ロマンポルノ無能助監督日記・第8回[名匠・田中登監督に2度就いた]

1978年6月半ば、『人妻集団暴行致死事件』の撮影も、いよいよ佳境に入った。

都市化する旧農村青年たちの、“セックスしたい”ばかりの欲望あふれる日常を、リアルに淡々と撮りながら、彼らはついに「犯罪」への境界線を越えて、邪鬼となる。

真夜中の川の土手道、酔いつぶれている泰造(室田日出男)の上で、3人の若者は話す。
「やっちまおうか、あの母ちゃん」
・・・するりと犯罪者の顔になってしまう古尾谷雅人の芝居は、ちょっと怖くて彼の以後の“芸風”が出た瞬間だった。
「おやっさん、怒るかな」「あとで指つめたらいいんじゃ」
という勝手な理屈で自己正当化して、家に向かう3人・・・

実際に事件があったのは何年か前なのか、つい最近なのか教わらなかったが、その家はプレハブ作りで、ドアも簡素。
この中に照明を入れて窓を明るくし、表も少しだけ当てて、ロケがなされた。
古尾谷を先頭に、3人がドアガラスを叩いて入ろうとするところまで撮り、このドアを外してセットに運び込み、ロケとセットを繋げ、中に入って来た。

セットで・・・
「父ちゃんは?」と、びくびく不信げな妻・枝美子に、「酔っぱらとるから、布団敷いといてくれとのことじゃ」と古尾谷が言うので、少し安心してマットの布団を敷かせているところに、背後から3人で一斉にダダダっと襲いかかる。

「なにするの!、やめて!、父ちゃん!、父ちゃん!」
と、悲痛な叫びで抵抗して逃げようとする彼女を、ひっくり返して押さえつけ、古尾谷→深見の順番でレイプ。
酒井は頭を押さえている。

黒沢のり子の全身は見えないが、じたばたする脚、はだけた胸、口を押さえられた顔が、3人の男のあいだから見え隠れして、恐怖の目が大きく開く。
アップは無く、動きはすべて、フルショット。
頭を押さえられていることで、息が出来ないように見え、1、2分経ったか、深見が達している時に、目を向いたまま彼女は死ぬ。
この後、黒沢のり子は、ずっと目を開けたまま死んでる芝居になる。
後で、彼女の死因は心臓麻痺だった事が分かるが、この時は、酒井が窒息させて殺したようにも見える。

びっくりした3人が、枝美子から後ずさりして離れた時に、泰造がご機嫌で帰って来て、惨状を見て、倒れている妻のもとに駆け寄る。
息がない・・・
「すまん」「殺すつもりはなかったんじゃ」
と言う若者たちを、「おまえらが・・?」と、信じられない思いで睨みつける泰造。
何か言い訳のようなことを言ったあとに「でも、俺はやっとらん!」と言う酒井を殴りつける泰造。酒井は柱に頭をぶつけて血を流す。
「わしらどうしたらいいんじゃ」「なんとでもしてくれ、警察にでもどこへでもいく、好きなようにしてくれ」と泣き喚く古尾谷の言葉に、
「警察? そんなもんほっとけ」と言う泰造、苛立ちで襖に手を突っ込んで破る。
3人は、焦って家を出てゆく。

ここまで2日間のセット撮影だ。
連日、朝9時開始で夜はヌキ(夕食抜き)で8時くらいまで撮った。

3人が土手道を帰り、愚かしくも罪をなすりつけあい、古尾谷が酒井に「わしらは強姦じゃが、お前は殺人じゃ」と言うシーンはロケの日に撮る。

セット3日目は、泰造が、枝美子を全裸にして自分も全裸になり、抱きかかえて浴場に運び、湯船で死体とセックスして、そこに徐々に黄金色の朝日が当たって光が反射する、というライティングをして、荘厳な美しさを強調した。

当然、黒沢のり子は目を開けたままピクリとも動かず、ただ、“死”は殊更には強調せず、メイクもそれほど変えず、身体の肌も綺麗なままにしているので、グロテスクな感じにはならず、エロティックというより、異界にトリップしているかのような、儀式的な演出をしていたのだと思う。

そして、布団に戻して、硬直した指を一本一本広げて直し、体を拭いてやっているところに、枝美子の老母がやって来て、うろたえて泣き、目を閉じてやる、というところまでを丸一日かけて撮った。

実際の事件では、男が警察に届け出るまで24時間経っており、その24時間に何があったのかをイマジネーションで膨らませ、こうしたドラマを創り出したのであろう。
田中登監督の想いが、裸の室田さんと黒沢のり子に乗り移って、異様で、壮絶なシーンとなった。

この3日間のセットが終わると一段落、翌日は日曜で完休とあって、監督、中川チーフ、児玉セカンド、制作の服部さんらと、日活近所の居酒屋「五万石」で飲んだ。

画像1

田中さんは、1974年の代表作『㊙︎色情めす市場』の話をしてくれた。
今は「大阪西成地区」と呼ぶが、当時は「釜ヶ崎」のドヤ街。
その釜ヶ崎に乗り込んでオールロケを敢行し、芹明香の娼婦や、労務者の日常をドキュメンタリータッチで撮り、ダッチワイフにプロパンガスを詰めて爆発させるなど、衝撃的なシーン満載で、まるでATG映画でも見ているような白黒画面の実験的な映画で、今も色褪せない。

画像2

田中さん自身、労務者に成りすまして寝転がりながら、ヨーイスタートの合図を送ったこともあった、と言う。

ただ、ご自身の娘さんが撮影中に亡くなり、帰って葬儀を出してからセット撮影したんだよ、と言いながら、遠い目をされた。

撮影中は脇目もふらずに、禁欲的に見えるのは、そういう理由があるというのは、記録の新関良子さんからも聞いていた。

撮休の翌日曜日には、僕は新宿松竹で『事件』を、新宿ピカデリーで『コンボイ』を見た。
映画の現場で仕事して、休みには映画を見るという“映画漬け”の日々が、これ以後何年も続いてゆく・・・

『㊙︎色情〜』の前年の73年に『㊙︎女郎責め地獄』で、田中登は“映画監督協会新人奨励賞”をとっている。
72年、3人の監督が逮捕され、「猥褻是か非か、犯罪か?」という議論が日本中に巻き起こっていた 「ロマンポルノ裁判」の渦中に、作品的に「芸術としての評価」も得て、ロマンポルノは、ひとつの文化的価値を獲得した、その象徴というか、ホープが田中登であった。
ちょうどこの78年6月に東京地裁が無罪判決、80年に検察は上告断念して、9年続いた裁判は終わる。

だから、日活でも、「田中組につきたい」というスタッフがいて、尊敬を受けており、撮影中の雰囲気は悪くないものだったが、それでも連日の残業が続くと、不満は溜まってゆく。

当時はイン前のオールスタッフ打合せで、必ず「スタッフ委員長」という役を決めた。労働組合の規定による。
たいがい、照明部のチーフがなったが、撮影がきつくなると、委員長がチーフ助監督と相談して、翌日の開始時間を遅らせたりする。
その談合をしている時は、監督は、聞かないふりをして、近くで台本をめくったりしているのだ。
この作品の時も、中川チーフは苦労していた。

「もう、じゅうぶん尺数撮ったから、ここ撮っても切るだろうって、(スタッフは)分かってんだよな」
と、こちらに言った後、言い方を変えて監督に進言するが、田中さんは殆ど妥協しない。

僕も、疲れていたのであろう、撮影終わって30分の自転車で、深大寺の坂道を上がり、家に帰ったら夕食が無かったので憮然として母に怒ったら、父が「助監督が、そんなことではいけないだろう、夕食が要るなら要ると連絡しろよ」と、至極当然のことを言ったのにカチンときて喧嘩になってしまい、大声を張り上げたりした。
その後「父母の態度がよそよそしくなって、家にいづらい」などと書いている。
やつあたりしてたのね・・ごめんなさい・・

“親に甘えている”と言えば、事件の翌朝、農家に帰った深見博は、泣きながら昨夜のことを父親に喋るロケのシーンで、本泣きして、こちらも涙ぐんだら、監督が、「俺も、もらい泣きしちゃったよ」と言って、深見の芝居を讃えた。

深見の父親は母親に、「泰造の様子を見てこい」と言うと、死体と交わるところを風呂場の窓から見た母親は、帰って来て「泰造は狂っちょる」と報告した。

古尾谷は工事現場に行って、近づくパトカーから逃げようと走るが、両方向から刑事に追われ、泥川につかりながら確保される背後に、列車が通過する、という見事な望遠カットがある。

酒井昭は、志方亜紀子のアパートに逃げ込み、「俺はどうなってもいいんだ!」と畳の上で彼女を犯すと、「どうして欲しいの?私と一緒に逃げて欲しいの?」と言われ、自首の覚悟をする。
この時、志方はブラジャーをしたままなのが、不自然だった。
田中さんは、“女優を口説き落としてロマンポルノに出すのが得意”という風評があったが、志方に関しては、胸の露出は無くて良い、という約束をしたのではないだろうか、と想像する。
日夏たよりと岡麻美によって、若い女の全裸セックスシーンは十分に見せているだろう、と考えていたのでは。

この後、泰造は警察で、妻の死因は心臓麻痺だったと知らされ、「枝美子は自分とのセックスをよがっていたのでは無く、苦しんでいたのだ」と分かり、絶望する。
廊下で捕まった古尾谷から「おやっさん!」と悲痛な声で謝られても、そちらを見ようとはしない。

数ヶ月後の時間経過があり、泰造は、家で机に突っ伏して孤独死する。
この時、泰造の手前に釣り糸の束を、目立つところに配置したのをそのまま撮られ、ちょっと嬉しかった。そこだけが、演出に参加出来た気がしたトラックアップであった。

古尾谷には量刑がついたが、深見と酒井は執行猶予となり、映画のラストシーンは、酒井が彼女と笑顔で自転車に乗って街を走らせ、そこにアフレコの声で、フフフ、ハハハという笑い声がカブる、という何ともやりきれない終わり方で、誰にも感情移入出来ないまま、死んだ妻の無念の記憶が、上映後も、幽霊のように漂う。

暴走した愚かな若者に対るす断罪、というのでもなく、憤死した妻への哀切の感情を強調しているのでもない、ここにあるのは、言ってみれば、創作した時間と空間を醒めた目で見つめる“神=作家=田中登”の、現実社会から遁走した男=室田の肉体に託した「ある種の懺悔」みたいなものではなかったろうか・・・
そういう意味で、あらゆる場面で「作家の意思」がゆらいでないから、傑作となり、批評側から高評価を得たのであろう。

だが、ショッキングなタイトルに惹かれて「ロマンポルノなら、レイプのシーンを興奮しながら見られるだろう」と思ったお客もいるだろうが、そういう期待はまったく裏切られて、「男の性の愚かしさ」を見せつけられてしまう。
期待を反省して映画館を出ることになるかも知れない。

6月20日に撮影終了後、3日間アフレコがあって、編集ラッシュを2回見ただけで僕は外され、次の組(『高校大パニック』)に配属されたので、いつが完成の日かはっきりしないが、だいたい6月30日頃であろうと想定、7月8日から長谷部安春監督『エロチックな関係』(内田裕也主演)との二本立てで公開になり、壮絶に大コケした。

僕は、『高校大パニック』の本体が博多ロケに行って、連れて行ってもらえなかったので5日間休みになったのでまた映画を見る日々となって、7月13日に高校の同級生でまだ女子大生やっている子を連れて、この二本立てを池袋北口日活に見にいったが、ガラガラであった。
面白いとも何とも言われなかった。言われたのは、「古尾谷くんてちょっとカッコいいね」「内田裕也って棒読みね」くらいだったか・・・

会社から、公開前にどのような評価があったか、知らないが、芳しくは無かったのではないだろうか。
僕自身は、田中登というスター監督の現場にいられて、この映画の撮影場面にはすべて立ち会い、目の前で的確な演出を見られた、ということは財産だろう、と思っていたし、厳しい時は厳しいが、本質的には優しさが感じられて、豊かな現場であって、この人まっすぐな人で、人間的にも好きだなと思え、尊敬もした。

だが、この後、田中さんに何が起こっていったのか、知るすべも無いのだが・・・

3年後の81年に『もっと激しくもっと強く』(脚本・鹿水晶子)にセカンドとして再度就いた時には、田中登は別人のようになって目の前の現れ、驚いたのだった。
姿形は同じで、同じハイキング帽のムッシュでも・・・

78年後半に制作・公開された『ピンクサロン・好色五人女』は、評判良かった記憶がある。(脚本はいどあきお)

ところが、翌79年『天使のはらわた・名美』では、原作と脚本の石井隆と揉めた、という噂が聞こえてきたり・・・

80年の『ハードスキャンダル 性の漂流者』では、売り出し中の脚本家・荒井晴彦と揉めたとか・・・荒井さんは「ちゃんと書いたのに」と言う。

その頃、TVに招かれ、2時間ドラマを撮って、高視聴率を獲得した。
「俺は30%監督だ」と言った、という噂があって、え〜?田中さんがそんなこと言ったのぉ?と聞く耳を疑ったものである。

『もっと激しくもっと強く』の時は、とにかくカット数が多くて、それを消化するので精一杯のせわしない現場であった。
田中さん、TV的な撮り方になっているぞ、と感じてしまったから、首を傾げながら、働いていると・・・
無能助監督は随分叱られ、なんちゅー言い方するんだ、と泣いたりした。

葉山の海岸ロケで、車のテールランプが壊れて、それを外そうとして、装飾の“学ちゃん”に「これ、どうやって外すの?」と言ったら、
「今頃そんなこと言ってんじゃない、『どうやって外すの』なんて女の子みたいなこと言うな!」
と怒鳴りつけられ、その日は、それ以後、カチンコをバシバシ打って、反抗的態度をとった。
チーフの上垣さんに肩を揉まれ、
「怒るなよ。助監督なんて屈辱だろ」
と言われても治らず、何度思い出しても涙がこみあげた。
ダイアリーには
「1日たった今でも涙が出てくる」
と書いている・・・
・・・そんなことでねえ・・・助監督になって3年経ってるのにヤワな奴でござんす。

この映画、外人墓地のロケでは午前中50カット、というのを覚えている。
午前中で50カットですよ。
太陽が雲間に入ってしまうので、照明の矢部さんが、
「ちょ、ちょっと待って下さい」
と言ったら田中監督、
「待てないッ、ヨーイ、ハイ!」
と言ってカメラは回ったが、本番中、雲に入ってしまい、カメラの森さんは止めた。
そうしたら田中さんは、
「しっかりしてよ、照明部さん!」
と怒った。
しっかりしてって、カントク・・・
矢部さんは、
「もう田中組やんねえぞ」
と地面に台本を投げつけた。

絡みのシーンでは、いつも、
「ここは狙い目ですから」
と言ってしつこくカットを重ねるので、風間舞子も苦笑い。

出来た映画は良くわかんなかったな・・・

田中さんの映画監督のキャリアとしては、83年に古尾谷雅人主演で撮った『丑三の村』が有名だが、86年に今陽子主演『蕾の眺め』でロマンポルノは終了、最後の映画はロッポニカの88年沖直美主演『妖女伝説’88』になり、TV2時間ドラマを2005年まで撮り、2006年10月6日に亡くなっている。

その1ヶ月前の9月6日の日刊ゲンダイの「あの人は今こうしている」に登場して、亡くなったのでは?という噂を否定して、以下のようにインタビューされている。

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「困りますね、現役の私を殺してもらっては。誰ですか、おかしなウワサを流しているのは?」
 こう言って田中監督は苦笑した。
「今はテレビが中心なんですよ。1980年に1時間もののシリーズ『女の熱帯』を撮ったのが最初で、次の年からは映画の仕事がないときは、2時間スペシャルの演出をしてました。火曜サスペンス劇場、木曜ゴールデンドラマ、土曜ワイド……。そう、1時間ものを21本、2時間ものは70本は撮っているでしょう」
 21世紀になってからは火曜サスペンスがメーンとか。
「去年の夏に撮った『年下の人』が最新作になるのかな。その直前に芸術祭参加作品として、ビートたけし君主演で『鬼畜』を撮りました。これはなかなかのものだったと自負しています」

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僕も、監督になって以降、ファンキーさんを偲ぶ会や、渋谷パンテオン劇場で行われたロマンポルノ記念イベントで2回、お会いして、楽しく話せた。

そういう時って、遠目から姿を見かけた瞬間は、叱られたときの記憶がパッと蘇ってしまうのだが、ご挨拶した瞬間には、柔和な笑顔になられて「おお、金子ぉ」と言われて褒められた「犬的な感情」の記憶に支配され、『人妻〜』の時の尊敬心が蘇り、涙ぐんで反抗したのは、慕っていた人から理不尽に冷たくされたからなのだと分かった・・・という屈折した助監督心理・・・

亡くなる直前のインタビューを、もう少し引用しよう。

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「今年5月、ラピュタ阿佐ケ谷って映画館で私の特集が8週間にわたり、組まれましてね。そのとき、『実録阿部定』を製作した昭和50年以来、三十数年ぶりにスクリーンで見たんですよ。終わると自然と拍手が起こり、しかも気づいたら観客の4割が女性で、おまけに若い人が多いじゃありませんか」
 監督冥利に尽きる一瞬だろう。
「もちろん、うれしかったですよ。ロマンポルノが誕生して四半世紀以上経つのに、まったく風化してない。つまり、ホンモノだったということです。実際、作ってた当時、会社はロマンポルノってタイトルを押し付けてきたけど、私たちは純粋な映画を作ってるとしか思っていなかったし、ポルノなんて意識は毛頭ありませんでした」
「一方、日活という映画会社は男と女の愛の物語を1133本も作り続けた稀有(けう)な大会社なんです。三十数年後にそれらの映画が女性たちに理解され、今、再び脚光を浴びる。いや、本当にすばらしいことです」
 田中監督、テレビドラマを撮っているだけでは満足できない気持ちがあるのではないか?
「企画はいくつもあります。ただ、これまで何度も私の企画を奪われてつらい思いをしてるだけに、正式に決まるまでは絶対に口外できません。あと、だからって私を殺すのはやめて、『あの人は今もこうしている』と書いて下さい。くれぐれも頼みましたよ、ハハハ」

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「あの人はいま」は最後に「ハハハ」で終わるのが定番だが、この1ヶ月後に69歳で亡くなってしまうとは・・・

この記事から25年前の、『もっと激しくもっと強く』横浜ロケの昼食のとき、誰も田中さんに着いて行こうとせず、上垣さんもウインクして「よろしくな」という感じで去って行ったので、僕と二人サシで中華街で食事したが、怒鳴られたばかりで気まずく、話すことも無い感じであったが、帰りに、お土産屋でペーパーナイフを買ってくれた。何故か・・・

木製の、細かい模様が施されているものだったが、ペーパーナイフなんて、滅多に使わないから、ずっと、机の鉛筆立てに差していたが、捨てた記憶も無いので探してみたが、さすがに見当たらない。

見つかったら、写真をアップしようと思ったんだが・・・再会した時も、ペーパーナイフのことをお礼しようと思いながら、言いそびれてそのままである・・・


・・・・To be continued

(日刊ゲンダイネットの記事アドレスを以下にあげておきまする)

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