新左翼運動と日本共産党



はじめに


 このレポートでは革マル派と中核派などに代表される暴力を伴う左翼学生運動についての理解を深めるために、日本共産党の成り立ちや暴力革命から学生運動の実態、さらに現在に至るまでの日本共産党の歴史を確認することを通じて、変革の激動の時代を追体験していく。さらに政治家による政治の現場は今も昔も国会であるが、当時の学生を中心とする若者の政治の現場は学生運動にあったと考える。なぜ彼らが政治に関わろうとし、何を目指したのかについての理解や考察を深めていきたい。

戦前の日本共産党


ロシア革命をモデルとした共産主義の世界革命を実現するためにコミンテルンは作られた。(筆坂、2006)ロシア革命の衝撃は世界に広がり、各国はシベリア出兵を行い共産主義の拡大の抑制に力を注いだのである。その際日本において生じた米騒動は当時アメリカで社会主義運動をしていた近藤栄蔵を驚かせた。彼は米騒動に日本における革命の兆候を見出したのである。日本共産党は1922年にコミンテルンの日本支部として誕生し、非合法政党であったため議会に未進出でありながら革命を志向したのである。(立花、1983)(筆坂、2019)しかし度々検挙されるために組織は分解と再建を繰り返していた。
 次に日本共産党の戦前における武装闘争路線について論じる。昭和4年の夏頃からは公然活動を本格化させるために、武装した「行動隊」を組織しビラまきなどの際にも行動隊がその活動を保全し、警官が現れればナイフや短刀で斬りかかり、結果的に瀕死の重傷を負わせることもあった。共産党の党幹部はコミンテルンから極秘に入手したピストルを携行しており、六甲山の山奥においては射撃訓練も行われたという。行動隊を実際に組織していたのは現在の民青の前身である共青のメンバーであった。彼らは日本において近い将来必ず革命が起こると信じ、その瞬間に自分達は立ち会えないだろうが、その革命のために命懸けで戦い革命の捨て石になる覚悟であったという。(立花、1983)

敗戦直後の日本共産党


 治安維持法によって逮捕されていた、共産党の幹部である徳田球一の釈放時の第一声は「天皇制打倒」であったと言われている。彼が沖縄にルーツを持つアイデンティティを有していたことがその理由として挙げられている。(安部、2019)日本は第二次世界大戦での敗戦後にアメリカを中心とした連合国に、サンフランシスコ講和条約の締結まで占領をされていた。日本の民主化を進める過程で、日本共産党は合法化され、治安維持法で逮捕された政治犯の釈放もされていた。
 敗戦後の日本共産党の党再建大会において決定された新綱領においては天皇制の妥当や人民共和政府の樹立が掲げられた。(福永、2014)この51年綱領や32年テーゼでは共産党はマルクス・レーニン主義を理論的基礎に据えている。マルクス・レーニン主義や共産党宣言においては暴力革命の必要性や不可避性が明記されており、共産党は51年綱領において平和的手段の否定と暴力革命を公然と主張したのである。(安部、2019)(立花、1983)
しかし共産党の武装化の狙いは日本における体制転覆を暴力革命によって実現しようとしたことではないとされる。日本共産党の武装闘争路線は51年2月に提起をされ、10月に綱領として確定している。未だ連合国の占領下にある日本であったが、前年からは朝鮮半島において朝鮮戦争が勃発しており、北朝鮮側を支援する中国共産党の影響を受けて出された方針だったとされている。日本共産党は中核自衛隊や山村耕作隊を組織し、中国型の人民戦争路線を採用し、地下指導部を設置した。(荒、2008)中核自衛隊は約500隊存在し、8000人の隊員が存在していたとされている。当時の共産党の革命方針は労働者のゼネスト武装蜂起と遊撃戦によって政権を奪取するというものであった。隊員らは日本共産党の指導のもと駐留米軍施設及び米兵への火炎瓶投擲という形で日本におけるもう一つの朝鮮戦争を起こしたのである。共産党の武装闘争を陰ながら支えたとされるのが在日朝鮮人の組織である祖国防衛委員会であり、委員会のもとに組織された祖国防衛隊は中核自衛隊に編入されていた。委員会には北朝鮮の金日成からの指令がなされていたとされており、主に二つある。一つが日本国内の軍事基地や軍需工場、輸送道路の妨害破壊であり、二つ目が民団幹部や米兵の殺害であったとされている。(安部、2019)この結果、血のメーデー事件をはじめとする戦後三大騒乱事件を日本共産党が主導して引き起こし、結果的には破壊活動防止法の公布がなされ、日本共産党が適用されたのである。
 コミンフォルムは日本における革命よりも、朝鮮戦争における北朝鮮の勝利に注力をしていたが、スターリンが死去をするとコミンフォルムは解散し、日本共産党は完全に独立した団体となった。よって朝鮮総連や日本共産党は武装闘争を放棄したとされている。この暴力革命不可避論とプロレタリア独裁論の放棄は未来の共産主義革命のために闘争に参加してきた原理主義者からは非難の対象となり、安保改定闘争におけるブントのような離党組の台頭の流れを生み出していくことになる。この直後の総選挙においては選挙前35議席を保有していたのにも関わらず、0議席という結果に終わったのである。(安部、2019)現在の岸田文雄政権においても日本共産党は破壊活動防止法に基づく調査対象団体に指定をされ続けている。ちなみに現在の日本共産党の綱領からは「マルクス・レーニン主義」という言葉は消えているが、日本共産党のホームページにある「綱領・古典教室」において、マルクスやレーニンの思想や理論が紹介されている。

60年安保闘争


 50年代の反体制運動においては日本共産党がコミンテルンの国際的影響力により、リーダーシップを発揮していたが、その後は退潮していた。(吉見、2009)暴力革命などの極左冒険主義を自己批判した日本共産党では、二段階革命論を提唱したが、党内の多くの若者はそれに飽き足らず当初の社会主義革命を目指す動きを活発化させる。二段階革命論とは第一段階は日本民族のアメリカ帝国主義からの解放の闘いであり、それに勝利してから社会主義革命を目指すべきという理論である。両者の対立は極まり、日本共産党を除名された者たちはブントという集団を結成する。このブントが中心的な役割を果たしたのが60年安保闘争である。(立花、1983)
 60年安保の際には日本共産党は全学連を結成させ、その主要部を占めたのがブントである。全学連は国会に突入し、警官隊との攻防では女子学生の樺美智子が死亡するなど、激しい攻防がなされたために、メディアはこれらを厳しく断罪したのである。しかしながら政治的な変革の限界が露呈されたことで、若者は全学連らの行動主義に共感を集めることになる。全学連は日本共産党が武力闘争路線から議会政党路線に転化したことにより分派する。しかしこの結果、左派勢力の結集が叶わなかったために、「革命」を成し遂げることはできなかった。安保闘争の敗戦により政治の時代は終焉し、思想による自己表現の時代から消費による自己表現の時代に転換をしていく。(吉見、2009)

忘れられた者たちの闘争


 所得倍増計画に代表される日本の高度経済成長の時代には、既に前時代のものとなってしまった革命は無謀なものとされ、それを思考する学生は孤立を深めていた。学生運動においては街頭行動主義と政治的象徴主義という特徴が顕著になっていった。街頭活動主義は機動隊等の打破などの直接的な実力による社会変革を目指すものであり、政治的象徴主義は成果のあるなしに関わらず、意思表示をすることに重点を置いたものである。この時代においては運動による革命に向けた成果が出ないために、活動はより街頭行動主義的になり、結果としては政治的象徴主義的な活動になってしまうために、革命に向けた活動をエスカレートさせていくのである。(吉見、2009)
 左翼の学生たちはこれまでは反体制運動として、政権をはじめとする権力や天皇制に対しての革命を訴えてきた。しかし、彼らの運動や人員は革命以外の社会運動に利用されていくのである。60年代の後半からはいわゆる大学紛争が勃発した。ブントが分裂したのちに誕生した革共同がさらに分裂して誕生した中核派などの三派全学連と民青などの既存の全学連の対立が起こり、ヘルメットにゲバ棒を持って暴力化するという学生運動の新たな過激な形がここに形成されるのである。学生の闘争の舞台は学園から街頭に広がり、各地で騒乱事件を起こすようになる。(武田、2008)また、学生運動は沖縄返還への反対運動においても見られた。彼らは日米安保に反対する立場から沖縄の祖国復帰に反対したのである。沖縄の住民の想いとしては基地があったとしても祖国への復帰を果たしたかったという。(吉見、2008)当時の大学では春の新歓の季節には日本共産党の学生組織である民青や公明党の母体である創価学会がサークルや部活動と同じようにメンバーを集めていたのである。

前衛党の終焉


日本共産党は結党の際に前衛党の形態をとっていた。前衛党とは少数精鋭で構成し、メンバーも十分な審査を経た者でなければならない仕組みである。その理由は政治活動や言論の自由がない環境において社会変革は非合法手段や武力による革命となるため、素人には難しく、スパイへの警戒も必要であり、少数精鋭が大衆を指導する。また地下活動は党の命令に従順な規則正しい集団であるべきで、命令に従わない場合は除名という厳しい処分がとられるのである。しかし第二次世界大戦に敗戦し連合国による占領と解放政策が進んでいけば、個人の自由や解放運動が進むことで集団への帰属意識が乏しくなり、帰属意識が成立しにくくなる。さらにそこで共同体から解放された個人が旧来の共同体にこだわると、不正や暴力が発生するという。革命運動という前時代のものに対し、それを拘束するものがなくなれば必然的に、それを繋ぎ止めようとする際に、脅迫などの暴力や不正な優遇が行われるという。学生運動においても内ゲバや暴動、騒乱による大量の逮捕者の発生などが存在していた。また、小熊は社会運動が盛り上がるテーマは、多くの人が日常的な感覚と結びついたときに盛り上がるのだと指摘をしている。つまり、大学紛争は革命を目指したわけではないが、学内の不正についての共感が広がったために多くの人が活動に参加したというわけである。しかしそれは一般の学生についてはメリットがあるが、革命を志向していた各種団体にはメリットは少なかった。実際には大学紛争における学内要求のみの実現であればその余地はあったが、団体として革命的な方向を目指した(欲張った)ために、学内要求でさえも叶えることができなかったのである。

暴力の時代


 1968年10月20日の朝刊には「新宿の散歩ご遠慮を 警視総監都民に呼びかけ」という記事があるほど、翌21日の国際反戦デーは「新宿に騒乱状態をつくる」という中核派などの多くの団体が火炎瓶を投げて、街頭には炎が上がったという。警視庁は1万2000人の警官を動員し、騒乱罪を適用し734人が逮捕された。実はこの場にいたのは左翼の学生や労働者だけではなかった。作家の三島由紀夫もその1人である。三島率いる保守系の楯の会はこの騒乱を各自が見てまわり、集まって総括を行うことで左派の革命運動への危機意識を語り合ったという。(保阪、2018)左派の革命運動への危機感は対立する右派にも影響を与えた。三島はその後自衛隊に蜂起を訴えるも、それが叶わなかったことから自ら腹を切ることになる。
暴力革命を目指した左派の動きにも変化が生じてくる。それは相次ぐ分裂による、仲間割れと激しい攻防、いわゆる内ゲバである。内ゲバは代表的な中核派と革マル派のものの他に連合赤軍や解放派内の内内ゲバなどがある。内ゲバの始まりと言われているのは共産党の所感派と国際派のテロリンチであるとされており、立命館事件や現在の共産党で実質的な最高権力を持っている(筆坂、2019)とされる不破哲三がリンチされる事件があった。(荒、2008)
連合赤軍などが火炎瓶から爆弾に凶器をバージョンアップさせていくにも関わらず、中核派や革マル派は鉄パイプやバールなどのプリミティブな凶器を使い続けているのが特徴的である。革マル派や中核派の「解放」や「前進」という機関紙ではバールを用いて、相手の脳天を叩き潰す様や無慈悲でグロテスクな凄惨な様子を生々しく表現していた。ではなぜ、このような人間離れした凄惨な攻撃ができたのであろうか。それは組織に対して無私で党派性に従順な成員によって、他党派への実力行使的制裁が可能になったからとされる。また、戦いの性質がドグマからグラッヂへ移行していたのである。革命を実行するためには反革命的な勢力と戦い、破らねばならない。その意味で始めた党派間の抗争は加熱化し、次第に第一の目的が革命ではなく他派の打倒にすり替わっていくのである。これが内ゲバの過激化と暴行やそれに伴う殺害の正当化のプロセスなのである。(荒、2008)
 連合赤軍の内ゲバは少し特色が異なる。連合赤軍は日本国民を煽動することで体制転覆を実行するのではなく、共産主義革命を志向する他国の同志と結託して起こすクーデターを目指していた。連合赤軍は赤軍派と日本共産党神奈川県委員会革命左派が合流して結成され、革命戦士の共産主義化を目指した。革命戦士の共産主義化とは同志の前で自己批判を共有することで共産主義化への自己変革目指すというものであった。極限までの自虐的な自己批判で否定的なアイデンティティを確立させ、さらに同志の間でも批判合戦を行い、それに対して十分な当事者の総括がなされなかったとされる場合には暴行された末に虐殺されたのである。そしてその死は共産主義化できなかったゆえの敗北死と正当化されたのである。(吉見、2009)

現在の共産党


このように共産党の歴史や社会運動の歴史を振り返ると、確認をしておきたいのが現在の共産党の思想である。度重なる騒乱事件を起こし、破壊活動防止法の調査対象団体に指定されたことで、共産主義を示す姿勢を崩したかといえばそうではない。現在の共産党は党員の4割が65歳以上の高齢者であるように、高齢化が進んでおり、実質的な前衛党としての党員による暴力革命は不可能であるが、過去に対する明確な反省や方針転換はされていない。(筆坂、2019)
 現在も日本共産党の終局的理想は、社会主義・共産主義の社会の実現である。しかし現実的な目標としては資本主義の枠内で可能な民主改革であり、他党派との連立政権による民主連合政府の樹立を目指しているとされる。(筆坂、2019)現代でも二段階革命論が採られていることがわかる。さらに政策面でも合法化当時と現在では変化している点もある。主要な点としては日本国憲法の採決において唯一反対をしたのが日本共産党であった。具体的な理由としては当時の吉田首相が否定した個別的自衛権は、保持すべきであるという考え方からであった。現在の共産党はかつて反対した憲法を守るために強硬な護憲論を訴えている。

おわりに


 私がこのテーマを選択した理由は政治における「暴力」について考えてみたいと考えたからである。中核派と革マル派の内ゲバの時代には、両派には無関係な学生や市民が勘違いにより襲撃され、命を落とすような事態も起こっていた。バールで頭蓋骨を砕かれることで命は助けられても植物人間にされたり、椅子に拘束され逆さずりにされて拷問をされたりといったようなことが、大学で行われていた時代である。今の価値観ではほとんど理解できないようなことが行われていたのである。犠牲者の数字だけでは伝わってこない壮絶な歴史があることを今回自分で調べて学ぶことができた。
現在政権与党の自民党と公明党に対峙する野党は乱立しており、新55年体制が続いている。最近では選挙のたびに共産党との選挙協力や連立の可能性などが議論されることも多い。このレポートで示した歴史的経緯に基づく共産党像はこれからの政治選択に役立つのではないだろうか。共産党はかつて、社会党と公明党の合意によって政界において「共産外し」の扱いを受け、現在もその名残が続いている。来年度は社会党と共産党の関係や具体的な政策の違いなどについても学んでいきたい。

参考文献


石川真澄ほか(2021)「戦後政治史」岩波書店。
武田晴人(2008)「高度成長」岩波書店。
吉見俊哉(2009)「ポスト戦後社会」岩波書店。
安部桂司(2019)「日共の武装闘争と在日朝鮮人」論創社。
筆坂秀世(2006)「日本共産党」新潮社。
荒岱介(2008)「新左翼とは何だったのか」幻冬舎。
福永文夫(2014)「日本占領史」中央公論新社。
小熊英二(2013)「社会を変えるには」講談社。
筆坂秀世(2019)「日本共産党の最新レトリック」産経新聞出版。
立花隆(1983)「日本共産党の研究(一〜三)」講談社。
立花隆(1983)「中核VS革マル(上・下)」講談社。
保阪正康(2018)「三島由紀夫と楯の会事件」筑摩書房。

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