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ネットカフェにこだまする愛の亡霊

ネットカフェは魔境だ。

ちょっとまえに、十数年来取り憑いていた、初恋の亡霊が成仏したばかりなのだが、別の話である。

仕事柄、通勤時間が長く時間がもったいないので、ネットカフェに泊まることがある。経費で落としてくれれば助かるのだが、ただの権力のない平社員にはそんなこともできない。その一方、役員ともなれば黒塗りの外車を運転手つきで乗り回して、ランチにイタリア料理を食べに行ったりもする。うらやましいとか、憎たらしいとか、そうなりたいとかはないのだが、その事実を知ったとき、会社で働くのは諦めようと決意したのも、また別の話。

そんなくだらない仕事終わりのネットカフェは、寝付けの酒が付き物。その日も例にもれず2畳くらいで並ぶ個室に入るや否や、ストロング系チューハイをあけ、ぐびぐびと飲み始めると、やはりいつものようにつまらない世界への接続を閉じた。








「いらないっ、何もっ…捨ててしまおう」


B'zの『LOVE PHANTOM』である。しかし、今はそんなことはいい。


「うるせぇぇぇぇえぇ・・・」


そう叫ぶのをためらいつつ、寝ぼけた頭で様子をうかがってみると、どうやら他の個室から、愛の亡霊がこだましているようだった。

いやまぁ、ネットカフェなんて魔境なんだから仕方ないといえば、仕方ないんだけどさぁ。限度ってものがあるじゃん。

一人暮らしを始めて5年近く、誰かに起こされることがさっぱりなくなっていた。普通の人間であれば、学生時代から社会人になるにつれて恋人の一人でも作って、「まぁく~ん、起きて♡」と朝の甘い寝覚めの一つでもあるのだろうが、どうやらその普通から漏れてしまったようだ。二つ先の個室からは、音が漏れている。

まさか、ネットカフェで5年ぶりに他人に起こされるとは思ってもみなかった。しかも稲葉浩志に。

しばらくすると、曲が終了した。しかし安心したのも束の間、またもや、洗練された『LOVE PHANTOM』のイントロが聞こえてくると・・・








「いらないっ、何もっ…捨ててしまおう」


『LOVE PHANTOM』はいい曲だと思うよ、何度もループして聞いてたし。だけど、今ループしなくてもいいじゃん。ゆっくりさせてくれよ…。やはり一緒にこだまする隣のいびきくらいだったら、我慢するよ。というかこの状況でよくいびきかいて寝れるなおい。稲葉浩志とセッションでもしてるつもりかよ。そんなことはどうでもいい、とにかく今は、稲葉浩志の熱唱を止めてくれ。

私が目覚めて3回くらいループしたあと、やっと店員がやってきた。

「お客様~、お客様~、周りのお客様に迷惑ですので音を止めてください」

確かに聞こえたそんな声は、虚しく空を切っている。のぞいてみれば、個室の扉の前で呼びかけている。ネットカフェの従業員は、やたらめったら客の個室の扉をあけることができないらしい。

仕方がないので、時間をつぶしに隣接したコンビニに向かった。


冷たい夜風に吹かれながら歩いていると、あのフレーズがやはり頭に浮ぶ。

「いらないっ、何もっ…捨ててしまおう」

『LOVE PHANTOM』を爆音で流すおっさんは、羞恥心も 何もかも、捨ててしまったのかもしれない。

追加の酒を買って自分の個室に戻ってみれば、愛の亡霊は消えていた。

後には、セッションするパートナーを失った隣の部屋のいびきだけが、悲しそうにこだましていた。




(いや、まぁ、いびきもいびきでうるさかったんですけどね)

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