその穴は一種のジョークで、穴の横の小さな取っ掛かりを引っ張ると身体ひとつ分くらいの空間があり、そこに入って穴から首を出す、あとはその辺に居合わせた店員に脚立を退けてもらえば、周りから見れば壁から首だけが覗いている、という仕組みのからくりだった。

もっとも、このジョークをやるのも驚くのも入学したばかりの新入生くらいのもので、大半はみんな気にもかけていない。

僕が見た男3人組はいわゆる変人で、毎日、開店からここにやってきては、閉店までずっとこうして壁から頭を出しているらしい。50代くらいのハゲ上がったのがひとり、髭もじゃのがひとり、やけに睫毛が長いのがひとりで、右からロバートソン、ジャック、シルバーズサンという名前だそうだ。ロバートソンとジャックはときどき会話をするが、シルバーズサンは口元に血糊までつけて、死体に徹している様子。

いい加減ここの悪ふざけにも慣れてきたころ、僕はある女から声をかけられた。

「シルバーズサンは本当は死んでるって噂、知ってる?」

女は小柄で、でもサディスティックな雰囲気を醸してて、ゴシック調のファッションに身を包んでいた。顔は美人じゃないけど、なにか惹かれるものがあって、僕は直感的にこの女は自分に、好意あるいはそれにとてもよく似た感情を持っていることが分かった。

「知らない、でもさっき見かけたよ。あんなこと毎日やってるなんて死んでるのと一緒だと思うけどね」

僕がこう答えると女はニンマリ笑って、僕の手首を掴み引っ張って歩き出した。

「あなたって、イカしてる。ねえ、あっちで搾りたての牛乳が飲めるの。一緒に飲みましょうよ」

生鮮食品売り場もやっぱり巨大だった。今さら驚きもしないけど、売り場には生きた牛が本当にいて乳首の下にバケツが置いてある。牛乳を飲みたい人は勝手に絞って飲んでくれ、代金は無料だけど、何か牛の栄養になるものを買っていってくれ、という注意書きがあった。

女は牛の下に潜ると、要領よく乳首をしごき、勢いよく牛乳を絞るのだった。女の体格は牛の何倍も小さかったが、牛は恍惚の表情を浮かべて、されるがままだった。

コップになみなみと注がれた牛乳に口をつけると、とても味が濃くて、しばらく口の中で踊らせた。

「シルバーズサンはね」

女は牛乳に口をつけると、美味そうに、ゆっくり時間をかけて一口飲み込み、唇の上についた牛乳を舌で舐めとってから言った。

「悲しい人なの。死のうとして死ねなかったんだって。それで、ロバートソンとジャックは、優しい人で、彼らは親友だった。あるときシルバーズサンが自殺を図って、それに気付いてやれなかった自分を責めたの。それから彼らは、死ぬときは一緒だよって、誓いを立てて、ああやって毎日壁から首を突き出しているのよ」

「それでシルバーズサンだけ、血糊を」

「本当に血糊?舐めて確かめた?あたし、本当はシルバーズサンって死んでると思うの。それにね、ロバートソンもジャックも、やっぱり死んでると思う、何故って、それはあたしがそう思うからよ」

「でも本当に死んでたら問題になるんじゃない?」

「ここをどこだと思ってるの?セントラルステーションショップよ。人が死んでたって、気にしないくらいの"論理感の破綻"さえ、売られていたって不思議じゃないわ」

女はそう言ったあと、残っていた牛乳をすべて口にして、しばらくグチュグチュと口の中で咀嚼すると泡立ったそれを僕の顔面にぶっかけた。

吐きかけられた牛乳を拭いながら僕は言った。

「君って、イカれてる。」

「よく言われる。行きましょ、あたしね、帽子が欲しいの」

どうしてこんなことをされて僕が怒らなかったか、それを僕に聞かれてもうまく説明ができない。ただ女の持つ何かが作用したことは間違いない。丁度、女に乳首を扱かれながら恍惚の表情を浮かべていたあの牛のように、僕はされるがままだったのだ。

衣料品売り場は生鮮食品売り場から歩いて20分もかかるが、その間僕らは退屈しなかった。
女は自分のことばかり話すし、僕はそれに頷いていればそれでよかった。ときどき思いついた皮肉やエスプリを挟むと、女はとても嬉しそうにその場でぴょんぴょんと跳ねてみせる。

帽子売り場について物色を始めた。
僕は別に、帽子なんて欲しくなかったけど、女があんまり熱心にあれでもないこれでもないとい忙しいので、それにつられちまったらしい。
ごそごそと見るでも眺めるでもなく物色する。

「退屈そうね」

「そう見えるってことはそうなんだろうね」

「帽子はきらい?」

「僕には似合わないから」

「似合わないなんて言わないで。あなた、世界中の帽子を全部かぶったことあるの?もしかしたら、次に手に取る帽子が、あなたにいちばん似合う帽子かもしれないじゃない。きっと見つかると思うわ。なぜって、それはあたしがそう思うから。捜しましょうよ、だってここはーー…」

「セントラルショップステーションだものね」

対面で帽子を選んでいた女はニンマリ笑いながら、僕の方までやってきて、ふたりで並んで帽子を選んだ。硬いシルクハットも、麦のカンカン帽も、タモシャンターもソンブレロもチロリアンハットも、やっぱり僕には似合わなかったが、女は辛抱強く、次はこれ、その次はあれ、と選んでくれる。その執念深さに僕は絆されちまったらしい。

「わかったよ、なんだか似合う帽子が見つかる気がしてきた。僕も本気で探す。君は君の帽子が欲しいんだろう?選ぼうじゃないか」

女はニンマリ笑って

「そうね、その方が効率的だわね。あたし、あっちを捜してくる。30分経ったら集合しましょう。あなたにいちばん似合う帽子、見つかるといいわね」

30分、ぼくは血眼になって帽子を探して、ようやくとても気に入ったデザインのテレスコープが見つかった。サイズもばっちりで試着してみると、本当にとても自分になじんでる気がした。問題はこの帽子がとても重いことで、1kgはあるかもしれない。少しかぶってるだけで首が痛くなってきた。でももう時間がないし、本当にこのデザインが、僕は気に入ったんだ。
これにしようと思った。

元いた場所に戻ると、女はすでに待っていて、頭にはワインレッドのクロッシュが乗っかっていた。女の雰囲気にとてもよく合っていて、確かにこれはいちばん似合う帽子だと思った。
思ったが、よくよく見ると、そのクロッシュは所々解れていて、何箇所か糸が出ていた。新品じゃないことは見ればすぐわかった。

「よく似合ってるけど、それって中古?」

「いいえ、新品よ」

「へえ、そういうテイストなのかな。「リタ」…?聞いたことないブランドだな、でもこの刺繍は実に見事だ」

「これがね、どうしても欲しくて、ずっと捜してたの。見つかってよかった。あなたもよく似合ってるわ。言ったじゃない、きっと見つかるわって」

「おかげさまでね、でもほら、持ってごらん、これとても重いんだ。使えるかなぁ、でも気に入っちまったんだよね」

「そんなに重いなら風で飛ばされることもないし、失くして困ることもないわ。ずっと一緒にいられるはずよ」

「それもそうだね、ぼく、これにする。ねえ、そろそろ閉店だから、帰ろうよ。寮の門限に、遅れちまうぜ。僕、送ってやるから」

僕がそう言うと女は、何度目だろう、ニンマリと笑って言った。

「私は寮なんか帰らないわ。家があるもの。セントラルショップステーションには駅があるの知らない?」

「ああ、それでステーション」

「今日はありがとう。とても楽しかった。私はこれから汽車に乗って帰るわ、またいつか会いましょう。その時はこの帽子を被って来てね、きっとよ。あたし、あなたのこと愛してる。何故って、それはあたしがそう思うから」

女が駅に来るのを待ち構えてみたいに、汽車は汽笛を鳴らし、蒸気の煙幕と汽笛の音で、僕の耳は劈きそう。どうにかなってしまいそう。

「君の名前は?」

「知ってるはずよ」

「?」

女を乗せた汽車はすぐに動き出し、やがて見えなくなった。煙が晴れて、耳鳴りが治まるころには、セントラルショップステーションは閉店時間を過ぎ真っ暗になっていた。

誰もいない店内を歩いていると向こうで人の気配がする。それはロバートソンと、ジャックと、シルバーズサンだった。みんな酔っているようで、足元には空になったウイスキーとウォッカの瓶が落ちている。かっぱらってきたのだろうか。全員、陽気に歌を歌い、酒を飲んで、とても楽しそうだ。悲しいくらい、とてもとても、とても楽しそうだ。

「なにしてる?」僕は尋ねた。

「俺たちゃここで毎日、学生たちを脅かしてんのさ。ヒヒヒ、お前、今日ここで会ったな、驚いたかい?俺たちゃこれだけが生きがいなのさ。生まれてこの方こればっか。おかげで毎日楽しいよ。お前も踊れよ、それから歌え、生命が生命になる前の話をしよう!」

「あんたら、イカれてる」

「イカれてる?大いに褒め言葉さ。お前はどうだ?俺は今日お前を見たぜ。今にも射精しそうな面で牛乳を飲んでた。赤子の眼球は見つかったか?腐ったかぼちゃは売り物さ。えらくハイカラな帽子を見つけてきたじゃねえか。俺たちがイカれてるだって?お生憎様、俺たちは"生かされて"んのさ。おいシルバーズサン、この若造に教えてやれよ、ハイル!僕は生きています!ってな!あーはっはっは、こりゃ傑作だ!どれ若造、お前も歌え、どうせこの世は暇潰し、買い物がてらの珍道中、死ねば諸共終われば灰よ、灰も散りなばいつかは虚無よ…」

僕はたまらなくなって、そこから逃げるように走った。走りながら涙が止まらなかった。視界はぼやけ、呼吸が乱れ、顔はまるで子供みたいに赤くなって、反芻された景色が強烈な色彩を持って流れていく。僕の身体には赤い血液が流れている。その血はじきに沸騰して、僕をめちゃくちゃにしてしまうだろう。

僕ってイカれてる? アハハ、そうかもね。

リタ。
シルバーズサンは生きていたよ。

君は汽車に乗って、どこへ帰ったんだろう。

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