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ロマンポルノ無能助監督日記・第35回[那須さん『百合族』で山本奈津子デビュー、金子はビデオ監督後五月みどり『奥様はお固いのがお好き』チーフでホン直して監督昇進来た〜

那須博之監督『セーラー服・百合族』が公開になったのは83/6/24で、5/27に僕はスタッフでも無いのに撮影所オールラッシュに潜りこんで見ている。心配だったのだ。基本、試写室の出入りは社員なら自由だが。

前年の那須さんのデビュー作『ワイセツ家族・母と娘』は会社から散々な評判で、その後の騒動は、第23回「那須夫妻と飛んでカルカッタ」に詳しく書いたように、武田靖制作本部長から「自衛隊なら反逆罪」とまで言われて辞表を書いたが踏みとどまり、それから一年後、那須さんはやっと第二作目を撮れたのだ。見逃せない。

ファーストシーンの“夜の高校プールで全裸で遊んでいる二人の女子”から引き込まれ、傑作だと思ったし、眩しかった。真似したいが、自分が真似しても超えられないだろうくらいにエネルギッシュな映画だが、『ワイセツ家族』に無かったバランス感覚もあって、名作になってるじゃん!いつ、それを学んだんだろうと、那須さんに改めて畏れを感じたくらいだった。

企画した山田耕大・著の「昼下がりの青春」によると、武田本部長は撮影前に斎藤博さんによる脚本には良い評価を下したが、「那須を外せ、あいつはビョーキだ」と言うので、山田が「那須さんを外すなら脚本は引き上げます」と突っ張って那須監督の実現にこぎつけ、「本読み」会議に欠席した本部長は、このオールラッシュには憮然として現れながらも、本編を見たら一転、恵比寿顔で那須さんを褒めちぎった、という話である。

僕も那須さんから、武田本部長の豹変は聞いたが、“顔が全てを言い表す”と言ってもいいくらいの人で、ニコニコすると全面的にOK。
ダメか良いかのどちらかで、中間は無かったんじゃないか。

黒沢清さんがロマンポルノ「女子大生恥かしゼミナール」として撮って、オールラッシュで「まかりならん」と叩き潰され(という噂が当時かけめぐった)、後に『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(85年)として再編集・別配給で公開された事件は、この本部長の“閻魔顔”にやられた訳である。

ホモの薔薇族に対してレズの百合族という呼び名は、この映画から始まったとされているが、山田によると、平凡パンチの記事にあったのを頂いたそうで、本格的レズビアンのことでは無く、渋谷でじゃれあっている女の子同士の風俗を彼女たちが「百合族」と自称していたのを記事にしたらしい。

女高生くらいで自分が「女の子」だということにイヤ気がさしている子が、可愛く綺麗な同性に憧れて好きになるが、その子は男子にもモテまくるから嫉妬して、それでも自分も性欲はあるから男子とも寝れてしまう、という事がアンビバレンツになっている・・・そんな女子を山田はロマンポルノにしたかった。

それを若松プロに高校生の頃から出入りして自分もピンク映画に主演し、僕が初めて会った時は内田裕也のマネージャーだった斎藤博さんがオリジナルシナリオで書き、女の子になり切ったセリフが、ビビッドだった。
「優しくないのは男じゃないよ」「優しい男なんていないよ」みたいな。

これを演じた新人二人・・・ショートヘアでボーイッシュな小田かおる演じる<なおみ>に憧れる<美和子>を演じた山本奈津子が、愛くるしく新鮮だった。
“美保純に続け”とばかり、アイドルぽい女優が次々ロマンポルノでデビューしていたなかで、奈津子はデビュー作でトップに躍り出た感じである。
小田かおるも、翌々年ミス日本に入賞する美貌だが、奈津子の甘えん坊的な親しみ易さと思い切った芝居は、アイドル的な人気を博した。

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映画はヒットし、すぐに『セーラー服百合族2』が作られ、10/14に公開、その「3」にあたる『OL百合族19歳』を、僕が翌年、監督第2作目として撮るという未来があるが、那須さんは同時期の日活勝負作『ルージュ』でも、原作・脚本の石井隆とはテイストが合わないのに「あいつにはツキがある」と言う武田本部長に指名されたり(そうか、だから那須さんが空いて僕が「3」だったのか)、正月映画の『美少女プロレス・失神10秒前』にも起用され、「本部長は何でもかんでもナスって言うんだ」と山田がイラついて呟いていたのを覚えている。そのくらいの豹変。(山田は『ルージュ』の直後に日活を辞め、自分の会社「ブレイントラスト」を興した)
その「那須博之の時代」のスタートが『セーラー服百合族』だった。

以上は日活ローカルでの話だが、世間一般的には83年は5/28に『戦場のメリークリスマス』、6/4に『家族ゲーム』が公開され、金子的には『蒲田行進曲』と『E.T.』を三回、『天国から来たチャンピオン』と『トッツィー』を二回づつ見て、『ラブーム2』でソフィー・マルソーに恋してベスト映画にしている。そんな年・・・

ロマンポルノとは別に、日活では撮影所制作の30分のビデオ作品も連作されていたが、記録がどこにも残っていないので、僕のダイアリーに書かれているものしか分からない・・・しかもタイトルと監督名しか無く、女優名も分からない。

『個人秘書・淫れる』(上垣保朗)『女子高生SEXプレイ』(堀内靖弘)『看護婦・お願い犯って』(白鳥信一)『のぞき』(藤浦敦)などを撮影所で参考に見て、8/5に六本木本社で井上麻衣と顔合わせして、夜、渋谷で那須さんと会っている。

井上麻衣でビデオ作品を一本監督するのを会社から命じられ、那須さんに教え(あれば)を乞うた訳である。何を教わったかは覚えてないが、報告したかった、というのもあるし、ビデオながら監督昇進をお祝いされたかった。
会社的には映画を撮らせる前のテストというニュアンスもあっただろう。

8/8に修善寺にっかつニューライフホテルにロケハンに行っている。
この時期、大京観光から、このホテルだけ経営を肩代わりしていたらしいが、その昔は日活の持ち物だった。ここを舞台にして撮れば、ロケ費はタダ。
今調べたら、リゾートマンションになっている。

武田一成監督・井上麻衣主演『のぞき』の脚本直しも頼まれながら、自分のビデオ作品の脚本も書いた。井上麻衣つながりだったのか。
タイトルは『プレイバックメモリー』としたが、発売されたものは『ブルーレイプ・襲られる』にされた。

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かなり悶々として苦しんで書いた。アニメのように楽しんでは書けない。
自分で撮ることを考えると、無理なく撮れるように書いてしまい、創作的自由度が失われる。
9/8~2泊3日で撮ると決まっているし、登場人物も4人くらいまでが限度だ。手元にベータマックスのビデオはあるが、中身は確認出来ず、ストーリーも良く思い出せない。

出演は他に、後にクミコ・グレースと改名する大沢ゆかり、宇南山宏、上野淳らで、四角関係を作ったんだっけな・・・テニス部の井上麻衣が上野淳の後輩で、プールの更衣室でHしたり、宇南山さんが謎の中年男で、言葉巧みに井上麻衣を誘惑してホテルの部屋でHしたりしたんだっけな。
最後に、麻衣が全裸で窓に這い上がって絶頂になる、というカットを撮ったのを思い出した。

撮影の青柳さんはチーフ歴の長い人で、この後に撮影所の映写技師になり、照明の山田さんもチーフだったが・・・この後どうなったんだっけな、みんな結構リストラされたからな。
二人とも、僕が無能助監督の時とは全く別の態度になっていて、監督としてリスペクトしてくれていて、それに照れながら恐縮していた自分という記憶。
もちろん、みなさん「監督」と呼んでくれていた。

青柳さんが、「監督、ここさ、こうした方がいいんじゃねえか」と言って、麻衣のオッパイに泡を吹きかけ、フーッと吹いて感じさせる、というアイデアを出してくれたので、即採用。

時間内に予定を上げることを最大目標にしていた事は良く覚えており、急いで撮って、チーフ兼セカンド(当然、助監督は一人)の明石知幸から「“監督努力”が感じられました!」と言われてホッとした。

最近、明石本人に聞いたら、井上麻衣が途中で「もうやりたくないわ」と言って拗ねていたのを、明石が宥めて進行してくれたことがあったそうで・・・監督になると、急激に現場の表側しか見られなくなるようだ。

『プレイバックメモリー』というタイトルの意味は、井上麻衣が出している自前のCD歌を使って、現場でワンコーラス歌わせるためプレイバックするということから来ていて、そこは楽しく撮れたのだが、後から「ポルノビデオで、なんで歌なんか歌わせるんだ、エロ度ガタ落ちだ」と言われ、板持ビデオ部長に削られた。
日活映画企画制作の重鎮だった板持さんは、この当時、ビデオ部に回されていたのだった。
映画では『ピンクカット太く愛して深く愛して』のラストのように、歌のプレイバックがあっても良かったのだが、30分のビデオ作品となると、そのような遊びは許されない。板持さんの一声で削られて編集直しとなり、川島章正さんに繋ぎ直してもらった。
確かに『ピンクカット』での寺島まゆみの歌は全部終わってからのラストのお祭り気分を演出していたが、ここでは麻衣が歌ってから最後のHシーンにしようとしていたから、エロ気分が醒めちゃったのであろう・・・

撮影所のビデオ試写室は小さく数人の座席しかなく、映画の試写室が50人は席数があるのとは違って、マイナーな感じがした。というか、ビデオは実際、社内では日陰者のような存在だったのです。
ここで、10/12、完成試写が行われ、常務の若松正雄さんがニヤニヤしながら、
「金子もこれでおしまいか」
と言って入って来たが、試写終わると、
「まあ、いいんじゃない。けっこうエロかったし」
と、言ってくれた。

これを実家に持って行って、食事しながら両親に見せると、父が、
「爽やかだな。若い男女がセックスする姿ってのは爽やかなもんだな」
と言ってくれたのであった。
母は特に何も言わなかったと思う。
ラストカットのデイシーンのホテルで、陽光のなかで麻衣が絶頂になるのは、確かに爽やかだったのかも。

高校大学で作った8ミリ映画は、必ず両親に見せていたし、カルカッタやタイの8ミリも家で上映会をやった、その延長にこのポルノビデオもあったが、お茶の間で親子でポルノビデオ見るっていうのも、妙な感じである。

また、いつなのかの記録は無いが、「ビデオロマンポルノ」で思い出すのは・・・

この作品の直前だったと思うが、山本奈津子で川崎善広さんが撮ることになって、その脚本を頼まれて本社に行き、奈津子と川崎さんの顔合わせに立ち会っていたところ、奈津子が「ビデオは嫌だ」と突然泣き出したことがあった。

理由は、「映画なら観客の存在が分かるが、ビデオは誰が見ているのか分からない」「その分からない客に向かってヌードで絡みをする姿を見せられない」というようなことを、泣きじゃくりながら言っていた。マネージャーはその場にはいなかった。ビデオだから軽い仕事だと思い、一人で来させていたのだと思う。
このビデオはそれで潰れたが、山本奈津子の扱いにくさは良く分かった。
那須さんは、そんな奈津子を実に上手く乗せて撮った。
乗せる現場を見た訳ではないが、「お前はスターなんだからな、って奈津子には言い続けてたんだよ」と言っていた。
事務所の電話番だった奈津子を俺が抜擢したんだよ、と那須さんから聞いたが、その事務所がスカウトして、電話番もさせながら訓練中だったということだろう。
この随分あとの『ビーバップハイスクール』で快進撃していた那須さんの言葉を思い出す。
「なんでもかんでも話すんだよ、役者とさ、思いついたままに、あることないこと喋りまくる。すると彼ら彼女らはウンウンとうなづくだろ。ウンウンてな。次第に俺の言ってることを音楽のように聞いてさ、身をゆだねてくるんだよ、ウンウンてさ、そして気がつくんだよ、やつらはさ、『これはテレビじゃない、映画なんだ』ってことにさ」
なるほど、名ゼリフじゃないですか、那須さん、参考にしてました。
しかし、僕にはそのようには出来なかった。タイプが違ったので。
藤原竜也に「無口な監督ですね」と言われたことがあり・・・逆じゃん。

10/12のビデオ試写の翌日10/13、本社で本編小沼組の「本読み」となっている。

正月映画、小沼勝監督・五月みどり主演『奥様はお固いのがお好き』のチーフに任命されたのだが、その「本読み」にいったというのは、以前にも『わたし熟れごろ』と『桃子夫人の冒険』で全面的に書き直したどうにもならない出倉宏のシナリオが、また今回も同様に全面書き直しとなって、その書き手としての出席であった。なんでこう度々、出倉宏に依頼があって、その度に僕が全面書き直したのか謎なんだが。
チーフは「本読み」には普通、出ない。
これは、純粋な日活映画では無く、N.C.P.=ニューセンチュリープロデューサーズとの共同制作という形になっている。
現場においては何の違いも無いが、作品を受けたプロデューサー岡田裕さんは、日活助監督→プロデューサー→NCPの社長だ。
(小沼勝監督は、助監督としては岡田さんの一期上)

ダイアリーによると、脚本の打ち合わせや五月みどりさんとの話し合いなどは、日活では無く、赤坂にNCPが借りたマンションで行われている。
そうした打ち合わせや、高田馬場にある質屋「スズヤ」を一人で見に行ったりしてシナハンし、自宅アパートでハコ書きをし、10/18から「たてべ旅館」に3泊、10/21の朝4時に脱稿したら旅館で昼まで寝て、メシ食って三鷹の実家へ帰り夕方6時まで寝てから八幡山の小沼監督宅へ行き、深夜2時までいろいろ言われて、バイクで撮影所に泊まるが眠れず、5時過ぎアパートに帰る・・・と書かれている。
10/22 学生ら衣装合わせ リハーサル
10/23 五月、来る 読み合わせ、衣装合わせ
10/24 オールスタッフ打合せ 実家でフロ(アパートにはフロは無い)
10/25 クランクイン

11/14 清里・牧場ロケ セカンド後藤大輔・サード川越と「とりまつ」で飲んで 会社のフロに入り泊まる
11/15 所内撮影でクランクアップ
という流れになっている。

まとめるとインの12 日前に脚本依頼があって、ほぼ、4日間で脚本を書き、その4日後にクランクイン、実働17日で撮影した、ということである。

出倉宏のシナリオがどんな原型だったか全く覚えてないが、五月みどりが質屋のおかみさん(珠子)で、そこには大学生が何人か下宿している、というのは元からあった設定だろう。
この学生たちは、「男のモノ」を質草に入れて金を借り、返せなくなって下宿人になってしまった、というのはどっちの発想か・・元からかな。
学生数は10人にして、みんな無名大学の偏差値30点代、一人だけ優秀だが50点代というあたりから金子の創作。
ご飯の時間になると鐘を鳴らし、全員揃って歩いて来て、
「♪ごーはんだごはんーだ、さーたべよー」(線路はつづくよ)と歌いながら食卓に着く。
ごはんが終わると、今日は誰の番かな〜?という話になる。
シャワーを浴びた珠子さんと「お楽しみのレイプごっこ」が出来るのは・・・という展開。レイプごっこを学生たちで、写真に撮ったりもする。当然、そのうち本気になってHもする。
これは、打合せで生まれた展開であろう。

珠子にはレッキとした旦那(天田俊明)がいるが、裏の仕事場でろくろを回して焼き物を作って妻を放任している。
ここに、姪の幸子(岡本かおり)が家出してやって来て、幸子は旦那が好きなので、仕事場でパパっと全裸になっては「おじさん、好き!」と抱きつくが、応じない旦那。

古い下町映画に良くあるように青空はるおの地元の実力者・不動産屋がやって来て、「変な学生が住み着いている下宿とご主人の仕事場、3億で買います。普通は1億ですが、珠子さんの魅力に2億上乗せ」と申し出る。
珠子は「母親が学生の世話をしているのを子供の時から見て育ってるから売りたくないわ」と言うが、幸子が3億と聞いて目が眩み不動産屋に自ら接触、セックスからめて、家の権利書を不動産屋に渡してしまう。

下宿が潰されると分かった学生たちが、偏差値50点の奴のリーダーシップによって不動産屋に殴り込みするため、「昔の学生が使ったもの」で裏の倉庫に埃かぶっていたヘルメットとゲバ棒を持ち出して、「いちどこういうカッコしたかったんだ」「かっこいい!」と過激派学生の姿となる、というのは楽しんで書いた。
「うちの親父、革マルだったんだぜ」
「うちのママ、中核!」
「ぼくなんか、バリケードのなかで生まれたんだ」
というのは、ノって書けて、岡田裕プロデューサーに「時代だねぇ」と言われて受けた。

サイドストーリーで、超早漏の下宿生が、人生をはかなんで煙突に登る、という物語と、珠子が恋した工事現場監督の鹿内孝が、彼女を連れ去ってゆく待ち合わせの話を結びつけた。

珠子が待合せに行く途中に煙突を見上げて早漏学生を見つけ、実際に高田馬場の大煙突に命綱つけて登るロケを敢行(よくぞやれたと思う)、煙突の頂上は所内オープンセットで組み、そこでイチモツをさすってやり早漏を治す、「あなたは早漏じゃないわ」「まだいかないで」と。

アドホック前でバイクで待っている鹿内孝に「まだいかないで、いっちゃいや」という気持ちをかけるが、時間が来たら「さよならくらいは言いに来てくれるかと思ったが、前にもこんなことあったな」と、ヘルメットを被ってあっさりと去ってゆく鹿内さん。
僕は、現場で鹿内さんの「本牧ブルース」を口ずさんだ。
珠子は早漏学生の「絶頂か〜ん」と共に落ちるが、皆が心配するなかで目覚める。

♪I wanna be loved by you〜ププッピルというマリリン・モンローがビリー・ワイルダー監督『お熱いのがお好き』で歌った歌をインストロメンタルにして使っているように、この映画での五月みどりさんはモンローのイメージを元に描かれようとしているが、五月さんの抱いているモンローへの憧れと、小沼監督の考えるモンローのイメージとでは、随分違うように思えた。

と、いうか、二人は性格も合わない。
五月さんが「竹を割ったようにサッパリとした」性格なのに対して、小沼さんは粘着質で、「シツコクまとわりついてくる蛇」を連想させるような雰囲気を持っている。
ので、端で聞いていて、会話が噛み合わないで、五月さんがイライラしているのが分かる。
小沼さんは「なんとかしてよ、金子ぉ」と自虐的に薄笑いしながら言うが、それ、無能助監督に言っても無駄ですから。
別に火に油を注ぐような真似はしなかったつもりだが、10/31の清里牧場ロケで、「監督と五月、ぶつかり中止」とある。
11/1 10時半に撮影所 NCPで五月と会う
11/2 12時に本社 撮影所に戻る 実家でフロ
11/3 セットで撮影再開
という流れ・・・11/1、2では、撮影休止してみんなで頭付き合わせて、善後策を練っていた訳だが、詳細は全く忘れているが、「これ、本当に中止になるかも知れない」とワクワクしていた反面、半ば空想で「小沼さん、降りないかな〜、小沼さん降りたら、俺、この後を継いで正月映画で監督デビューだぞ」なんて思いながら、心でニヤニヤしていた恐ろしいチーフ助監督、いや、みんなそうでしょ、再度言いますが、それでもわざわざ、足引っ張るような真似はしませんでしたから。

僕もシナリオを書くことで一緒に作った「珠子」ではあるが、多分、五月さんは、珠子を慈愛溢れて、性に飢えた学生を思いやるなかでHしてあげるマリアのような人にしたかったろうが、小沼さんは、本人がそう思ったとしても男にヤラレて、正直に感じてゆく肉体の震えと、エロチックな恍惚の表情とを芝居させて捉えて、淫乱に見せたかったに違いない。
その想いがズレていた、ということじゃないでしょうか・・・

そこで、鹿内孝に清里の牧場に連れられて、キスして・・・という展開の時に、どう今までの生き方と折り合いつけていくのかが二人とも違うことを考えていた。ちゃんと書かれてないので・・・じゃ、ホンの問題じゃん。
なんか本当に些細なことだった覚えがあるんですよ、なんでそこで対立するのか分からんというような。

でも、小沼さんが降りることは無く、11/3~11/8までは撮影は淡々と続いた。
二人とも、現場では、プロとして仕事をしていた感じである。

11/9の撮休日に若松常務に呼ばれ、2Fの撮影所長室に向かう時、一瞬「あ、やっぱり小沼さん降りた?」と思ったが、若松さんが階段の上から振り返り「いい話ですよ」と言うので、「あ、違う映画で監督デビューかな、俺」と分かった。

樋口所長に「年内撮影で来年2月番組、山本奈津子主演で『宇能鴻一郎の濡れて打つ』なんですが、予算は500万、尺は55分で監督やってもらえますか?」
と言われた。もしかしたら「やって下さいますか」という言葉使いだったかも知れない。横綱昇進の内示みたいだな、と思った。
「はい」と答えた。「よろしくお願いします」とか「がんばります」とか、言ったかなぁ・・・自分の方の言葉は覚えてない。
部屋を出る時、ニヤニヤしていた、と思う。
やはり、日活に入って、それまでで一番幸福な感情の中にいた。
入社が決まった時のキラキラ感とは違って、もうちょっと落ち着いていた。
というか、ここが潰れる前に間に合ったよ、という気持ちが強かったのだ。
山本奈津子かぁ、55分かぁ・・・凝縮した元気な映画にしよう、と考えていた。奈津子は元気がいいからな。
気になったのは、脚本は木村智美で『あんねの子守唄』でデビューし、『ピンクカット太く愛して深く愛して』では森田さんと共同脚本になってるが、森田さんが、使えないから殆ど直したと言っていたこと、プロデューサーはこのあいだ『赤い靴』の現場で喧嘩みたいになってしまった上垣保朗さん、という名前であった・・・

その後、11/10~11/15は小沼組の撮影に戻ってクランクアップ。

翌日11/16に撮影所食堂で、企画の小松君、脚本の木村さん、プロデューサーの上垣さんとの初打合せが行われた席上、上垣さんが席に着く前に立ったまま、
「俺は、やっぱり監督に専念する。だからこれは降りる。悪いな」
と言って立ち去って行った。
シーン・・・
別に感情的なことは何も残っていなかったと思う。上垣さんが言っていた通りの事だろう。
このところ、若手監督に同輩か後輩の監督のプロデューサーをやらせるという監督行政が行われていて、反発を招いていて、従う人もいれば、こうやって拒否する人もいた。
日活には、ずっと以前から、「助監督から監督になって監督契約する」コースに乗れなかった人がプロデューサーになる、という伝統というか、慣例というか、があって、お酒の席になると、監督になれなかった悔しいはずの話を、楽しそうに語るプロデューサーが多かった。
1本も撮れないまま(岡田裕、三浦朗、結城良照、伊地知啓)という場合もあるが、1本(中川好久)だけでなく数本(八巻晶彦)撮ってプロデューサーに転身というケースもあった。
だいたいのプロデューサーが助監督試験で日活に入って来て、助監督を長くやっていた人たちであったが、細越省吾さんのように照明部から脚本を書いてプロデューサーになってNCPに入った人もいる。

ただ、これは、打合せ初日にプロデューサーが消えた、という状態で、さすがに焦った。焦っているが、それを表情に出さないように、
「上垣さんがいなくても、べつに流れないよね?」と金子。
「大丈夫だと思いますけど・・」と小松。
「じゃあ、3人で打合せ、しようか」
「ちょっと、本社に電話かけて来ます」
と、小松君も去って、木村さんと二人だけになった。
机には、小松君が持って来た東京スポーツで連載中の「宇能鴻一郎の濡れて打つ」コピー12枚が置かれている。
12枚というのは、連載開始12回めまで、ということだ。
どの回も、「わたし、女子高のテニス部員なんです」から始まっている。
初回は、その「わたし」がエレベーターに乗ったら途中で停止して、一緒に乗っていたおじさんが、なんか理屈をつけて、死ぬ前にHなことをしたい、と言って来て、「わたし」はそれを受け入れる、ということじゃなかったっけな。
それで、いやらしいことが、12回目まで続いている、というのが原作であった。
「これ、なんか参考になる?」と金子。
「いやあ・・別に・・」と木村さん。
とにかく、この映画の主人公は女子高のテニス部員で、それを山本奈津子が元気に演じてHなことを55分のうち、5回くらいはやる、ということで話を作る、ということなのである。
木村さんは、プロデューサーが最初にいなくなって、途方にくれているかのように見えた。22歳か、23歳だったか、『あんねの子守唄』は自伝的な話だった、というのを聞いたことがあった。

...to be continued

(特に、なにもありませんが、お布施あればお願いします)

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