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政治家の記者会見上でメディアに質問数の制限はかけてはいけないのか?

 実は私がnoteを書く上で、意見を聞いている友人がいる。それは自分の考えが独りよがりのものでないか、新しい視座をその友人が与えてくれるからである。彼には感謝してもしきれない。

 政治家の記者会見上でメディアに質問数の制限はかけてはいけないのか?

下記のnoteを参照されたい

https://note.com/preview/nfaa62e2f3ad3?prev_access_key=458519db68e9fddfc59d05815b7e6896

 こうした疑問に対しても、彼はやはり私が偏っている方向の反対側から意見を述べてくれる。こうした人間がどれだけ貴重であるか。

 友人の意見を聞いた上で、私の考えをまとめておく。(意見が反映されているとは言っていない)

視点① 記者会見の意義

 まず、大前提として、質問の質を抜きにして、回答者の回答の質を抜きにして、恐らく記者会見の意義は、質問が多ければ多いほど、高くなる。それは、ゾウを想像するとき、

・耳は大きいですか? ⇒ はい
・鼻は長いですか? ⇒ はい
・体重は100KGを超えますか? ⇒はい

といった具合に、何かを説明する際に、質問に対してより多くの事実を回答することが、人間の間で概念の隔たりがある中で、それを解消しにいく有効なすべであるからだ。

 この点、様々な前提を抜きとして、記者会見は長ければ長いほうがその議論は深まり、よりよい結論が導かれる可能性は高い。

視点② 政治家の記者会見の制約

 政治家の記者会見においては、様々な制約がある。例えば、時間的な制約であったり、場所の制約であったり。そうした制約の中では、記者会見の限られた時間を有意義に使うために、メディアの質問の質が重要となる。

 こうしたメディアの質問の質は問われない。ある意味で、制限なく質問をしていくことは「視点①」の観点から有意義である。しかしながら、その質問があまりに的外れであった場合、時間の無駄遣いと言わざるを得ない。

 実は回答者においてもそうである。出された質問に対して、的外れな回答をすることは、時間の無駄遣いと言わざるを得ない。「環境問題は重要であるから、環境問題は重要である」という小泉進次郎構文の問題はここにある。

 政治家がその回答の責を問われる一方で、記者はその質問の責を問われない。これは非対称で健全でないと考えられる。

視点③ では、どうするべきであるのか? ⇒ 政治家も記者も評価されるシステムが必要

 当初考えていたのは、記者の質問をすべてまとめて評価するシステムである。しかしこれではやはり、非対称的である。

 ジャーナリストをふるいにかける一方では、政治家もふるいにかけなければならない。この両者のふるいの評価の上で、記者会見の質は担保される。

 現状、そのようなシステムは存在しないため、記者会見に質問の制限を設けても、設けなくても適切かは判断できない。

 結論、分からないのであるが、一点言えることがある。

 

質問の制限を設ける側を非難することも、質問を延々と続ける側も非難することはできないのである。

この上で、将来的な展望を述べたい。

AI技術の活用
⇒ 今の精度では活用しにくいが、会見や国会など、議論や質問の場をデータ的に蓄積していくことは可能である。そのデータ中立的な指標の開発はこのnoteにおける課題解決に有効であるため個人的には取り組みたい

様々な言説をテキストデータとして取得して、そのファクトチェックを機械的に行っていくことが重要であろう。(技術的に可能であれば)

意外と情熱をかきたてられるのは、エネルギーとなる。あの記者には感謝したい。そして、思考をまとめるきっかけとなった友人にも感謝したい。

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