アリ・アスター監督作品への私見

最近話にちょいちょい挙がる中で気付きに至ったので、言語化とまとめを兼ねて…
『ヘレディタリー/継承』→断片的にしか覚えていない
『ミッドサマー』→公開時に1回観た
『ボーはおそれている』→公開時に1回観た
ぐらいなので客観的な考証・考察としては不十分ではあるが、今まとめておかないと忘れてしまいそう。

アリ・アスター監督作品の印象として、「不快感」を持つ人が多いと思う。
不快感や不条理の表現をストーリーの文脈に乗せて、ありとあらゆる表現でぶちのめしにくるような感じ。

その不快感に焦点を当てたいと思う。
彼の作品には、主人公の主観で物語を進めながらも、カメラという第三者視点で観客と共有しているという特徴があるのではないか。
徹底的に主観。時間や場面の変化も自然な成り行きとしての区切りではなく、主人公が感じたままに転じているように感じる。

展開に対する身近な例としては、
・考え事をしていたら逆方向の電車に乗ってしまい、ここはどこ?状態になってしまった
・会議が退屈すぎて、体感1時間経過しているのに実際は15分しか経っていなかった
・課題の締切10分前に何とかねじ込もうとした時に、焦燥感や動悸が永遠に続くもののように思う/思った瞬間がある
・旅行が待ち遠しかったけれど、終わってみれば計画段階からあっという間だった
など誰もがどこかで経験したであろう、主観による時間の伸び縮みや居場所のあやふやさといったもの。

こう考えるに至った、作品内での場面をうろ覚えながら羅列していく。
『ミッドサマー』
・家の洗面所にいたはずなのに、ドアを開けたら飛行機のお手洗いにいた
『ボーはおそれている』
・どうしよう、まずい、どうにかしなきゃと思っていたら時間が経っていた
・主人公の気絶を起点として大きく場面が変わる
元々場面転換の演出が独特だと思っていたのがきっかけで、主人公の意識・感覚が場面転換に反映されているのでは?と思うに至った。

本来このような時間の感覚は当人でしか実感し得ない。
客観(カメラ視点)を通して観客は主人公に起こることを観ている第三者のはずなのに、よりリアルな質感を持って不快感や不条理に触れてしまうのではないか。

「やっぱりアリ・アスター作品ってしんどいよね」というオチになるけれど、そこに至るまでのギミックがもっと隠されているのでは…という話。
作中のモチーフに関する考察ばっかりがあるけれど(これも自分では気付けないから興味深く見ている)、ありがたいことに公式がかなり説明してくれている。
もっともっと考察の余地があって、掘りたいんだけどな〜原典を復習するのもしんどいんだよな〜。

主観では感じえないものを可視化し共有されることによって、主人公に起こる悲劇を追体験するような誘導になっている。
鑑賞ではなく追体験、より自分事として迫ってくる。
そんな中で悪意マシマシの演出を浴びせられた観客が、SNSで賛否の意見を述べる。
それもまた主観でしかないのが…面白構造すぎる…!!

恐らく今後も多くのカルト的ファンを巻き込んだり手放したりしながら、新時代のホラー映画監督として名を残すことになるんだと思う。
ひとつのムーブメントの起こりを感じさせる作品群に出会えたことがまず嬉しい。
次回作も着手されているようなので、今後も新作が出るたびに観てしまうだろう。

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