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ロマンポルノ無能助監督日記・第12回[長谷部安春監督『暴る!』と予告編事件1年後に

西村昭五郎組『蝶の骨』の後、日活入社5本目に就いた助監督作品は、長谷部安春監督『暴る!』であった。
これは、「やる」と読ませる。
台本を貰った時には、「あばる」?と読んだ。
誰も「やる」なんて読めん。

チーフは、『情事の方程式』で監督デビューしたばかりの根岸吉太郎さんで、台本を手にして「こりゃ、ぼうる、だよ、ぼうる」と笑っていた。
ロマンポルノのタイトルは、企画部が必死で考えるが、現場に降りて来ると、だいたい笑いのネタになっていた。

この時、根岸さんの会社的な身分は、「助監督」であった。
監督になったのに、また助監督やらないといけないの?と思ったが、日活の慣例として、監督になっても、一本か二本は助監督をやらせて、翌年に「契約監督」になるか、「社員助監督」のままでいるかを選択させていた。

「社員助監督」身分のまま監督を3本やったら「契約監督」に“成れる”という慣習が、ロマンポルノ以前から続いていたらしいが、この時は、もうそれは崩れて、(確かめてはいないが)根岸さんは、すぐに契約監督になったのではないか。
現場では、監督の根岸さんより、チーフの根岸さんの方が怖かったが・・・

僕の時は更に崩れ、84年にデビューで1年で3本監督して、チーフ助監督には2本就き、翌85年に『みんなあげちゃう♡』を一本監督したらフリー、つまりは、クビ。・・・クビじゃないか、卒業か。
だが、この時はもう「契約監督」という“枠”がなくなって、辞表を書かされたのだ。会社的には合理化だ。退職金70万。
三鷹の職安に行って失業保険をもらった。

監督に“成りたい”がために入社して、助監督の仕事をし続け、7年後に監督にやっと“成れた”と思ったら、それはイコール「仕事を続けてもいいけど会社は保障しないので自由にやって下さい」という意味だった、とは、22歳の新入社員には予想出来ることでは無い・・・

だが、最初の月から給料遅配で、会社はガタガタというのは分かっていたから、常に早く監督に“成りたい”気持ちで、“焦り”が生じていたのであろう。
こっちが監督になるのが先か、会社が潰れるのが先か、みたいな・・・
・・・会社への「愛」なんて芽生える暇がありません・・・

幸い、フリーになった1ヶ月後に、TVの「月曜ドラマランド」の話が円谷プロダクションから来たので、失業保険は1ヶ月ぶんしか貰わなかった。
那須博之さんが断った話を、僕にまわしてくれたのだが、それは、まだ未来(7年後)の話。
以来35年フリー人生の悲哀が、65歳になって骨身に染みてきた。

『暴る!』のセカンドは、助監督試験の時の試験官だった東大卒の鈴木潤一さんで、今度こそ予告編を作りたい希望を言ったら、あっさり、どうぞやって頂戴、と言われた。
そう言えば白石さんも東大卒だったのを書き忘れていたが、こっちの東大は、クールなタイプで対称的、“予告編で目立って早めに監督昇進”みたいな計算は、していないと思えた。
労働組合の執行委員か何かをやられていたような記憶が・・・
この会社は、組合の委員長が副社長、もうすぐ社長ということで、組合活動も、一方の出世コースになっているようだ。

『暴る!』は八城夏子主演。
この人の『女子大生ひと夏の経験』は、三鷹文化のロマンポルノ3本立て学生料金500円で見ていた。
小麦色の肌でサーファーぽい、というか、まさに、こういう女子大生と、エッチなことしてみたい、と思わせる感じの女優さんで、本人は極めてさっぱりした性格で、明るく、胸も大きく形良かった。

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撮影は9/10~9/28 のうちの11日間。カメラは前田米造さん。
完成は10/12。
11/18に近藤幸彦監督『トルコ110番・悶絶くらげ』と同時上映。
これは荒井晴彦脚本で、もともと根岸さんが撮る予定だった、という噂を聞いたが、真相は知りません。

ストーリーは、OLの八城夏子が休日の一人ドライブで富士五湖辺りに出かけ、出会う奴、出会う奴、全員から強姦され、逃げ込んだ診療所の医者も、助けを求めた地方の警察も、みんな彼女を強姦する、という話。

良く言えば、不条理アクションドラマ、でしょうか・・・スピルバーグの『激突!』が、発想の背景にはあったのでは。
脚本は、長谷部監督と桂千穂さんの共同。

長谷部さんは、“最高にカッコいい監督”として、スタッフからは敬愛されていて、厳しさもあった。
「ベーさん」という愛称があるが、ちょっと僕にはそう、呼べません・・・

ポルノシーンをセットで撮る時は、照れに照れて、ヨーイスタートをかけた後は、目をそらして時計を見たりして貧乏ゆすりして、記録さんに「何秒?」とか聞いて、カットをかけた。
ロケーションに出ると、人が変わったように、ガンガンと脇目もふらずに進行してゆく。

車の走りや、アクションシーンは、目の色を変えて「ボヤボヤすんな〜!」とか、良く通る声で怒鳴られたから、身が引き締まる。

決して嫌な気持ちにはならず、スポーツでコーチから叱咤されている感じだ。
「べーさんは、ロケーション中毒だよ」と言った人もいた。

ポルノシーンで、医者役の八代康二さんが、八城夏子をペロペロと舐め回すと、長谷部さんは頭を抱えて「ブルーフィルムじゃねえんだってば」と呟いた。

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早稲田卒から脚本家の松浦健郎に師事して、アクション映画時代の日活助監督となり、34歳で小林旭主演のスパイアクション『俺にさわるとあぶないぜ』で監督デビュー、梶芽衣子の『野良猫ロック』シリーズ、東映の『女囚さそり』などを経て、テレビでも活躍、ロマンポルノになってからの日活では、76年『犯す!』や『暴行切り裂きジャック』が有名だ。
『暴る!』の時は、46歳の働き盛り。

随分、叱られたな〜

ガソリンスタンドのシーンで、八城夏子が財布を出そうとすると持って無い、と分かった瞬間、根岸さんに「金子ぉ」と言われて睨まれ、長谷部監督が「こういうことは先にやっとくもんだ、君は毎回そうじゃないか」

診療所のセットで、突然タバコがいることになったので、傍にいた巨匠の照明技師・熊谷秀夫さんに「ライターありませんか」と聞いてしまい、長谷部監督は「カメラ前でそんなことを聞くやつがあるか、バカっ!、探しに行くんだよッ!」
熊谷さんの呆れたような顔が忘れられない。結局、貸してくれたんだっけ・・・「エキストラの動きのことで、熊谷さんから白い目で見られた」とだけ、ビジネスダイアリーに書いてあるが・・・それは、よく覚えていない。

山中ロケで、道路に車を停車したまま昼食となり、食べ終わったら車は移動していて位置が分からなくなってしまい慌て、長谷部監督は「こういうことは、助監督がやっておくもんなんだ、マークしておくとか、フツーはな!」と言った。
「フツーはな!」という声の響きで、重い責任をグサ!と感じた。

調布の居酒屋「ふなやど」での打ち上げの時、八城夏子は長谷部監督に甘えているように見えて、いつもより子供っぽくなり、ご機嫌だった。
帰り際に、耳打ちされた。
「監督がぁ、あの子(ぼく)が一番可愛い、って言ってたよ」ニコッ♡
じ〜ん・・・

という現場であったが、映像のテンポは良く、予告編も繋ぎやすかった。

若き本田博太郎さんも出ていて、重油にまみれて夏子と絡むので、迫力が出た。

最後には、警察が銃を構えるので、そういう絵も、緊張感を高める。

ラストは夏子の車を追いかける警察車を、ブレーキの操作で崖から落とす、という定番的な終わり方であったが、これはNG出してはいけないカットなので、OKのみで、予告編には使えない。

でも、実は、かなり、白石さんが『蝶の骨』で見せてくれた編集テクニックを真似ていた。無意識に意識していたのだった。
こういうカットの次は、こういうカットを繋ぐとテンポが出る、という手本が脳内にあった。
そういう意味で、白石さんには、多くを教わったことになる。
・・・好きにはならなかったけど・・・

予告のオールラッシュも評判良かった。
見たあと、機嫌良さそうな長谷部監督が言った。
「ねえ、金子くーん、最後の『日活ロマンポルノ』ってスーパーが入るカットだけど、あれと俺の名前のカット、入れ替えてくれないかな?」
「はい!」
つまり、その方が、“監督 長谷部安春”がカッコ良く感じる繋ぎとなるのだ、ということはすぐに分かった。
こうして、金子は結構、予告が上手い、という評判は立っていった。・・と思う。

長谷部監督とは、数年後にTVドラマ「プロハンター」の応援で、また二日だけ現場に行った時には、相変わらずテキパキと撮影を進めていらした。
その後は、『あぶない刑事』の原案に関わったり、メイン監督を引き受けたりして活躍された。
映画の“虚構性”に拘った監督だったので、僕の映画とも共通の要素が多くある・・・もっとお話出来れば良かったと、今にして思う。

助監督では僕の10年先輩にあたる黒沢直輔さんが、長谷部さんがいかにカッコいいか、というのを話したのが印象に残っている。

テレビから映画(ロマンポルノ)に復帰した現場に、黒沢さんは助監督で就いていて、その時のロケーションで、長谷部さんはアングルファインダーを覗きながら、
「おおお! ワイドはいいなーッ!」
と叫んだ、と言う。
黒沢さんは、その姿を見て、俺はシビれたよ、と、凄く嬉しそうに言っていたのだった。
黒沢さんは、鈴木清順の弟子筋にあたるが、長谷部さんのアクション映画のファンでもあったのであろう、テレビから映画への復帰を喜んでいたのだった。
そんな感じでベーさんは愛された。・・・って、やっと呼べた。

白石さんとも、酒を飲んだりの仲にはならなかったが、その後も1、2本、一緒に仕事になった時には、普通に付き合っていられた。

ちょっとタイムワープして翌年79年3月撮影の小原宏裕監督『桃尻娘ラブ・アタック』の時のことである・・・

セカンド白石、サード金子だったが、チーフ浅田真男さん=アサやんが、僕が言うのも何だが、優しい人だがちょっとヌルい面があった。
竹田かほり・亜湖が売れっ子になっていたこともあり、高校文化祭の話なので若い出演者も多く、スケジュール的にも、かなり逼迫した状況で撮られていた。
何日かの混乱の後、“チーフ・アサやんの判断力のキャパシティを越えている”とみた白石さんが、勝手に、というかアサやんを見ていられずというか、チーフを差し置いて、先に、連日の日々スケジュールを書いてしまい、各パートに連絡した後、アサやんがそれを追認したスケジュールを出す、というような進行になってしまった。
数日は、その方がスムーズに運んだが、二つの日々スケに矛盾する情報があったりして、更に現場が混乱する事態となった。

撮影が終わって、アサやんが「白石、メシ行こうよ」と言ってるのに、白石さんは「俺はいい」といいながら、スケジュールを書いている姿を覚えている。

アサやんと僕とでメシに行ったが、別に白石さんの悪口は出なかった。
白石さんは、現場中毒だ。
アサやんの判断力では現場が回らないと思っている白石さんは、“先輩を立てる”とかは必要無い、自分の判断の方が正しいし早い、と“現場の論理”から駆り立てられるように、邁進しているのだろう。
あいつも、仕事熱心だなぁ、と言ってビールを飲むアサやんは、監督昇進は諦めている人だった。

更にタイムワープするが、その夏、別な“白石予告編事件”が発生する。

79年8月公開の一般映画・曽根中生監督『ワニ分署』の予告編を、白石さんが応援で担当することになった。
作品には那須さんがセカンドで就いていたが、曽根組の撮影は大変で、現場に就いた状態では「予告まで、手が回らないぜ」と言って、那須さんは予告作りを辞退した。
一般映画なので、予告編用の予算もあり、本編撮影開始前から予告用の画を撮れる。というか、撮らないと、公開に間に合わない。早めに予告は打ちたい。

その時は組付きになっていない状態の白石さんが、予告を回すということになって、主演の横山エミー(後に近鉄・井本隆投手と結婚して離婚した)を連れて、旧・銀座オープンセットで何カットか撮影した。

この旧・銀座オープンセットは、日活撮影所の敷地内にあって、裕次郎時代は華やかにリアルにセッティングされ、『銀座の恋の物語』なども撮られたらしいが、僕が入社する以前に火事になった。
入社した時には「瓦礫の山」とまでにはいかないが、「大地震の後の銀座」くらいの荒地になっていて、建て直す財力も無かったのであろうが、そういうシチュエーションでの撮影では重宝されていたものだ。

ところが、この時既に、この土地はライオンズマンションに売却することが決まっており、白石さんが撮影をしたのは、まだ、工事も何も始まっていない状態だったが、契約違反となったらしく、日活とライオンズマンションのトラブルに発展した様子で、もう、基礎工事くらいは、始まっていたのか・・・?
このことが、撮影所で問題となり、責任者として白石さんの名前があがった。

責任の取り方としては、「助監督を辞めて、もとの本社営業に戻れ」という辞令を受けよ、というものだった。
予告公開後、随分経っての11月26日に、助監督部会が開かれ、全助監督が集められ、撮影所長、労組委員長らが出席して、説明があり、それで、以上の事実経過が伝えられて、僕はこの事件自体を知ったのだった。

助監督側は、それは、どこで、どういう理屈でそんな責任が発生するのか、仕事としてやっていることなんだから、責任は会社が取るもので、これは懲罰人事ではないかと、斉藤信幸さんら、旧・活動家の論客は食い下がった。
黒沢直輔さんも、個人に責任を押し付けようとする会社に怒っていた。
みんな、白石さんを擁護し、白石さんは無言だった。

問題のディテールは思い出せない・・・既に立ち入り禁止となっているのを知っていて、止められたのに、撮影を強行した、ということだったのか・・・
それにしても、それで助監督を辞めなければならない、という理屈には納得出来ない。
白石さんが、個人的に好きでなかったとしても、それで仕事を辞めさせられる、というのはあまりにおかしいと思い、僕も辞令には反対したが、発言まではしなかった。
ただ、会社側は、会社を辞めさせるのでは無く、もともとの本社営業部署に配置転換する、ということだから、労働組合的に問題は無いという理屈を言っている。撮影所のスタッフではなくなってしまうのに。

僕は、この日、大学来のカノジョと別れ・・・大手町でサヨナラしてから、調布の日活撮影所に来ていたので、かなりボーっとしていたと思う。

ボーっとした頭で、日活の労働組合のあり方に、疑問を感じていた。

入社当時は、伝説の日活労組に入り、多少の興奮はあった。
父親も、労働組合関係の仕事をしていたし、本来の労働組合というもののあり方に、理想を持っていたとも言える。
“社会改革の拠点”である、という・・・

伝説とは、旧日活映画が立ち行かなくなり、経営者が撮影所を売却してしまったのを、労働組合自身が買い戻して全スタッフを守った、という逸話とか、助監督を定期採用して、「作家を養成する」=新人監督をどんどん出す、というのも労組の方針であると聞いていた。それはいいんじゃないの、と思っていた。

撮影現場でも、スタッフ委員長とチーフ助監督の話し合いで、過重労働にならないように、深夜終了の時は翌日の開始時間を遅くしたりしているのも、労働組合の方針からだ。

だが、ある時、組合のビラ=機関紙が配られて、手にすると、「経営健全化闘争」という見出しを見て「?」となった。
「?」というか、これはギャグか、と思って笑ったくらいだった。
不健全な経営とは赤字、健全な経営とは黒字、のことだろ・・・

「経営健全化」とは、「会社が儲かる」という意味で、労働者側の利益を代表する組合が、会社に対するスローガンとして「闘争」と名付けたら、ギャグになるんじゃないか、これは・・・と。

この「闘争」の名のもとに、いろんなものがカットされた。
残業料とか、ロケ手当とか、かつては労働組合の先輩たちが、経営者たちから獲得した権利であったろう。そういうものが、次々減っていったが、不満を吸い上げてくれるはずの組合が、聞いてくれない。

早い話が、組合と会社は、もはや一体となっていたのだ。
単純に言えば、「労働組合による合理化」が進んでいたのである。

合理化の最大の獲物は人件費だ。
この時は気づかなかったが、白石さんは・・・ 

疑問を多少は感じつつも、執行委員の人たちは、かつて見た「組合映画」に出てくるような良い人に思えたので、撮影所内のプレハブの組合本部には、時々出入りしていた。
組合は『走れトマト』などの、児童映画も作っていたし、ロマンポルノとは違う形での監督デビューもあり得るかな、と思ってもいた。

この会社の権力構造的に、労働組合とは敵対しない方が得だ、ということも分かっていた。
白石さんは、その性格から、結構、組合とぶつかっていたようだ。
「映画の現場の論理」は、「労働の論理」からすると不条理だから。
優秀な助監督は、スタッフをバシバシ働かせるだろう。

12月になって、組合の本部に呼ばれた。
後に撮影所長に成り上がる撮影所労組委員長・若松正雄さんと、もう一人、助監督の山口友三先輩がいた。
・・・「成り上がる」という言い方は変か。
若松さんは、美術デザイナー出身で、茨城弁のオヤジで、カラオケ好きで、撮影所長の次は、カラオケのシダックスに転身して映画界から綺麗さっぱりいなくなったが、僕が監督になった時期の所長であるから、「お世話になった方」とも言える。

鈴木潤一さんが、執行委員をやめるから(だったと思うが)、「金子、執行委員やらないか」という話であった。

それは雑事が増えるので面倒だが、もしかしたら、この会社の出世コースへの道?と思いつつ、でも、「助監督としては使えないから、組合に活路を見出そうとするタイプ」とでも思われてるのか、とか、それはシャクだな、とか、目まぐるしく考えた。
また、父親が組合関係の活動家でもあり、その人脈との交流とかも期待されてるのかな、と思った。

しかし、今、白石さんの問題が決着ついていない状態で、助監督全員が反対しているのに組合が擁護していない、その組合の執行委員になるとはちょっと気持ちが悪い。
そう考えていると、自然に白石さんの話になり、若松さんは、白石は今回の問題だけでなく、あちこちでトラブルを起こしている、と言った。
そして・・・
「知ってるんですよ、予告編事件を」
と言うので、何のことか分からなかったが、え?、まさか・・・
「去年西村組で取られたでしょ、金子さん、白石に予告を。悔しかったでしょ」
と言うので、びっくりした。
ちょっと、ゾッとした。
知っているのは、編集の冨田さんとか、しか・・・あ、いや・・・
あいつだ・・・僕が言うのもなんだが、仕事が出来ないのに組合活動で、組合の方針をレコードのように繰り返している編集助手のA。あいつ、目立たないが、編集室まわりにウロウロしている。そりゃ編集助手だから当然だが。
この当時はまだ無い中国映画の、文革を批判したような作品に必ず出てくる地味〜な暗い密告者、それがAのイメージと重なる。
Aも白石さんに随分やられている。無能だから。
白石さんは、仕事が出来ないスタッフには攻撃的になる。現場中毒だから。
この会社=撮影所=労働組合は、団結を乱す存在を疎ましく思っている。
『ワニ分署』予告編事件は、きっかけに過ぎない。
若松委員長は、僕に、同意を求めているのか?
ええ、あの時は悔しかったです、僕から予告編の仕事を奪って・・・
と、言わせたいのか・・・世間話ふうに聞いて、証言を集めたいのか・・・
「あ、いえ・・・あの時は、僕が未熟で、白石さんには・・・いろいろと教わったんです。・・・とても、後輩の面倒見の・・いい先輩です」
と、ドキドキしながら言った。
2行だが、何分も喋っていたように時間が長かった。
若松さんは、逆を求めているとも考えられる。
いや、若松さんというより、自分の問題だ。
これが、「人を売る」という場面か!
人を売ったら、畜生道だぜ・・・白石さんは好きじゃない、でも、だからと言って、畜生の道に堕ちたくは無い、23かそこらで。

この後、那須さんにも相談して話した。
というか、那須さんにしか、話さなかった。
「ここはイタリアだよ」
と、那須さんは言った。
・・・当時の国際政治状況を知らないと、意味が分からないだろうが・・

そして、執行委員の話は断った。

12月25日、助監督部会で、白石さんは「辞表を出します。日活やめます」と言った。これ以上、皆さんに迷惑をかけたく無い、という・・・
黒沢さん、斉藤さんらは、「まだ助監督部として戦えるから」と慰留したが、もう決意は固いと見えて、この人がその決意を変える人だとは誰も思っていないから、あまり強い慰留にはならなかった。
僕も「自分からやめることはないと思いますけど」と言ったら、
「ネコちゃんが、いろいろ言ってくれたのは聞いたよ・・・どうもありがとう」
と、言われ、え?誰から、と思ったが、若松さんか、いや、ここには来てない山口友三さんかな、と思った。
いろいろも言ってないけど、友三さんが、誇張して伝えたのかも知れない。
正面から「どうもありがとう」と言われ、初めて、この人、好きな部類の人だな、と感じたと思うが・・・
この後、忘年会で会ったきり、会っていない。

26日には組合の忘年会に、執行委員を断るために行ったが、若松さんの隣で飲む流れになって、みんな知っていることだが、彼が経営陣に加わるというのを、言いたくてたまらない様子で、ここだけの話だけどね、みたいな事を上機嫌に話していた。

10・26事件と言っても、日本人にはピンと来ないが、79年の10月26日に、韓国・朴正熈大統領が側近に暗殺される事件があり、自分はその側近みたいなもんだ、根本悌二を暗殺に行くんじゃワハハ!という感じであった。
・・・良く、意味が分からない・・・

白石さんは、フリーの助監督となった。
一度、大森一樹監督『風の歌を聴け』のルポルタージュ番組で、元気な姿で張り切って現場を回している姿を見た。
『ヒポクラテスたち』や、池田敏春監督『人魚伝説』もチーフをやっている。

大森さんから、かなり以前に白石さんが亡くなったことを聞いたと思うが、これを書くために確認すればいいのだろうが、そういう気になれない・・・


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