見出し画像

霜花——漂泊と残紅 2

 教室のドアを辷らせたら*、モーターのつくる暖房の匂いがどっと重く流れ出た。机に座って駄弁る*女子たちが僕をチラと見てすぐにまた話し始める。結露した白い窓の、指で書かれた「みな♡」を半目で見て、自分の指先の赤らんだのを互いの手でさすった。
 冬の空気のせいで顔は蒼白く見えるが、しかし心は朝が最も丈夫だ。時間が過ぎてゆくにつれて他人が蓄積されていく。孤独や個性は色眼鏡で見られて、故にいろんな憶測が陰で生まれる。それが形となって知らない僕を造る——宅*に帰るころには僕の心は赤黒い歪な、血管の青い筋が無数に這った内臓のような噐*から全くの血液を溢れ出して、最後には底に残る、結石のように硬く、醜い紅にいつも苦しめられる。

 「よお」橋田は席に居て前を見つめる僕の肩甲骨あたりをどんと掌*の底で敲いた*。
「おはよちんちん、朝さあ、勃起がとまんない、とまんない。フルタイム元気エクスプレスだわ」僕は、白い脳から用意していた言葉を準備したとおりに並べた。
「ハ、うるせー、お前は朝から元気で羨ましいよ、うるさいくらい」
 彼は教員用の事務椅子に、どすとわざと重く落ちて、ずりずりと腰をすべらせて緩い体勢をつくった。ブレザーのポケットからスマホを取り出した。画面が逆さだったのか、撮みながら*ぐるりと回して、そのまま手癖でTwitterを開いた。
「木崎こないの?」スマホから目を離すことなく彼は僕に聞いた。
「どうせ遅刻」答えを用意していないことを聞かれた僕は、咄嗟に事実を言った。
「ハッ」橋田は鼻息を噴いて小さく笑った。
 僕は頬骨*の見事に突き出た彼の面皰*の多い面長をちらとみた。鼻筋は好いが、鼻孔*が横に膨らんで、どこか変態的な先入観を持たせる。
 橋田にとって、朝の時間に僕と話すことは大事なことではない。朝の教室では、これほどしか人の居ないなかで、それぞれが独りで何かしているのは、ここに扵いて*は却って違和を生んで浮ついてしまう。だから私に話しかけたに過ぎないことなのだ。或いは、「朝の気怠さをはらんだ俺」の存在を、僕を使って表に現したほうが、教室で話す女子たちの目にはよく映ると思ったのかもしれない。橋田がこの全てを計画したり意識したりしているわけではないことは、解っている。
 暖房が効いて窓に結露ができたために閉鎖して感じられる教室のなかで彼が僕を人のひとりとして見ていないから、僕だけが彼の意識の輪の外側にいた。
 「めんどくせー、まじめんどくせーよ」橋田はスマホを鏡にして、指先で前髪を横に流した。「お前は口を開けば下ネタばっかで……あ、木崎ィ」橋田は教室に入ってきた木崎の方に行ってしまった。木崎は恰好*が好かった。眼は細いが、ツンと張った鼻筋と薄い口唇*は彫刻のように整然としていた。僕よりもずっと華のある人だ。
 僕は席に独りになって、人の多くなってきた教室のなかで軽くなった頭をふらつかせながら、ただ前を見ていた。ひとつの口から発せられた、各々*の声が教室の空気を震わせた。しかして一塊となったそれは僕をぎゅっと押し込めて僕の形容*にする。
 「……死にたい」

*(ルビ)
辷らせたら……すべらせたら
駄弁る……だべる
宅……いえ
噐……うつわ
掌……てのひら
敲いた……たたいた
撮みながら……つまみながら
頬骨……ほおぼね
面皰……にきび
鼻孔……びこう
扵いて……おいて
恰好……かっこう
口唇……くちびる
各々……おのおの
形容……かたち

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?