7月21日

午前中にサイクルショップに行って自転車を修理してもらった。自転車が壊れたのはかれこれ3ヶ月前にもなるのだが、物臭が災いしてつい先延ばし先延ばしになってしまっていたのだった。

と、同時に、壊れた自転車を眺めながら、ここ最近の俺の運動不足ぶりはいくらなんでも度を越してるんじゃないかと思い、それならなにも今すぐ修理せずとも、移動はすべて徒歩で済ませれば運動不足解消にもなって都合が良いのでは、と思い至り、半ばわざと放置する格好にもなっていたのだった。

結果仕事に向かうにも、日々の買い物も、趣味の散歩も、生活のほぼすべてを徒歩で賄ったおかげで運動不足はいくらか改善された。増えてしまった体重も元に戻った。

あすこのサイクルショップはあまり商売っ気を感じさせない所に好感が持てる。どうも、自転車屋や電気屋などは修理を頼むとだいたいみなすぐに「買い替えた方がいい」と宣うが、こっちはあくまで修理の腹づもりで来ているのだから、もう少しなんとかならないかといつもムッとしまう。せめて診察した上で、ここがダメになっているので、これこれこういう理由で買い替える事を勧める、というならば、こちらにも検討の余地が出来るというのに、ひどい時は症状を口頭で説明した時点で「買い替えろ」と言われる時もある。あれは虚しくなる。

そこへ行くとあすこのサイクルショップのオヤジはいつも「買い替えを勧めるが、直せなくもないから直してやる。あくまで応急処置だが使えないことはない。いよいよ壊れたらまた来い」とこうくるので、常に貧窮しているチンピラよろしくの身としてはありがたいのだった。

今日もそうやって"応急処置"を済ましてもらい、3ヶ月ぶりに愛車に跨ると楽な事この上なく。しかし今後も運動不足解消のため徒歩生活は続けようと思う。よっぽど遠い時にのみ、解禁する。

その後、コンビニに寄ってソーイングセットを購入した。先々月、梅田の服屋でよくよく悩んで買ったお気に入りのワイドパンツの臀部が少し裂けてしまったので、自分で直そうと思ったからだ。針仕事なんて家庭科の授業以来したことがないので、まともに出来るとは思えないが、チクチクと糸を紡いていく行為には、なにやら懐かしい安心感を覚えそうな気がしてならない。あわよくば趣味の一環に"手芸"が加わればいいなと企んでいる。

その後、一度帰宅し、友人と電話で話す。
毎度の事ながら全くもって中身のない丁々発止の応酬ではあるが、これを飽きもせず二十年近く続けている。中身がないのだから当然翌日には会話の九割を失念してしまっているのがお約束だが、今日は珍しく意見が一致し盛り上がった。

例えば四人の喫煙者が同じテーブルで会話をしていたとして、さあぼちぼち会計をしよう、という段になると大抵誰か一人が「じゃあこれ一本吸ったら行こう」とモクを咥え出す。そうすると残りの三人も我も我もと以下同文でスパスパやりだす。これはまったく構わないのだが、煙草というのは人によってかかる時間に差異がある。特にアメリカンスピリットのような燃焼時間が長いタバコと、ホープのようなそもそもが短いタバコとでは自ずと吸う時間にラグが生じる。

喫煙者Aが灰皿に殻を擦り付けているあたりでは、まだ喫煙者Bは四割程度しか吸い終わってない、このタイムラグにAは「もう一本吸えるぞ」と再びモクを咥えだす。喫煙者C、Dも含めると全員が揃って吸い終わるまでに非常に長い時間がかかることが、ままあるのだ。最小公倍数を探りつつ空虚な待ちの時間。小さいが、微妙なストレスを感じる。

話が逸れたが、そういう話を友人としながら、ストレスを緩和するために吸ってる煙草でストレスを感じては本末転倒もいい所だ、どうだいい加減俺たちも禁煙してみないかと持ちかけられたが、丁重に断った。

そのあとは銭湯に繰り出す。
近ごろの空模様は機嫌が悪かったようだが、ここ2、3日は晴れ間も見えてきたので久しぶりにスーパー銭湯へ。直したばかりの自転車でもって。

結論から言うと今日の銭湯はあまり良くなかった。もちろん気持ち良かったし回復もしたが、心が満ち切らなかった。俺は銭湯の、特にサウナが好きだ。じっくり汗を出してから水風呂に突っ込み、その後露天スペースの座椅子に座ってぼーっとするのがなによりデトックス。いわゆる「整う」ってやつだ。が、この日はあいにく先客が多く、五脚ある座椅子も常に埋まっていた。

このサウナの一連の流れの中で最も重要視しているのが座椅子に座ってぼーっとする工程なので、ここが出来ないとなると効果半減なのである。とはいえ、先客もサウナ好きのいわば同士。よっぽど長時間独占しているなら別だが、少々うたた寝するくらいは大目に見てあげたいのが人情というもの。疲れてるのはお互い様なのだ。

なかなか余計な遠慮が働いてしまい、正面からサウナを楽しむことができなかった。途中、二度ほど座椅子に腰掛ける事もあったのだが、他の人も使いたがってるんじゃないかと思うと気が散ってしまい3分ほどで立ち上がってしまった。

そうこうしてるうちに気持ちが冷めてしまって、1時間弱ほどで浴場を後にした。
喫煙所で煙草を吸ったあと、休憩処のマットレスに横になり1時間ほどじっと過ごす。

そうしてるうちに妙に心が翻筋斗打ってしまって、やけに胸がざわついてしまう。最近世間に衝撃が走った俳優の自殺についてあれこれ想いを巡らせてしまう。まとまらない考えの中で、どこか空滑りしていく頭の中の言葉たちをどう繋げばいいのかわからず、俺はただ天井を眺めることしかできなかった。

仕事が終わったパートナーに電話をする。
今日は丑の日だから夕飯は鰻にするという。
俺の落ち込みを察してくれたのか、いつもより落ち着いた声だったように今になって思う。

あの人がもしも、何か重い、余命が関わってくるような大病を患ってしまったら俺はまともでいられるだろうか。つくづく、昔から思うことは、命はその人だけのもので、生死は鏡のようなものだと考えている。従ってたとえ身近な人が「死にたい」と口にしても、それを否定するような事は決して言わなかった。逆に「生きる」事を殊更に褒め称す事もしなかった。

生きている事も死んでいく事も、同様に尊び貴いものだと思うから、どちらかに傾くような考えを持つのは憚られた。また、だからこそ必要以上に持ち上げるのも、自分の哲学が許さなかった。「生きてて偉いね」と口にした時、相反した自分が「死ぬのは悪い事だよ」と言ってるような気がするからだ。仮に「死ぬ事は悪(或いは敗北)」と定義すると、では自殺した友人は悪だったのかと思ってしまう。癌で亡くなった叔父は敗北したのか、と思ってしまう。そんなことはなかった。断じてそんなことは無かった。
どうしてもどうしても、生きる事を受け入れられなかった友人に、俺はそれを言えない。頑張って頑張って病気に立ち向かった叔父に、俺はそれを言えない。

命を大切にする、ということは即ち、生だけでなく死をも含め、"見届ける"ということではないだろうか。

と、俺はなにやら色即是空の心境で書き連ねたが、その上で、愛するパートナーや、本当に親しい友人、大好きな両親や、かけがえのない姉弟の身に問答無用の困難が起こった時、俺は本当にまともでいられるだろうか。

これから待ち受ける苦しい治療や不自由な生活に立ち向かう人たちの姿を見て、俺は本当にまともでいられるだろうか。

髪が抜けて、動けなくなって、苦しそうに咳をして、細くなっていく体を見て、俺は本当にまともでいられるだろうか。

自殺を選択するとき、人の頭の中は劈くような轟音なのか、或いは凪いだ海のように静かな、あまりにも静かな無音なのか、それを知って尚、俺は本当にまともでいられるだろうか。

その時になってみないとわからない。
自分がその立場になることだって、可能性としては十分ある。俺はいま何かとても恐ろしいものが背中にはりついてとれないままでいる。

銭湯を出たのは夕方17時半だった。
それから公園の中にある大きな池をしばらく眺めてゆっくり帰路についた。

道中スーパーに寄って、酒と魚を買った。
丑の日なので鰻と洒落込みたかったが、ちょうど鱧が半額になっていたので、引き取ることにした。同じ長物(ながもの)同士この際、鱧でも立派なものだろう。

それから鶏ミンチはつみれにして、あとは冷蔵庫に入ってる野菜を適当にいれて鍋にする。
朝、漬けておいた胡瓜もそろそろ食べ頃になっているだろう。今夜はこういった献立でもって、般若湯をきこしめるつもりだ。

取り留めのない一日だった。
おやすみなさい。さようなら。



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