深海の森を漂うものたち#10

西の空に濃い橙色をした太陽が浮かんでいる。じっと見るとその円形は大気に揺らいでいる。細長い雲はところどころ千切れながら紫色に染まっていた。月はまだ出ていなかったが早々と顔を見せている星がある。瞬かないところを見るとおそらく惑星なのだろう。Hは星の名前に明るくなかった。次に星を、そして太陽を見るのはいつになるのだろうと彼は思った。
Hは彼のパートナーであるところの四つ足の生き物に乗り、森の入り口へと辿り着いた。外から見ても森は黒々としていた。まだ太陽の光もあるというのに。色の深い針葉樹の葉は光を吸い代わりに闇を生成して吐き出しているようだった。それがこの森にとっての光合成なのかもしれない。Hは視界に入る限り森を見渡した。これまで何十回と入ってきたが、今日からのことを思うと森の様子はまた違って見えた。まるで冥界への入り口のようだ。そしてHは今一度自分が乗っている四つ足の生き物を見た。これからもこの生き物に触れることはあるだろうが、光の下で見るのはこれが最後かもしれない。生き物の毛並みは夕日の色に染まりやわらかな光沢を放っていた。撫でると指が心地いい。Hには彼が組織が言うような醜く哀れな生き物には思えなかった。この仕事をすることになって大切な人と別れることを余儀なくされた時、空いてしまったHの心の穴を埋めてくれたのはその四つ足の生き物だったのだ。
この仕事をする以前、Hはヒト以外の生き物と交流する機会をほとんど持たなかった。子どもの頃からペットを飼ったことはなかったし、周りに飼っている人間もいなかった。観察のために青虫を飼ったことがあるくらいだった。付き合っていた彼女は動物の毛のアレルギーを持っていたので飼いたいという話はもとより出なかったし、牧場や動物園に行くこともなかった。業務の一つに獣の世話と騎乗があることは研修時に知った(労働条件通知書にも記載はあったのだがHはその意味をちゃんと理解することができなかった)。初めて彼のパートナーとなる四つ足の生き物に会ったときは、Hの緊張が伝わり近づくと四つ足の生き物は後退りしてHを避けるような動きをとった。
「もっと堂々と接しなさい」Hの教官だった男は言った。「いいか、この生き物たちは卑しい生き物だ。こいつらは自分の身が汚れていることを本能的に理解している。それは遺伝子に刻み込まれた種の記憶だ。こちらが堂々としてさえいればこいつらはたちまち膝をつき、服従する。服従することこそがこいつらの役目なんだ」
教官が歩み寄ると獣は本当に身を小さくして膝をついた。教官は獣の顔を軽く叩き、Hを指してお前は今日からこのヒトのシモベだと言った。獣はHに視線を向けた。その眼球は灰白色に濁っていた。視覚はほとんど機能していないと教官は言っていた。代わりに彼らは嗅覚を使って様々な情報を得る。この四つ足の生き物は細長い顔の先端に二つの鼻腔を持っていたが、それ以外にも目に見えないほどの細かな嗅覚を司る器官が頭部に散在しているとのことだった。教官に促され、Hはもう一度四つ足の生き物にゆっくりと近づいていった。教官が頭を捕らえているおかげか、今度は四つ足の生き物は逃げようとしなかった。小屋中に充満している獣独特の異臭が近づくとより強く感じられる。最初こそ面食らったが、Hはその臭いにすぐに馴染んでいた。すぐそばまで来ると、教官に言われるがままHは四つ足の生き物の顔の正面に手を当てた。それが彼らにとって主従関係を決定づける印になるのだ。Hは手のひらを介して四つ足の生き物が目には見えない無数の感覚器官によって新しい主人の情報を取得しようとしているのを感じた。自分ですら気付けないほど奥深くの、DNAや魂の情報までも吸い上げられていくように感じられた。それは恐怖を覚えると同時に、心揺さぶられる体験だった。自分という存在をこの生き物は深く深く理解しようとしている。生き物としてあるはずの隔たりを超えて。彼らの先祖はとても美しく、やさしい生き物だったという。それゆえにヒトに汚され、利用されてしまった。自分はその歴史にこうしてまた加担しているのだ、とHは思った。しかし、Hは今目の前にいる、歴史的に汚されてしまった生き物に美しさを感じていた。決して先祖の姿を思い浮かべているのではなく、自分が今触れている、そこで確かに感じているこの獣こそが美しいと感じていた。彼らのような優れた感覚器官は持ち合わせていないが、自分も彼らを深く理解しようと思った。そう努めることがこれから一緒に働いていく者として、彼に示すべき当然の敬意だろう。
Hは四つ足の生き物が暮らす小屋のそばに住み、日々その獣の世話をした。四つ足の生き物はあの主従の印を交わして以来、Hが現れると膝をついて迎えるようになった。気詰まりなので、Hはそのたびに膝を折る必要がないことを伝えた。あくまで自分と獣が対等の立場であることを教えようとした。しかし四つ足の生き物は教官が言うところの服従の姿勢を崩さなかった。本当にDNAに深く刻み込まれているのだ、とHは物悲しく思った。自分はこの生き物と友人のように接したいと望んでいるが、彼にはきっと友人という概念は存在していないのだろう。自分と同じヒトが彼らをそのようにしてしまったのだ。Hが感じている悲しみも、元はと言えばヒトの犯した罪によってもたらされたものなのである。そう考えればずいぶんと身勝手な話だった。Hの悲しみはより一層深くなった。けれど、できる限りのことはしようと彼は思った。Hは毎日四つ足の生き物の体を洗い、毛並みを整えた。感じるままにその美しさを言葉にして伝え続けた。森の内外を行き来すれば感謝し、その仕事ぶりを褒めた。実際にその四つ足の生き物の脚力は優れていて、重い荷物を短時間で運ぶことができた。使い勝手が良かったのか、ごくたまにではあるが南の拠点へ派遣されることもあった。北と比べると南の拠点は彼らの住む場所からはだいぶ遠かったが、その脚力があれば夜のうちに行き来することができた。Hのパートナーである四つ足の生き物を見ると、森の中で業務を行う職員たちは大抵驚いた顔をした。彼らのパートナーである獣たちはもっと歪な姿をしており、頭も悪そうだった。きっとヒトの手がたくさん入ってしまっているのだろう。そこにはこの世界がもたらす驚異の美しさがなく、どこか不自然な気味の悪さがあった。彼らは森に順応し、純粋なまでにみなしごの魂を求めることができたが、とても哀れな存在にHには映った。本来であれば、彼らはこの森で生きる必要などなかったのだ。そう考えれば森の外で暮らせるだけ、Hも彼のパートナーである四つ足の生き物も恵まれていると言えた。
森の入り口に佇みながら、HはRのことを思った。彼の言葉の端々に感じられた棘のことを。そんなふうに刺されても仕方がないと今なら思えた。この森に閉じ込められるなんて自分では絶対に耐えられないだろうと思っていたのだから。Hは彼らのこともどこかで哀れに思っていたのだ。そして、自分はその立場になくてよかったと安心していたのだ。森に対する適性がなくて幸運だったと。
「Hさん、早く行きましょうよ」
四つ足の生き物が引く荷車から声がかかった。そこにはHの後釜となるQが乗っていた。
「それともやっぱり代わりましょうか?」
「いや、大丈夫だ」とHは言った。
「本当は俺がHさんを連れていくはずだったんですからね」小柄なQは荷車から少し身を乗り出して言った。「本部からもそう指示されてたんですから」
「無理を言って悪いとは思ってるよ」
「ま、いいんですけどね。でも感傷に浸ってチンタラするのはやめてくださいよ。早く終わらせて帰りたいんですから」
QはHが新しい労働条件通知書にサインをした翌日からHの住む社宅にやってきて、彼から仕事の引き継ぎを行なっていた。Qは何のためらいもなく四つ足の生き物の顔に手を置き、服従させた。世話も必要最低限で済ませていた。
「Hさんは思い入れが強すぎますよ」森へ移動する前日の夜にQは言った。「何だったら俺たちがこの仕事に服従させられてるんですよ?忘れたわけじゃないでしょう、あの男が現れた日のことを。それで全部がひっくり返ったんだ。抵抗も許されずにただ『やれ』です。そんな暴力がこの世界にあるなんて思ってなかったですよ。いや、この世界にも暴力があることは知っていましたが、まさか自分にそれが振りかざされる日が来るなんて。こんな生活させられてたら金なんて意味ないです。牢獄ですよ、ここは」
「それでも多分、僕は彼に救われたんだと思う」
「彼?あの獣のことですか?彼なんて言い方するんですか?」
「君のやり方に文句を言うつもりはないよ」荷造りをしながらHは言った。「ただ、あまり手荒には扱わないでやってほしい。彼らはもう十分に傷ついたんだから」
「傷ついたりするんですかねえ、あんな生き物が。てか文句言わないとか言いつつ、それってめちゃくちゃ口出してますよね」
「お願いしてるだけだよ」
地平線に夕日がその身を沈めようとしていた。いい加減森に入らないといけない。Hは四つ足の生き物の首筋を見ながら、君は美しい、と言った。Qが後ろでギョッとするのが感じられた。四つ足の生き物は特に反応を示さなかった。Hはブーツで軽く獣の脇腹を叩き、前に進むように伝えた。
北の拠点に着くと、テントの前にJが立っていた。その傍にはみなしごの魂が入った水槽のような容れ物が置いてあった。
「お疲れ様です」とHは言い、四つ足の生き物から降りた。
「お疲れ様」とJは言った。「今日から、なんだよね?」
「はい。お世話になります」
「いや。よろしく」Jが頭を下げたので、Hは慌てて腰を折り曲げた。
「これを持っていけばいいんですよね?」荷車から降りて来たQが水槽を指差して言った。「これがみなしごの魂ってやつですかあ。ほんとに光ってるや」
「彼が僕の後任のQです」
どーもでーすとQは言い、Jは少し自己紹介をした。
「じゃ、俺行きますね。Hさん頑張ってください。お世話になりましたー」Qは四つ足の生き物にまたがり、みなしごの魂を載せた荷車を引いて森の外へと引き返して行った。
「あの獣は今後は彼が使うんだね」見送ったあと、Jは言った。「てっきりそのまま君と森で暮らすのかと思っていたよ」
「そういうわけにはいかないみたいです」森の入り口の方を見つめたままHは言った。その目に彼らの姿はもう映っていなかった。「荷物をテントに入れたらRさんのパートナーだった獣を紹介してもらえますか?」
「わかった」とJは言った。

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