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ロマンポルノ無能助監督日記・第22回[トンさんの海女モノと1980年の総括は城戸賞逸す!そのワケは?]

『少女娼婦けものみち』『朝はダメよ!』以降、1980年後半、24歳の助監督3年生としては、面白い仕事にはありつけなかった。

5月末からは、「トンさん」と呼ばれる藤浦敦(あつし)監督の『若後家海女うずく』に就いたが、このトンでも無い監督・トンさんのことを、知らない人にどう説明したら良いのか・・・

夏は海女モノ、秋は温泉モノの年に2本しか撮らない人(だのに、僕は、運悪くこの年もう一本就く羽目となる→『セックスドック淫らな治療』
「そりゃ災難だねぇ、金子くーん」は、那須さんの言葉・・・

この時既に50歳で、ロマンポルノ以前に監督デビューして8本目になるのに、身分としては何故かまだ助監督なので、「助監督室の古株」みたいな顔で常にエラソーにしているので、飲み会なんかでは、敢えて近づきたく無いし、誰も話しかけないから一人で飲んでいる。
・・・ということもないか、やはり古い助監督先輩が相手していたかな。

なんでそんなにエラソーにしているかというと、おウチが三遊亭の名跡(圓朝)を継いでいるので「宗家」と呼ばれて落語界では本当に偉いらしく、肌がツヤツヤで見るからにお坊ちゃまで育ちで、有名・無名な落語家を、縁故でロマンポルノに“賑やかし”として出演させる手腕(?)があった。
実際、現場に来た落語家さんらは、トンさんのことを「坊ちゃん」と呼んでいた。

ご本人が偉い訳ではなく、先先代(お祖父さん)が八百屋問屋をやっている時に、初代・三遊亭圓朝を支援して、その名跡を預かった、という事情がウイキペディアに載っている。

三遊亭一門の落語家が、自分の高座名を付ける時にこの家の承諾が必要になるということになろうか、その時、いくらか包むんでしょうかね、知りませんが。
そういう環境で、坊ちゃんとして育ったトンさんは、早稲田の政経を出て国文に入り直して中退し、読売新聞に努めてから日活入社という経歴で、それなりに大変な秀才だったようです。

トンさんが日活入社の1954年は映画黄金時代、新たな映画会社として日活が再スタートした年で、希望に燃えた僕と同じ24歳のお坊ちゃまとしては、その17年後に会社がポルノ専門になるとは想像出来なかったであろう。
裕次郎が活躍する青春映画の助監督としてはどうだったんであろうか・・・

監督デビューは、ロマンポルノ開始直前の71年『喜劇いじわる大障害』で、見ていないが夏純子なんか出ているし、立川談志が監修ということでクレジットされている。(レビューを読むと“まとまりがない”“笑えない”と書かれている)
その3年後、74年に『江戸艶笑夜話 蛸と赤貝』で初ロマンポルノを撮った後は、この4年で6本撮っているから、『若後家海女うずく』は7本目のロマンポルノになる。
今まで就いた監督のなかでは、神代さんを除くと最年長だ。
ベテランという本数にはなっていないが、そういう雰囲気があっても良いはずじゃないの?

しかし、僕の就いた撮影現場では、監督トンさんほとんど目立たず、孤独に佇んでおり、スタッフの背後から助監督に小声で指示することもあるが、無名な若手落語家がゲスト的に来た途端にダッと前に出て来て、高飛車に怒鳴りつけるように「なにやってんだバカ」と言いながら“演技指導”する。
書いていると、40年経って美しい思い出になってるはずが、なんか不愉快になってしまうのは、「バカ」という言葉のせいでしょうか・・「バカ」という言葉が飛び交うと、楽しいはずの現場が、嫌な雰囲気になってしまいますからねー

だいたい、「ヨーイ、ハイ!」というスタートの掛け声は、元気良く、高く通る声でハッキリ言うが、芝居が終わった時には「カット」がかけられないという、珍しい監督だ。
多分、カットするタイミングが分からないので、カメラマンの山崎善弘さんが、“よし、芝居終わった”と思ってカメラから目を外すと、助手がスイッチを止め、カメラが止まったと認識したセカンド助監督が、カチンコをカカッ・・と小さく鳴らすことで、いまの撮影行程が終了したのだな、と皆が理解する。
この時、監督は?と思って横目でパンすると、台本に目を落としている。
誰も、「OK」と言わないので、お互い見合って、うやむやのうちに次の段取りへと進む。
そんな現場は、日本全国ここだけだろう。珍しい。

後で聞くと、山崎さんはトンさんの小学校の同級生だったらしい。
この『若後家海女うずく』まで、カメラは必ず山崎さんだった。
あからさまに監督をバカにする、という態度は取らないが、現場では、実質的に、善弘さんが監督をしていた、と言って良い。役者への動きの指示も、的確にしていた。
チーフ助監督の伊藤秀裕さんが、善弘さんのご機嫌を取りながら、時々はトンさんの意見を、フンフンと聞いているフリしながら、現場を進めていた。
繰り返すが、あからさまに監督をバカにする、という態度は、誰もとらない。

しかし、このような人が、何故、このような立場で監督として仕事を続けていられるのか謎だったが、根本社長と懇意だとか、「三遊亭の名跡を持っている」ことが日活に有利だとか、いろいろ噂はあったが・・・

ロマンポルノが終わった後の1992年、突如ダイアン・レインを呼んで加藤雅也と共演させた大作『落陽』の“総合プロデューサー”となって君臨し、殆ど日活の息の根を止めたのだが、映画秘宝などでは、インタビューを受けたり、本を出したりしているが、嘘かホントかハッタリか見分けつかない記述が多いようだ。調査した訳では無いので、興味のある方はお読み下さい→「日活不良監督伝 だんびら一代 」藤浦敦(2016洋泉社刊だが、口述筆記により、何故か「児玉高志監督が本番映画を撮った」という、全くのデタラメを言ったために、名誉毀損で訴えられた。何故そのようなデタラメを言ったのか謎だ)

この『若後家海女うずく』での更なるツラさは、主演女優・佐々木美子が全くの新人で、演技がどうにもならないことだった。
明るく、アッケラカンとしているのが救いだが、「脇毛を剃らない自然児の魅力」とかがキャッチフレーズとなっていて、それ以外に何処を魅力として考えて良いのか・・胸は大きいですが・・・ホルスタインと・・失礼、当時そう思ってしまったので(−_−;)
「私を買ってください」というセンセーショナルなタイトルのヌード写真集を出版したのがきっかけで、ロマンポルノ出演となった人だ。

5/26からセット開始した翌日、芝居がダメで“昼休み無し”での練習が決まったが、セット内では午後の準備があるので、ステージの表に出て行って、向かいのステージとの間の通路で、伊藤チーフと僕とで、佐々木美子の芝居を訓練している時だった・・・

僕は、彼女のセリフの相手をしながら、その背後にやって来た人の姿を見て、一瞬にして背筋が凍った。

その人は、向かい側の自分のステージへ向かう途中に、我々の様子を見て、足を止め、観察しているふうに腕を組んで、暫く見ていた。
そのお方は、我々が何をしているか、すぐに分かったであろう。
ご自分も、かつて、このようにして、新人女優に芝居の稽古をつけたこともあったであろう、懐かしそうな、いや、厳しい顔つきで、我々の様子を見ていたのである・・・
その風貌を見間違えることは無い。
『太陽の子・てだのふあ』を撮影中の浦山桐郎監督であった。

『キューポラのある街』で吉永小百合を、『非行少女』で和泉雅子を輝かせた豪腕・酒豪の巨匠、その人が、我々の、この新人女優訓練をご覧になっている・・・何を想っていたか、知る由もない・・・かなり長い間、見ていたが、スッとご自分のステージへ入って行かれた。
午後の撮影開始の随分前に、スタッフより先にステージに入られる途中に、我々の様子を目撃して足を止めたに過ぎないが・・・
・・・伊藤さんも僕も、赤面していたと思う。

このことは、ダイアリーにも書いていないで40年ぶりに蘇った記憶だが、その次の3日目には「もはや3日目となると、物珍しさも消え、セットの隅であくびを噛み殺す」と書いてある。

翌日は撮休で、佐々木美子はじめ、共演の海女たち・・・安西エリ、マリア麻莉、笹木ルミ、麻吹淳子らを、千駄ヶ谷の東京体育館プールに連れて行き、水泳練習をした。
“海女ちゃん”としての、海での泳ぎながらの芝居が、どれだけ出来るのかを助監督としては把握しておかなくてはならない。
五人の派手なグラマー美女たちを引き連れてプール・・・は、周囲の注目を集め、キャッキャ!と楽しかった。
皆さん、水着も派手で、肉体美をアピールしている。
僕も海パンだったので、前が突っ張らないように注意した。24歳なんで。

翌々日から6/7まで、千葉・勝浦ロケとなる。
このロケでは撮影をとにかく早く終わらせて、ボーリングへ行くというのが日課となった。

ロケ3日目の昼に雨が降り、午後は中止にしてボーリングにでも行こうか、と伊藤さんと善弘さんとで相談したのがきっかけで、監督と年配スタッフを除く、若手スタッフと女優さん、落語家さんらとで、ロケバスで勝浦の平日なのでガラガラのボーリング場へ到着、楽しく3ゲームくらいしてから宿に帰って、風呂上りのトンさんも合流で宴会。

その日から連日、撮影は早めに終えてのボーリング場通い。
善弘さんも、ボーリングやりたいから、撮影のスピードを上げた。
山崎善弘カメラマンは、プロ並の腕前で、僕は、殆ど初めて(人生二度目)だったが、投げるコツを教わり、アベレージが、65→90→110と日々上達した。(書いてある)

森田芳光さんもボーリング好きだったが、撮影を早めに終わらせてボーリング大会なんてことは無かったし、僕のアベレージも、森田組では100に達することは無かったと思う。あったかな・・・

撮影、アフレコが終わって、編集の打ち合わせで驚いたのは、トンさんが「俺は、ポルノはワンカットも切らないよ」と宣言したことだった。聞かれないのにさ。

それで、トンさんのポルノ論を滔々と聞かされたが、そんな大した論ではなく、要するに、お客はハダカを見に来ているだけなんだから、ポルノにかこつけて“作家的”な自己主張をするのが許せない、というようなもので、神代さんや田中さんなど、ロマンポルノ開始時にマスコミから注目された同輩・後輩“作家”たちへの、長年積み重ねられた“嫉妬”からの発言であろう、非常に分かり易い。

(今思ったが、トンさんが、助監督の身分のままだったのは、監督会が反対していた、ということがあったのではないだろうか)

だからと言って、ポルノシーンを全く編集しないと、ただダラダラの長いだけのものになってしまう、という事までは気づかないセンスのようだ。
実際、ポルノシーンの現場では「激しく、激しく」しか、言わないで撮っていたし。
どんなものになったか、想像つくであろう・・・再見したくないス。
なので、トンさんは、金子がいかに無能助監督なのかは見抜けず、次の『セックスドック淫らな治療』では、御指名を頂いてしまった・・・気に入られたのでしょうか(゚∀゚)

現場は、比較的早く終わっていたので、家に帰ってシナリオを書いていた。

男女が入れ替わる『イクオの大変身』を書き上げ、同期の企画・山田耕大に渡したが・・・彼は面白がってくれたが、企画として通るまでには至らなかった。

7月は武田一成監督の児童映画『おかあさんのつうしんぼ』に就きながら、夜はストレス発散もあってシナリオを書き、1ヶ月半の撮影が終わって仕上げの最中に、第6回城戸賞に出すつもりの『冬の少年たち』を書き上げた。(8/31)

この武田組も、書くとストレスを思い出すのでやめる。御存命だし・・
あ、トンさんもご存命か・・・

おかあさん役で出演の藤田弓子さんには、一瞬、憧れた。10歳上。
この人と結婚する人は幸せだろうな〜、とぼんやり考えてカチンコ打っていた瞬間がある。現実に戻ると、あり得ないと目覚めたが。
凄くいい人なんで。
その後、お会いする機会も無いが・・・
武田監督が子役を怒鳴りつけるのを「そうやって子供を怒鳴るのは、もうやめて下さい!」と仰ったのであった! カッコいい、女前!
(8/22アップ 8/30オールラッシュ)

この1980年の日活の外側に目を向けると、日本映画界は、鈴木清順監督『ツィゴイネルワイゼン』がキネマ旬報ベストワンとなり、2位の黒澤明監督『影武者』を押さえ、3位に大森一樹監督『ヒポクラテスたち』、9位には石井聰亙監督『狂い咲きサンダーロード』が入っている。

日活助監督の先輩たちには、鈴木清順門下生や、パキさん(藤田敏八=『ツィゴイネルワイゼン』主演)信奉者が多いし、みんな権威というものが嫌いだからクロサワをバカにしていて、清順さんを擁護する傾向にあった。

『ヒポクラテスたち』も悪く無いと思ったけど、3位になるほどかよ。
『狂い咲きサンダーロード』のベストテン入りは立派。
石井君やったね、でも悔しいぜ。
俺も城戸賞獲って、デビューして後に続くぞ!
日活を通しての応募なので、一応、第一次審査は免れる。(9/2提出)

9月になると、白鳥信一監督・原悦子主演『犯される花嫁』に就いたが、これは、原悦子の日活最後の作品となる。(9/17イン9/30アップ・10日間)
そして、後にロマンポルノの聖子ちゃんと呼ばれる寺島まゆみのデビュー。
つまりは、新旧交代。
白鳥組だから、撮影は早いが、新進気鋭で期待されている熊谷禄朗の脚本が特に何も面白いところが無くて、忘れてしまった。

「原悦子、座位を拒絶」とか「寺島まゆみ、泣く」とか書いてあるが、詳細を思い出せない。
あと「頭痛で気分悪く、ボールド間違い続出」とか・・・頭痛じゃなくても間違えるんですけどね。

そしてまた、10/13インの藤浦組『セックスドック淫らな治療』だ。

この作品で、トンさんは“監督開眼”した。
カメラマンが山崎善弘さんから水野尾信正さんに変わったからだ。

那須さんが言ったことだが、「水野尾さんは、監督が乗り移る人なんだよ」
それは、曽根中生監督に何本も就いている那須さんが脇で見ていると、カメラの水野尾さんが、曽根さんソックリに見えてくる、ということから来ている。
それで、名作『天使のはらわた赤い教室』が生まれたのだ、とも言える。

この『セックスドック淫らな治療』でも、僕はそういう現象を脇で見た。

トンさんと、水野尾さんが、カメラを挟んで同じことをステレオでガナる。
水野尾さんが、一拍遅れて、トンさんの言うことを繰り返すので、「監督が二人になった」と笑うスタッフもいた。

その前に、「ヨーイ、ハイッ!」だけでなく、「カット!」も言えるようになったトンさんのことを、僕は先輩助監督たちに報告して、驚かれた。
「トンさんが、『カット』って言ってます!」
「えっ、ほんと〜」「すげえな」
そしてトンさんは「助監督室」からも卒業して行った。

しかし、映画は最低だ。

砂塚秀夫が、セックスに悩む患者をカウンセリングして、ナースの志麻いずみが勝手に興奮してオナニーするとか、十字架を見ると淫乱になる渡辺とく子とか、セックスという行為を知らない安西エリの若夫婦とか・・・馬鹿馬鹿しいにもほどがある。コントじゃないだろ。
1980年の日本人の性意識って、こんなだったのだろうか・・いや、誇張されているのは分かるが、それをオモロイと笑える意識だったのであろうか。

バカバカしいと、これ以上思わないために、現場で懸命に働いた気がする。
大声出したり、セット内を走ったりして、体を使った方が精神衛生上、良い。
白石さんや那須さんら、“優秀な助監督”たちを意識して真似して、張り切っているように見せた。
そうしたら、終わって、トンさんが「金子、金子」と呼ぶ。
「はい?」と近づくと、
「これでお茶でも飲め」
とお札を渡された。
五千円。
今日の現場での働きは目立っていた、という意味だろう。
「ありがとうございます」と言っただろうか、オレ。
“ふざけんじゃねえ、こんな金のために仕事やってんじゃねえ”・・・とか言ったらカッコいいよな、と思った事は覚えているが、自分がどんな顔していたかは分からない。嬉しくは無かったが、返しはしないでポケットに入れた。
やっぱり「ありがとうございます」って言っただろうな。
でも、翌日からは、自分のペースでやったと思う。
特には、頑張らなかったから、お小遣いもそれ以上は貰わなかった。

ロケーションでは、エキストラで「スター」の役を自ら選び、衣装も真っ赤なスーツを選んだ。
TV出演して帰る設定の砂塚秀夫が、東京タワーのTVスタジオから出て来て、駐車場で車に乗るシーンの背景に、「スター」も出て来て、十人くらいの女子にサインを求められる、という役割で、ピントもあっていないエキストラであったが、スター気分を自ら作ってサインをする芝居をした。
気分良かった。

この撮影の最中に、「冬の少年たち」が城戸賞の最終選考に残っている、という報せがあり、ドキドキした。
応募総数は分からないが、百本は越えてるだろう。
そのうちの10本くらいのなかに入っている、というのだからドキドキだ。
凄いことじゃん! 賞獲れるかも知れない。

仕事の方は、撮影とアフレコが終わるや否や、加藤彰監督・日向明子主演『百恵の唇・愛獣』に就いた。
加藤さんも好きだし、日向さんも感じいい人なのだが、現場の記憶は、もう明確でない。
助監督の仕事がルーティンワークとなって、記憶が埋没してしまった1本だ。
日向さんが「百恵」というのが、どうも違和感に感じていた。似てないと思う。

『百恵の影武者』という企画を思いついて、現場で考えていて、そっちの方が面白いだろう、とボンヤリしていたもので・・・脚本化は出来なかったが。

ナイターが多くて、キツかった。
川崎土手の寒いナイターの夜食で、温かい豚汁が出て、カメラマンの米田実さんがいつもの厳しい表情を崩して、「おお、いいね〜」とにこやかな笑顔を見せた瞬間とか、そういう場面を覚えている。

若き小林稔侍さんが出演していて、真摯に演じていた。
後に『ケロロ軍曹』の声優で有名になる中田譲治さんも、新人なのに重厚な芝居だった。

この映画は、本物の百恵さんの最後の映画、市川崑監督『古都』の公開にぶつけられた。
12/8東宝系公開の『古都』も、同時期に日活に撮影が入っていたが、ホリ企画とのトラブルは何も無かったのだろうか?

『百恵の唇・愛獣』は、小原宏裕監督・畑中葉子主演『後ろから前から』と同時上映で、12/26公開で日活としては大ヒットとなった。

そのオールラッシュの11/26、合評会の後、出席した樋口弘美撮影所が「金子、ちょっと」と、手で呼んで、立ち話・・・
「城戸賞、残念だった」
えっ・・・樋口さん、審査員だったので・・・そうか。足がガクガクした。
審査会の模様を、短い言葉で教えてくれた。
「佐藤忠男さんは、今年はこれしかない、と言ったんだが、新藤(兼人)さんが、ダメだと言ってね」
えっ・・・
「まあ、頑張れよ」
と、去ってゆく・・・が〜ん・・・

佐藤忠男さんが「これしかない」と言った・・・でも新藤さんが、ダメだと言った・・・その後、何百回も頭の中で繰り返された言葉である。

お二人とも、城戸賞選考員としては重要なツートップで、しかし、新藤兼人の方が、そりゃ最大の権威者である。
その方がダメだと言えば、そりゃダメだ。

が、僕は実は巨匠・新藤兼人に疑問というか、ちょっと反発を感じていた、その当時は。

夏目漱石の「心」をいつか映画化してみたい、と高校時代に思っていたら、新藤兼人が1973 年ATGで映画化(松橋登・主演)して、それを見たら、ちょっとヘンな映画になっていた。
明治の話を現代にして、低予算で作っているから、失恋で自殺する心情が分からない。それが新藤兼人初体験だった。

大学時代に『愛妻物語』は先にシナリオを読んで感心、感動もしていたのだったが、その後TV放送で見た時、乙羽信子が宇野重吉の夫に「いいシナリオを書いて下さいね・・」と言って死んでゆくシーンを見て、“こりゃあ脚本家から監督になった新藤さんの自己正当化なんじゃないんですかぁ?”と感じてしまったのであった。
まあ・・当然、見方はいろいろありますが・・・

溝口健二監督の関係者の証言を集めた『ある映画監督の生涯』には大変驚き、感心した。
ドキュメンタリストとしての新藤さんは凄いけれど、フィクションの創造性はどうなのか、という疑問があった。
遺作の『一枚のハガキ』には感動したが・・・

そういう複雑な新藤兼人観を持ってるから、屈折した見方かも知れないが・・・

この年8/30に東宝で大森健次郎監督・新藤兼人脚本のパニック映画『地震列島』が封切られ、それをコマ東宝で9/7に見た僕は、アッと思ったのだった。
某系のストーリーだが、教育ママならぬ教育グランマを憎む少年が出てくる。

「冬の少年たち」は、自分が中学時代から書いて来た身の回りの少年像だけでは、映画としては物足りないだろうと思い、朝日新聞ルポライター・本多勝一著「子供たちの復讐」を参考に、そこに取材されている「祖母殺し少年自殺事件」の高校生が中学生であった時の事を創作して、彼を主人公にして構成し直したのであった。

1979 年1月、教育グランマであった祖母を刃物で刺し殺して投身自殺した少年の「無教養な一般大衆を一瞬でも二瞬でも不愉快にするために事件を起こした」と書かれた偽悪的な遺書は、大手新聞社に送られ、世間に大きなショックを与えた。
「子供たちの復讐」は、その遺書をほぼ全文掲載して、事件の分析を試みていた。

『地震列島』の少年も、明らかにこの少年をモデルとしている(小学生にしている)のが、つい1週間前に「冬の少年たち」を書き上げた僕には良く分かった。
他の客には、分からないかも知れない。そして、『地震列島』という映画には、この話は関係ない。パニック映画に、何故、この少年が出て来たのか、意味のある構成になっていない。

新藤さんは、家庭内暴力を描いた『絞殺』を前年の79年に発表している。
これも77年に実際に起きた開成高校生殺人事件(家庭内暴力を繰り返す息子を父親が絞殺した事件)を題材にしているが、成功作とは言い難い。
ただ、新藤さんのテーマが、家庭のような閉じた世界の人物の愛憎にあることは分かり、祖母殺し少年自殺事件も、新藤さんとしては触手を動かしていたはずだ。

新藤さんが、もし、祖母殺し少年自殺事件を題材に考えていた場合、というか、そうでなくても、自分と同じフィールドでのシナリオを目にしたら、「冬の少年たち」の評価がより厳しくなるであろう。

まさか、僕のものが新藤さんの構想よりも面白いから、これが発表されたら自分の構想が色褪せるから、こういうものは潰しておこうと思った、なんて、あり得ないが・・・そういう推理は面白いが、自分を過大評価し過ぎだろ。
この時は、そう思って諦めた。

自分のいたずらのために好きな女子を怪我させてしまい、彼女は期末テストを受けられなくなってしまった劣等生を、主人公の優等生は軽蔑しながらも彼をそそのかし、自分も失敗したので再度期末テストをやらせるために学校を放火しようと二人で夜中に忍び込むと、内申書操作を新校長に咎められ失恋もした教師が先に校長の火の不始末に見せかけて校長室に放火していたのを発見、炎上する校舎の中で、生徒と教師が追いかけ合い、バールを持って生徒を殺そうとする教師に消化器を投げつけ、教師が二階の非常階段から転落して焼死する。逃げ去る二人。
母校が燃え盛るのを知って集まって来た生徒たちは、燃える校舎を見て興奮して「も〜えろよもえろ〜よ」と、キャンプファイヤーのように歌う。
そして、一年後に鉄筋となった校舎の屋上から、祖母を殺した優等生の少年が飛び降りて自殺する・・・それが「冬の少年たち」の新たに直したラストだった。

受賞作は小林伸男(後の祖父江一郎)「一の倉沢」で立派な作品、準入選は浅尾政行「とりたての輝き」で、これは映画化されたが、両作ともちょっと地味な印象だった。

僕のものは、多少荒っぽい作りになってるが、もし城戸賞獲れたら、賛否両論のセンセーションだったろうな。

まあ、審査の詳細は分からないし、教育問題に敏感な佐藤忠男さんだけが支持したのかも知れないし・・・

と、当時は思っていたのだが・・・

それから25年経ち、僕も審査員をやることになった2005年の第32回城戸賞の審査会で、賛成多数で大山淳子「三日月夜話」を選び、一段落して雑談になって、
「僕も昔、助監督の時に、城戸賞の最終審査まで行ったんですが、新藤兼人さんに反対されたらしいんですよぉ(笑)」
と言った時、
東宝・松岡功会長が遠い目をされ、
「昔、確かにそういうことありましたな。みんながこれがいいと言うてるのに、新藤さんだけがダメだと反対したことが・・・何故なんでしょうなぁ、とみんな話してましたわ」
え・・
新藤さんだけ?
みんな、これがいいって、「冬の少年たち」のことだよね・・・
みんながいいって言ってたの?佐藤忠男さんだけじゃなくて。樋口所長も?
え・・みんな、でしたか・・・

う〜む・・・
・・・やられたのか?・・・僕の空想は・・・もしかして・・・

65歳になって分かる。
24歳の才能に嫉妬する気持ちが・・・

新藤さんのことを言ってるわけではありませ〜ん、娘のことで〜す。

(いろいろめんどーなんで、今回は無料にしまーす)


  


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