遊び部と言う名の居場所
ゴッホの絵を見てから、私は生まれて初めて絵というものに興味を持った。
漫画は、すきだった。よく、それを教科書やノートに描いて遊んでいた。でも、所謂学問としての美術にはさして興味はなかった。
成績が悪かった訳でもない。美術は常に5段階で5をキープしていたが、だからと言って特別好きな訳ではなかった。
それが、ゴッホの絵を見た途端、一気に好きまでレベルアップした。
ラッセンではなく、ゴッホ(笑)
あの色使い、タッチ、絵の存在感。とにかく、ゴッホに夢中になった。
私は、それまで高校に入学したら、何か運動部に入るつもりだった。硬式テニスか、ヨット部か、とにかく面白そうなスポーツ。
でも、最終的に私が選んだのは、美術部だった。なんとなく、部活動見学の日、ふと思い立って美術部に向かって、思い立ったままに入部。
それが私にとって、大きな出会いとなったなった。
入学して2日後、私は風邪で学校を休んだ。そして、再び投稿した時には、思いもしない影が私を覆い尽くそうとし始めていた。
影の正体は、パニック障害。おそらくそれと思われる症状だ。
吐き気、めまい、息苦しさ、とてつもない恐怖。密閉空間に居るだけで、息ができなくなった。夜は、朝まで眠れなかった。
そこから私の、長い戦いが始まった。
パニック障害は、私から友人を奪い、代わりに本当の孤独をプレゼントしてくれた。深い、深い孤独。
クラスメイトを拒絶した私は、入部した美術部で油絵を描く事が、唯一の救いになっていった。
ただひたすら、キャンバスに絵を描く。描いている間は、何もかも忘れられた。
ちなみに、美術部の顧問の先生は、皆から変態とよばれかいる先生だった。変態と呼ばれるに相応しい、セクハラ満載の先生だ。でも不思議と、キライにはなれなかった。いい人なのは、よくわかったので。ただ、すぐに女の子に触りたがるやっぱり変態先生だった。
私も何度、膝に座れと言われたか。でも、「やです」と、すっぱり断っていた。人に触れるのも苦痛だったから、って理由もあったのだけど。
その美術部は、7割以上が男性という珍しい美術部でもあった。おまけに、活動している生徒はわずか、残りは美術室でひたすらおしゃべりをしていると言う、先生方の間では通称「遊び部」であった。
遊び部になった原因は簡単。
顧問の先生は、他の部活からあぶれた生徒を拾っては、美術部に入部させていたのだ。そうした人達の中には、絵は描かないよ、と言って入部した人もいる。
先生は、それでも良かったようだった。
遊び部は、部活動と称して、しばしばあちこにち遊びに出かけた。山や海やカラオケや。
そして気がつくと、私も遊び部の立派な一員になっていた。
当時、刃物のようなオーラを纏っていた私に、美術部の仲間は優しかった。可愛げなんて微塵もなかったけれど、根気よく、根気よく、話しかけてくれ、色々接してくれた。
特に部長は、本当に優しかった。当時、ちょっと好きだったかもしれないな。
家が近かったので、イベントの帰りは何時も送ってくれた。わざわざ、遠回りして。
私の制服のネクタイを、いつもくいっと軽く引っ張って呼ぶのがクセで、その度にちょっとドキっとしたものだ。
でも、私の戸惑いなど知らない顔で、彼は無邪気に笑う。その笑い顔も好きだった。
いつまでも遊び部の楽しい時間が続けばいいと思った。
部長には、笑いなさい。って、よく言われたな。私は笑わなくて、何時も仏頂面だったから。真面目過ぎる、と言うのが部活での評価だった。
文化祭で麻雀をさせられた事もあった。クラスではぼっちだったから、グラスに戻らなくていい文化祭はとても楽しくて、結局絵を展示している後ろで、私達は麻雀ばかりしてた。
部長には、淡い恋心があったのかな?でも、私は恋愛には疎くて、楽しい時間を壊さないように、とばかり考えてた。
壊れそうな私を、いつも救ってくれた居場所。今でも、はっきり覚えている。あの場所がなければ、とっくに学校はリタイヤしていたかもしれない。
優しくて、ちょっぴり甘く切ない高校時代の、忘れられない時間。
それから時は流れたけど、今でもそこは、私の心の拠り所なのかもしれない。
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