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ロマンポルノ無能助監督日記・第25回[フラッシュバック✨押井守さんとの出会い⭐️パラオエロビデオの顛末⭐️うる星やつら]

今回は超過去の回想から入りマス・・・(Netflixの海外ドラマ形式で)

三鷹高校の3年間では毎年1本、文化祭で発表する8ミリ映画を作っていたので、学芸大に入ったらスグ「俺は絶対に映画研究会に入って映画を作るぞ」と力んでいたのだが、オリエンテーションでは紹介も無く、冊子にも載ってない。当然勧誘もされないし、映研てあるのか?と探したら、あった。
「サークル長屋」というボロボロの建物(戦時中は陸軍練兵場の兵舎だったらしい)の窓にペンキで「映像芸術研究会」と書かれてある。
が、毎日そこに通っても、いつも鍵がかかっているので、しびれを切らして遂に学生自治会の人に聞いたら、
「ああ、あそこは、押井さんという人が鍵を持っているんだよ」
と言う。
「押井さんに電話しとくから、明日の3時に、前で待っていて」
と言われて、翌日サークル長屋の前で待っていると、それらしい背の低いズングリした人が遠くからトコトコ歩いて来て、人懐こい笑顔で、
「新入生の金子君だっけ。入部したいの?(笑)いいの、ここで。とりあえず、中に入れば」
と言って、窓の南京錠を開けて、窓から入った。中もボロボロでかび臭い。
二部屋に分かれていて、黒カーテンの向こう側は、映写が出来る窓無しの部屋。
「部員は、俺と河村という男の二人しかいないんだよ」
美術科5年生の押井守さんとの出会い・・・1974年の4月末か5月アタマのことだ。47年前の超過去だ。
部室で1時間か2時間喋って、大学西門の向かいにある喫茶店に入ると、少しして、その河村さんが現れ、
「よぉ、押井、ブニュエル見たぜ」
と言った。
このコトバは結構、カルチャーショック。
当時公開されたルイス・ブニュエル監督『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』のことだが、それを何?え?ブニュエル見たぜ?、ってなんかカッコいい言い方、これが“映画青年”てやつか。
その日以来、部員三人だけの映研活動=「映画について喋り倒す」だけの日々が始まる。
良く喋ったよな・・・「どうして映画の話しかしないの?」と押井さんから言われたこともあったな。それしか興味が無かったからか。いや、女の子にも当然興味あったが、42人のクラスで男子は3人だけで、1人やめたんで2人になってしまって、39人の女子たちにはヘキエキしていたかも知れない。いや、スイマセンみんないい人で、4年後には殆ど教師になっていったんですけど・・・
ある日、午後が休講になったのでATGの新宿文化で『ブルジョワジーの秘かな愉み』をやっと見て、翌日映研の部室に急いで行って、荒い息で「押井さん、ブニュエル見ましたよ!」と言ったのだった。18歳。
「なんなんですか、あれ、けっこう難解な映画ですよね」
「単純な映画だよ。ブルジョワをバカにしているだけで」
「そうなんすか」
「宗教とブルジョワをバカにしているだけで、だから面白い。笑えたろ」
「笑えませんでしたが・・・」

・・・て、延々と書いて行くと、書くこと多過ぎて戻れなくなっちゃうが・・・これはシナリオでは禁じられる「回想の回想シーン」なわけだが・・・

押井さん河村さんは、その後2年間在学して深くお付き合いした。
僕が1、2年の時に、二人は5、6年生で、河村さんは卒業して教師になり、押井さんは就職出来ず、フリーでラジオの演出助手になった。理由はいろいろ・・
文部省年齢的には4歳年上だ。
僕にとって、この4歳年上の先輩というのが、那須さんはじめ、何故か多く、影響を受けた。
「団塊の世代」のどん尻に控える人たち、と言うべきか。

この出会いから7年後、日活助監督になっている僕は、アニメディレクターになっている押井さんからTVアニメ「うる星やつら」脚本の話をふられながらも「まだ正式決定ではない」と言われていて、作業が何も始まらないうちに、日活撮影所の制作調整デスク主任・松崎恒夫氏から言われていた“バリ島ロケ・エロビデオ”の話は徐々に進行していった・・・と、本来の1981年に話を戻す。

松崎氏は、スタッフをそれぞれの組に配置する管理責任者だから、次に入るロマンポルノのセカンドに金子を欲しいと誰かが言っても、「今、別な仕事をさせているから就かせられない」と言えば良くて、助監督の“奴隷労働”しなくても良い状態で給料もらえてるのだから、なんか得した気分になっている。

このまま助監督に戻らないで、時間の余裕も出来れば、アニメのシナリオもいっぱい書いて稼げるぞ。(甘い考えだったが)(12月には脚本を書いた『聖子の太股』のセカンドに戻される)
松崎氏も4歳上だったかな。
松崎氏からすれば、現場での金子を見たことは無いから、どれだけ無能なのかは知らないが、城戸賞の最終に残ったくらいだから何かしら才能あるんだろうし、頼み易い感じであっただろう。

もし、この仕事をやっていなかったら、小原宏裕監督『ANO ANO女子大生の基礎知識』とか、トンさんの『色情海女ふんどし祭り』とか、東陽一監督・高橋恵子主演『ラブレター』とか、或いは労働組合が作った神山征二郎監督・風間杜夫主演『日本フィルハーモニー物語・炎の第五楽章』なんかに就かせられたかも知れない。この時期に撮影している。

ロマンポルノの興業収入は、アダルトビデオが商売になって来ているのと反比例して、右肩下がりにどんどん減少している。
ビデオの方が、エロが生々しい。
しかし、撮影所は、角川映画やホリ企画やTVの2時間などが次々入って来て、レンタルスタジオとしては盛況で、この頃は、東宝や東映から来た人が「日活がいちばん活気がある」と言っていた。
それは、日活映画の活気じゃなくて、外部映画が沢山入って来ていたから活気があったのだが、そう言われれば、ちょっと嬉しかった。
日本映画の中心にいるような気がしていた井の中の蛙。
食堂の昼は、いつも満員だし、有名俳優はウロウロしてるし・・・
たまに『ラブレター』が大ヒットすると、会社はこのままでもいけるだろうとなって、ロマンポルノは、更に数年(このあと7年もか)生きながらえるのであった。

しかし、松崎氏は「映画はもう終わりだ」と言っている・・・

撮影所自体には、本社に上納しなくて良い資金がダブついていて、使わないと税金取られるだけ、というのが、このバリ島エロビデオ企画の発端なのではなかったろうか。本社の人間は、全く絡んでいない。
若松常務が、〇〇円使ってエロビデオ作れ、と松崎氏に言ったに違いない。
それが2千万なのか3千万なのかそれ以上なのか、僕には見当つかない。

バリ島の話は消えたり復活したりして、結局はパラオ諸島で撮影という事になったが、松崎氏は音楽としては先頭を走ってる感じのアルファレコードと話をつけたらしく、ラジオ番組の「スネークマンショー」をプロデュースした桑原茂一さんの代々木上原の邸宅に、二人で行った。(5/23 )

松崎氏としては、最新の音楽に合わせて、南の島でハダカ女が踊るイメージビデオを作りたくて、僕に2本、自分は1本、30分のものを作らせる、ということで進み、ハダカになれるコのオーディションを日活撮影所でしたら、桑原さんも見に来て、「あれじゃ女の子の良さは分からない」とご機嫌が悪かった。(6/1)

僕は、彼女たちが踊るための音楽テープのアタマ出しと、“芝居の受け”をしただけだったので、そう言われてもな・・と思ったが、平田めぐみというコが一番可愛かったので決まった。(当時の平凡パンチの表紙で名前はネット確認出来るが、写真は見つからない)

もう一人は写真集を出している山口ひろみというグラビアアイドルで、あとの一人は思い出せない。
ヌードはいいが、ポルノのようなリアルな絡みはしたくない、という女子たちである。
ダイアリーには記録してないが、松崎氏と原宿に行って、竹下通りでスカウトをやったのを、いま思い出した。
声かけられて満更でもない顔で清楚な雰囲気の少女が、日活の名刺を出すと、気持ちがスーッと引いてゆくのが目に見えた。

桑原さんは、二度と現れなかったが、音楽はアルファレコード所属のサンディーというアーチストに決定し、そのアルバムを聴いて、ストーリーのイメージを膨らませようとした・・・が、いっこうに膨らまない。

30分だとすると、大学生時代に最初に撮った8ミリと同じ長さだから、お手の物じゃないかと思ってみたが、南の島で、女子の裸があって、最新の音楽が使えて・・・というネタだけじゃ、何も沸かない、何を作っていいのかの分からない、それで結構焦っていた。
今までやってきたロマンポルノも何のヒントにもならない。

松崎氏は、「ストーリーなんか適当でいいんだよ、綺麗な映像でヌードを撮れば。動く写真集だよ、これは」とか言うが、30分はそれじゃ持たないだろう、というのが僕の直感で、1本はストーリー性のあるものをやらせてくれ、と頼んでいたんだが、そのストーリーが思い浮かばないので焦っていた。
こんなのサッサと考えて、会社に才能あるところを見せつけないと・・・という焦りだ。

だいたい学芸大学で最初に撮った8ミリ映画というのは・・・
(と、ここでまた回想の回想になる)(というのが今回の構成で)
コメディなんだが、そのネタは実際にあった話なのだ。

我ら映研の入っているサークル長屋の奥まった「東洋ナントカ研究会」という名前の部室に生活用品を持ち込み、本当に同棲していたカップルがいた。
これ、本当の話。
勿論、大学には秘密で暮らしていた。
確か、片方は既に卒業生で、教師になっていた。
自治会の一部の委員は、それを知っていながら、大学当局には知らせていない、という状態だった。知っている学生も極く一部で、噂はあまり広まっていない。
当時としては、それほどニュース性のある話題では無かった。国立大学だと、管理が甘く、そういうことがママあった。
この直後、「新大管法」という大学管理法が施行されて、「大学に寝泊りする」ようなことは出来なくなってくる。

また、我々映研の部室というのは、かつて、「映画研究会」だった時に、学生運動絡みで内部分裂があって、押井さんとは政治的な意味で対立していた一派が、合気道部に部室の一部を譲る約束をしていたらしい。
前述した映写室になっているところが、そこだった。
それで、入部した僕の最初の仕事というのは、この合気道部との交渉だった。

学内図書館の会議室で、自治会の委員をジャッジメントとして真ん中に座らせ、合気道部の二人と、僕と押井さんとが並んで交渉にあたった。

合気道部は、手書きの「覚書」のようなものを開陳して、映研内の試写室の部分は、自分たちに譲渡される約束になっている、と主張。
押井さんは、その約束をした部員たちは卒業してしまったし、連絡取れない、卒業する前に彼らは「映画研究会」を脱退して廃部となり、自分と河村さんとで「映像芸術研究会」を設立して自治会に申請して、部室使用の許諾を得ている、と主張し、自治会は、それを保管された文書で「事実確認」した。

僕は、彼らの覚書の不備を指摘して、「こんなものは幾らでも捏造出来る、本物だという証拠が無い」と言って相手を怒らせた。感情的にさせるのが狙いだった。相手は目頭を熱くして興奮して冷静さを失い、そこへ僕は、冷静に正論を組み立てて論破した。自治会は合気道部の主張を退けた。
彼らは最後は泣き落としになって「ぼくらには部室がない、15人は外で練習するしかないんですよ」と訴えたが、僕は冷たく拒否して、彼らは本当に泣いた。

「映像芸術研究会」は三人しか部員がいないのに、床面積的には最大の部室を公式的に得たのである・・・

押井さんからは「金子の“冷酷さ”を垣間見た」と言われた。

僕は高校では生徒会長もやっており、この頃、押井さんには秘密で代々木系全学連の記録映画『やつらを通すな2』を手伝っていたし、正論を押し進める論争は得意であった。

押井さんが反代々木系なのは明白だから、政治の話には触れないように映画の話ばかりしていた。
時々、話される内容から、押井さんはバリスト(バリケード&ストライキ)派であり、そちらから見るとこちらはミンコロ(民主青年同盟員)なので、「フォークダンスで革命が出来るか」と罵られていて、一番ソリが悪い者同士なのである。

それで、大学で最初に作った映画というのは・・・『キャンパスホーム』というタイトルで、テーマソングは荒井由美の「生まれた街で」を使った。
以上の経験にヒントを得た、部室で同棲している学生のラブコメだ。

映研の部室に家具を運び込み、棚を作ったり綺麗なカーテンを付けたりしてセットにした「分譲住宅研究会」が舞台。
ここには部員が山下(隣りのクラスの男)一人しかいないが、実は芝和美(押井さんの後輩の美人美術科生)と同棲していて、彼女は高校教師なので、毎日、学生の登校とは逆向きに出勤してゆく。
そこにユーミンの「生まれた街で」がかかるというファーストシーン。
(まだユーミンと呼んでる人は稀だった)

そこにメガネのトッぽい一年生の入部希望者が、「分譲住宅を研究したい」とやって来たので、焦った山下としては何とかして入部させまいとするが、一年生は和美さんに出会って一目惚れしてしまう。

サングラスの自治会委員長・金子は、山下の秘密を知っている。
「光熱費タダ、やり過ぎて寝坊しても遅刻しないって、お前らいいね〜」

だが、部室の無いカラテ研究会の三人組が、部員一人しかいないこの分譲住宅研究会を乗っ取ろうとやって来る。
「燃えよドラゴン」と着流ヤクザに影響を受けているカラテ研究会は、「任侠同好会」と名を改めて、分譲住宅研究会に討ち入りしようとする。だが、彼らはバカで、和美さんの色気に負ける。

そこへ学生課長の清水が、このサークル長屋ごと潰して、「迎賓館」を建てようと計画しているので、同棲スキャンダルが発覚したら、それを理由にされると金子委員長が、この課長を陥れようと計画し、任侠研究会もみんな入り乱れての学内自転車追跡劇となり、バッドフィンガーが流れ、金子の父・徳好さんが特別出演の学長で、清水課長を解任する。
秋に和美さんは妊娠し、二人は結婚の約束をするメデタシ。

8ミリは手元にはあるが、もう40年以上見ていないんで、記憶に頼ったプロットだが、こんな感じで自分では楽しいエンターテインメントになったと思えたが、11月の初の文化祭では不入であった。

それでも、早稲田大学の映研で「叛頭脳」という、一部で有名なサークルの人がたまたま見て、「これは面白い」と言ってくれたので貸し出し、早稲田で大受けだった、という話を聞いた。早稲田向きだったか。

押井さん、河村さんにも大受けだった。
二人から「アンタ、優秀じゃん」と言われて、得意になった。
「やめていった映研の連中とはレベルが違う」とか言われた。
押井さんからは「金子修介の性と政治という批評が書ける」と言われたが、それを本当に書いた訳では無い。そういう言い回しをする人で。

文化祭で上映直前になって、モデルにした同棲している男が「上映をやめて欲しい」と言って来たが、「そんな事言うなら逆にバラすぞ」と脅して上映を強行、その男も見に来て、苦笑いで帰って行った。

押井さんの映画は白黒16ミリで、「屋上」というのを覚えているが、男が“その街”にやって来て、ずっと屋上(大学の屋上でロケ)にいて、そこに机と椅子を置いて、食べたりタバコを吸ったりしていた。
ゴダールやブレッソン、吉田喜重の話を良く聞いた。

感心したのは、卒業制作で作られた15分の作品で、やはり白黒16ミリで、全編スチールで絵は動かず、鳥を飼っている女が、ある時鳥籠を開けて鳥を逃すと、その直後のカットでは、フレームの上からジェット戦闘機になって墜落してくる、というものだった。
武満徹の音楽と効果音だけで作られていた。カッコいいな、と思った。
 
僕が良く見る東宝や松竹の映画を、押井さんはバカにしていて、日活や東映の映画の話を良くして、『仁義なき戦い』と深作欣二、実録ヤクザ路線だけは話が合った。
「今回は中島貞夫が深作に勝ったよな」とか、「山口和彦は2番打者だよな」とか、「鈴木則文はホームランバッターではあるが、空振りが多い」とか・・・
山田洋次の話になると、喧嘩寸前まで行ってしまう・・・押井さんは寅さん否定派であった。
あの映研の部室で、日本だけでなく、世界中の巨匠たちをコキおろしたよなぁ・・・

と、遠い目になるが・・・

時制を1981年に戻して、パラオのビデオはちゃんとしたストーリーにならないまま、準備は進み、「セクシーマリンブルー」というタイトルで、絵コンテを描いた。

準備中に観た映画は、『泥の河』、『なんとなくクリスタル』、『ハウリング』、『エレファントマン』、『魔界転生』・・・

スタッフは東海テレビ・inf(インフ)のビデオスタッフで、僕の絵コンテを元に打ち合わせをするが、結構、首を傾げられた。

ロケハンもしていないで、どこで何を撮るのか、決められていない。
そういう意味では、助監督不在だ。スケジュールが分からない。
目の前の25歳の男を「監督」と呼んでいいものか、迷っている様子である。

6/25に日航ホテルに泊まって、翌早朝出発、コーディネーターとinfのカメラマン・樋田氏、松崎氏、僕の四人で、グアム島に行き、ドッグレースを見て、『カリギュラ』のノーカット版を見た。観光じゃん。

6/27パラオ着で、6/30までの4日間でロケハン。

7/1に俳優ら本体が到着して、撮影開始。
日々、決定的なスケジュールは出せず、日が落ちるまで、どれだけ撮れるのかを天空見て探りながら、晴れたり雨に降られたりしながら、7/8まで1週間、海辺やサンゴ礁や砂浜でヌードを撮影、7/9はホテルでブルーバック撮影をしている。

記憶は断片的だ。

平田めぐみが、モーターボートに乗って全裸で手を振っている姿、とか・・・
彼女は日焼けし過ぎてぶっ倒れて1日寝ていた。
制作部も、約1名、日焼けで倒れた。
僕も1日、熱を出してぶっ倒れている。

夜は、楽しくバーベキューで、ヤシガニを捕まえて焼き、これがとても美味かった。星が綺麗だったな〜

が、「夜、松崎に説教される。暗い気持ちになる」
というメモが書かれているが、何を説教されたのか忘れてしまった。
あんまり一所懸命やっているように見えなかったのか・・・
だって、映画じゃなくて、ビデオなんで、確かに「やる気」というのは、あまり出て来ないのよ。
現場で「監督」と呼ばれていたのどうかも覚えていない。

7/10に成田着、翌日、東海TVに収録したビデオテープを取りに行き、それを東洋現像所の品川ビデオセンターに運び込んで、編集用のテープに落としてもらう。
7/14に2分の1ビデオになった状態のラッシュを家で見たら、
「がっくりする」
と書いてある。
薄っぺらい映像であったのだ・・・そりゃ薄っぺらいですわ。
ただ、南の島で、ヌード女性が踊っているだけなので。

だが、翌7/15にはスタジオピエロに顔を出し、
“「うる星やつら」の仕事決まる”
と、書かれている。

有頂天であっていいはずが、
何故か7/18には・・・
「僕は時間の使い方を知らない。シナリオが書けない時は時間を持て余す。映画を見ていても『映画ばかり見ていてバカみたい』という冷ややかな声が背中でするし、要するに女が欲しい。飢えた精神状態である。社交も耐えられないし、孤独も耐えられない。僕はこれからどう生きたらいいのだろう。パラオに行っている時は、ただ単に『生きている』ことが充実した感じだったが、日本に帰って来てこの落差には参る。仕事がガンガンくればそう思わないのだろうが、しかし、仕事が多ければまたボヤくし、僕ってダメな男ね・・・」
と、書いているが、この感情は、ほとんど思い出せない。
こう書いたことも、いま見て思い出したくらいで・・・

そうだ、スタイリストが綺麗な人で、彼女からは「監督」と呼ばれていた。
ラストの日に打ち上げでダンスして、盛り上がった気がして、電話して・・・
冷たくされたかも知れない・・・う〜ん、記憶が・・・都合の悪いことは消してゆくのであろう。

この「セクシーマリンブルー」も、他の2本も、一部ホテルとかには売れたらしいが、商品化されないで、どうなったか分からない。
見られても、恥ずかしいかも知れない。監督クレジット、入れてたかな・・・

7月末は、このビデオを、日活芸術学院にある編集機材で編集しながら、「うる星やつら」の打ち合わせをして、脚本作業した。

スタジオピエロで、高田明美さんが描いたキャラクターデザインを見て、イメージを膨らませた。
こっちの方は、いくらでもイメージが膨らむ感じであった。

押井さんからは、「エピソードの最後に地球が爆発しても構わない、それでも次のエピソードでは平和なお茶の間から始まる、というのが『うる星』の世界観なんだよ」と言われた。
ナルホド。
凄い、自由だ。

押井さんは、映研でダラダラ批評ばかりしてる先輩の時と、姿形はあまり変わっていないが、喋っている内容は、テキパキと極めて分かりやすい指示であり、有能なディレクターになっていた。
そして、周りが着いてゆく感じが良く分かった。

後に「ガメラ」の脚本を依頼することになる伊藤和典さんは、この時脚本の制作で、締切間近になると、「いかがですか?」と電話して来た。
「なんとか、なりそうです」
とか答えていた。
書けた脚本は、バイクで小金井のスタジオピエロに運んだ。
伊藤さんは、実写の助監督もやったことがある、と、言っていた。
性に合わなかったらしい。

「うる星やつら」TV放送開始は81年10月14日で、僕の書いた第3話「宇宙ゆうびんテンちゃん到着」と第4話「つばめさんとペンギンさん」は、第2回放送の10月21日。

脚本は7/27にピエロに持って行き、ダメ出しされ、翌7/28にもう一度持って行き、そこで少し直して渡した。

考えてみると、大事な第二回目放送なんかに良く使ってもらえたもんだ、と思う。

更には、マンガに原作が無いオリジナルストーリーで、正月スペシャルの前後編「あたる源氏平安京へ行く」も任された。
これは8月の1週間で書き、82年1月6日にオンエアされている。

9/19では田町の大宴会場で、「うる星やつら打ち入りパーティ」に出席した。
豪華であった。日活では考えられない。
この時、初めて、フジテレビの落合茂一プロデューサーと挨拶。
「うる星は、2年も3年も続けていきたいんで、よろしくお願いしますね」
と愛想良く言われたが、後から押井さんに聞くと、
「落合さんは、金子を認めないって言ってるよ」
と言われたのだった。
何故か、は詳しく聞かなかった。

パーティでは、なんというか可愛らしいというか23歳の高橋留美子さんに会って、ちょっと話した。
ホントは日活の助監督やってるんです、って言ったかな〜

その日活の仕事はどうなってるんだよ、と思われるかと思うが、エロビデオ制作は、まだ続いており、池田敏春さんが夏木マリ主演で撮るというプロジェクトの脚本と助監督を兼任していたが、撮影2日目くらいで、話が違うと言って、夏木さんが降板して中止となった。

これ、多分、松崎氏の交渉ミスでは無いだろうか。
現場に入ったら、脱がしちゃおうと甘く考えていたのではなかろうか。
随分、金使ったと思うけれど・・・ここで、書いておかないと、金輪際、誰も書かないで消えてゆく話であろうと思って書いたが、どこかで映像が見つかることなんて、あるのだろうか・・・

つくづく、映画(TVもアニメも)は完成して公開していないと、何ものでもないのだな、と思います。化石になっても、化石でもあれば、歴史の過程は辿れるのだな・・・

....to be continued

(チャリンの方には正月サービスの2020,2021年賀状を)

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