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功利主義と義務論の理論的差異

はじめに


 産業革命を契機に科学が飛躍的に進化し、世界の多くの国で民主主義の政治が行われている現代社会においては人為的な課題であればある程度解決することができるようになった。しかし戦争と貧困、この二つは未だにこの世界からは無くならず国際社会の長年の懸案といえるであろう。これらに深く関係するキーワードとして私は「自由」と「平等」という二つのものを挙げる。自由な経済活動・社会生活を守るためには様々な競争に立ち向かわねばならない。国土を守るためには抑止力としての核保有が必要と考える国もあろう。また一方でこのような競争の末に生まれる格差を問題視し、平等の名のもとに核廃絶を訴える国もあるのだろう。自由と平等、近いようで実は逆のベクトルを持つこの二つのバランスをとることは難しく、この対立が資本主義と社会主義、資本家と労働者というような分断を生んでいると考えることもできる。この対比の文脈の中で私は功利主義と義務論を捉え、その違いを捉える。アメリカでの分断、イギリスのブレグジットなど自は国民の生活を最重要視した功利主義と先進国としての義務論の対立がその根本にあるのではないか。功利主義と義務論、それらは決して二者択一ではなくそのバランスをいかにしてとるかが重要であると筆者は考える。その差異を分析したうえで、生半可乃なものではない、バランスの取れた功利主義と義務論の活用を考えたい。

戦争

 まずは今もなお世界各地で起こる戦争を通じて功利主義と義務論の理論的差異を分析する。戦争の実施に関してはどちらもそれが行われるべきではないと結論付けている。しかしその結論に至るまでのプロセスは全く異なっている。功利主義においては最大幸福の観点から複数のプランを比較衡量する機会費用の計算によって判断することを求めている。しかし中長期的なコスト・波及効果の計算は困難を極め正確な判断を行うことは難しい。
このような快苦計算を行う功利主義に対して、義務論は意思決定者の側が兵士などの他者を手段として扱うことになるとして批判した。しかしそんな義務論だからといって必ずしも「殺すなかれ」の命令が正当化されるわけではなかった。正当防衛の例外である。しかしこの正当防衛に関しても「免責を負うのはその状況を作り出した『責任』を負う人物への暴行のみ」という民間人の責任は極小でありながら兵士間の交戦状況においてのみ免責の可能性が生まれるという極めて抑制的なものであった。「暴行」からさらに一歩踏み込んだ「殺人」の許容には厳しい留保条件が定められてはいるが、近代戦争においてはこの条件がなし崩しになってしまった。
 功利主義は最大多数の最大幸福の実現を目指す。戦争よりも平和が望ましいことは誰にとっても明らかな真実のように思える。しかし軍需産業に携わる者などは戦争は自らのビジネスの機会でもある。最大多数の幸福を考えると、一見戦争のない平和な世界が最大多数の最大幸福の実現のように思えるものの、実は戦争を行うことで犠牲者とともに受益者もいたのではないかと考えることもできる。戦争を通じて真っ先に戦地に送られる若者、民間人や貧困層は最大の犠牲者であり、軍需企業の資本家や労働者が受益者と表すことができる。このように考えれば圧倒的に犠牲者の割合が高いため、多くの声が政治に反映させることができれば平和を維持できるという民主主義平和論が勃興するようになる。

貧困 

 貧困問題を巡るシンガーの功利主義とオニールの義務論の特徴的な違いはそのスケール感である。シンガーは個人単位での貧困問題への姿勢に関して漠然と論じたのに対し、オニールは社会全体の政策や救済法を具体的に論じている。シンガーは読者一人一人に訴えかけ、オニールは社会全体に訴えかけているようである。ここに貧困問題に対する姿勢・積極性の差異が見いだされる。シンガーは主張だけ見れば貧困問題解決への努力は個人個人の努力で十分であると考えているようにも読み取ることができる。対してオニールは個人での努力には限界があり社会全体で取り組むことが抜本的解決につながると考えているように思える。シンガーは個人の損得に判断基準を置くことで受け手の身の丈に合ったそれぞれの貧困問題解決への努力を促している。対してオニールの主張の受け手は社会全体と漠然としており、受け取るメッセージとしては浅く広くといった具合で個人レベルではシンガーのそれよりもやや劣るのかもしれない。しかし功利主義にも限界があり、快苦計算も厳格な数値の基準があるわけではない。また戦争を避けることや貧困を救う努力をすることが計算の結果に損となってしまう場合には戦争や貧困問題への不干渉に踏み切らねばならないという結論を招く。

 また快楽を基準に置く功利主義は二面的な道徳論であり、たとえば富裕層が誕生するとその暮らしは快楽である一方、相対的に貧困層が誕生し彼らの暮らしは苦痛かもしれない。このように自由や競争を積極的に認めると善と悪は必ず併存し続け、善のみになることはなることはあり得ない。それを踏まえて快楽の最大化、苦痛の最小化と表現していると考えられる。


おわりに

 戦争と貧困を例に功利主義と義務論の理論的差異を確認してきた。私は現在の日本は戦後の占領政策や不戦教育などによってやや義務論の考え方の方が浸透しているのかと考えている。非核三原則や反原発運動、憲法九条をめぐる護憲運動は全て義務論に基づく政治的メッセージなのではないか。功利主義に基づけば中国や北朝鮮、ロシアが海の向こう側に核兵器を保有して日本との間に国際課題が生まれている中で抑止力として核兵器を保有することで初めて対等な協議の立場に立つことができると考えることもできる、原発に関しても世界的な火力発電をなくしていこうという流れに従うにはどうしても原発を使わなければ十分な電気量を供給ができない。憲法九条があるから日本は戦争をしなかったという批判は間違いでアメリカとの同盟関係によるところが大きいのは明らかである。評論家の三宅久之氏の言葉を借りれば「憲法九条があって外国が日本に攻めてこないのなら、憲法に『台風は日本に来るな』と書いておけばいい。」と表されるように、将来的に日本という国家が存亡の危機にある際には国民の命と暮らしを守るためには功利主義に従い戦争に踏み切らざるを得ないのではないか。
 貧困に関しても日本では相対的貧困層が存在している。しかしアフリカなどの貧困などとはその度合いは全く異なる。日本において貧困を考えるときは貧困層があることを問題とする(義務論)ではなく、その層が健康で文化的な最低限度の生活を送れているか、その支援は十分であるかを問題とする(功利主義)べきなのではないか。このようにみると日本における問題解決として功利主義的なアプローチが、停滞した課題解決には有効なのではないかと考えられる。すでにアメリカはそれまでの義務論的な世界の警察的としての役割から降板し自国第一主義の功利主義的な政治姿勢に変わっている。大統領が変わったことでこれらの役割変更が継続されるのかが注目されているが、国際的な流れの中で各国が功利主義に基づいた自国の政治姿勢を見直す時期にあるといえるのではないか。一方で温室効果ガスを巡る議論ではアメリカの新政権を含めて義務論に基づく「協調」の流れが生まれてきている。「協調」とは聞こえはいいがそのために生まれているコストにも功利主義的立場での見極めも重要となってくるのだろう。道徳論に基づく抑止力も重要であり、近年覇権主義的な態度を鮮明化する中国などに対しては義務論としてのメッセージに加え功利主義的な思考に基づいて国際社会が対応することが必要ではないか。功利主義と義務論は現代の国内政治だけでなく国際政治を分析するうえでも重要な役割を果たしている。

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