「本家超え」などあり得ない

Youtubeでバズっている「cover(歌ってみた)」のコメント欄を見ると、「本家より好き」とか「本家を超えている」というコメントをたまに見かけることがある。

私は、このようなコメントが嫌いだ。
だが、共感できない訳では無い。
そのコメントには確かに共感した上で、そのコメントに嫌悪感を抱くのだ。


cover(歌ってみた)動画は、今やYoutubeやニコニコ動画を初めとする動画投稿サービスの鉄板コンテンツだ。

人の歌う「歌」には、その人特有の声質、解釈、感情が乗る。
coverはその意味の通り、原曲に「覆い被さる」…または「包み込む」ように、その曲を自分のものにしていく。

そしてそれは、稀にとてつもない化学反応を起こし、その曲がまるで別物かのように昇華させるのだ。

『命に嫌われている。』を歌うまふまふ。『アスノヨゾラ哨戒班』を歌うゆある。この世には「出来すぎたcover」というものは少なからず存在すると、私は思う。
これらのcoverは、ひとつの作品として出来すぎている…と、私は感じた。視聴回数という数字だけで言えば、私は確かにこれらのcoverを本家よりも多く聴いている。

だが、それを「本家を超えている」と表現されていることに、私は違和感を覚えている。

あくまで、本家は超えないのだ。


coverというジャンルは、人の作品を「借りる」ことで新たに生まれるコンテンツだ。そこに必要なのは「原曲を大事にすること」…つまりは「リスペクト」だと私は思う。

いくらそのcoverが素晴らしいものであったとしても、それは「原曲」があってこそ生まれたものであることを忘れてはいけない。coverはどこまでいっても「借り物」でしかない。

そんな借り物が、「本家よりも良い」と称賛されていたらどうだろうか?

もちろん、事実として多くの人がそう感じることはあるかもしれない。先ほども言ったように、私自身も、回数として本家よりも聞いているcoverがある。だが、「本家を超えている」という表現は、「本家」である原曲へのリスペクトに欠けているのではないか。少なくとも、そう捉える人は少なくないのではないだろうか。

本家は、言うなれば素晴らしき土台。言い方が悪くなってしまうかもしれないが、その上に座らせてもらっているのがcover。そんな本家なしでは成立しないcoverが、本家を「超えている」などと言われるのは、とても許せない。

何度も言うが、あくまで、あくまで本家は越えないのだ。

素晴らしき本家に、どうか溢れんばかりの愛とリスペクトを。



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