第4回 シアサタンあとカルタ📚

⭐️ハイハイから歩くへ
えいたくんのハイハイしてた→歩けるようになった体験談より。
・そもそも、なんで歩くんだろう?
みんな(歩いている人たち)と仲良くなりたい?→じゃあ大人たちがハイハイして生活すれば、赤ちゃんもハイハイに戻る?
・効率を求めるから?
・そっちの方が早いから?
→早い事を全ての人間が求めているわけではないのでは?

・コタツに入っていても、(歩いていなくても)それは人間
名言「コタツにいても人間!」

⭐️人間を人間たらしめているのは何か?
あることとすること
(doing かbeing)
・VEフランクル「人生にイェスという」を読んで最近思ったこと。
どんな時代にも人間として失われないのは「あること」である。今のコロナの時代にも、みんなは存在している。一般社会ですることが重視される傾向にあるけど、本当のにんげんらしさとは「あること」なのではないか?

・「歩く」はすること?
「話す」はあること、することどっち?

・0歳ではなせなくて、だんだん話せるようになっていくから、話せるはすること?
でもチョムスキーさんの言ったこと考えたら、もともと話す能力が「ある」といえる
・そもそも何かを「する」ためには、何かが「ある」必要があるのではないか?
声を出す→すること?

⭐️考えると感じる
・考えるは感じるの分解なのではないか
刺激があって、五感で感じることで、考え始める

・何も感じなければ、考えることはない

・言葉になった時点で、思考としてはかなり終末、遅い方法をとっている

・考えるのに言葉にすることは必要?
イヤロンでまだあまり話せない時、頭の中にクラスのイメージを思い描いて、自分が次にどう動くべきかを3通り試していた

・イメージを感じて、寝かせて、考えてはいるけど、言葉にはしていない
言葉にしなくても考えることはできるのでは。

⭐️言葉にならない領域
・2人の間にある言葉にしなくても伝わる
アイコンタクトとか。
2人以上いて関係性ができる。話さなくてもつたわる

これは、人間として「ある」ことなのではないか?

⭐️それぞれの人に対しての言葉
・職場のブラジルの人は、緊張したシチュエーションでも柔らかい日本語を話す、私クビ?みたいな
周りにAさんBさんCさんがいたらそれぞれの人に対して話し方がかわる

・それらの集まりを、共通点をとってみたのが、いわゆる言語(日本語、とかスペイン語)とかなんじゃない?

⭐️それが環境なんじゃない??
歩いている人にはハイハイする気持ちはわからない?
歩くのは、それが不便にかんじるから、この社会が「歩くよう」にできているから

⭐️視点のちがい
・例えば家の中の冷蔵庫の扉高い位置にあるから、ハイハイから歩きたくなる!
・自然の中の木もそうだし、環境があって、歩くか、ハイハイかの選択をしている
視点の違いは大きいかも!

・視点の違い!車椅子の人にとっても重要!

・でもはなせるひとが話せない人の中に行くと逆に話せるひとが壁を感じる。

環境に入るとそちらの環境が自然になる。
交流の体験もそうだよね。

⭐️赤ちゃんの体験談
周りの子たちをみて、歩く練習をしてる!
・できるとスムーズに感じる!
寝返りを一回でもうてるようになると、その後何回でもうち始める!
→メタカツとにている?

・相づちをうてる
話して、相づちをうてる
→相づちをうつのはなんでわかる?
・周りの大人を真似しているから?
・空気を読んでいるから?😓
・もともと人間として「ある」ものだから?

次回に向けて!

⭐️テーマの種!
・ハイハイをして生活してみる!
(みんながハイハイをしてみたらどのようにこの世界は見えるのか?)

・ハイハイで生活ができる社会の形とは?
ex)標識が冷蔵庫の扉がすごい低い位置にある

・考えると感じるについて
もう少し皆の話を聞いてみたい。


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