ロマンポルノ無能助監督日記・第2回[助監督試験に合格して自慢しまくった]

調布の日活撮影所。

広い、明るい、助監督試験面接会場。

片手には大きな映写機を持ち、もう一方の手には、直径7.5cmの8ミリフィルムを持って、面接官の前に突っ立っている・・・

3分間の『変身』はもちろん、カフカの「ある朝目が覚めたら毒虫になっていた」のパロディーだ。

出演者は二人。

一人は高橋朋子・・・三鷹高校3年の時、受験勉強しながら作った30分の失恋映画『水色の日射し』のヒロインで、1学年下の演劇部員。

“ハーミア”と呼ばれ、色白で甘えん坊、愛らしい顔立ちでスタイルも良く(つまり胸が大きく)芝居が上手い。

その彼女と、もう一人は僕。

この時、彼女はどこの大学生になっていたのか?
久しぶりに電話して頼んで、出てもらった。

普段でも、肩をすくめたり、小首を傾げたり、本能的に女の子っぽいアピール仕草を嫌味なく、する。
色っぽい美少女だったハーミア、どうしてるだろう。
アフレコの日以来、会って無い。

学芸大映研の後輩部員のアパートを借りて半日撮影した。

黒バックに白タイトル「変身」がフェードイン。

カーテンが閉まっているアパートの窓に、朝日が漏れている。

そこに目が覚めた男のパジャマを着たハーミアが、大アクビしながら、むっくり起き上がる。

男のナレーションで・・・(学芸大演劇研究会のゴツい声の奴に頼んだ)
「朝起きたら、いつも立っているものが立っていなかった」

に合わせて下半身を見て、パジャマをの中をのぞくハーミア。

「立っていないどころか、それは無かった!」

エエー!!、となるハーミア。

泣きながら黒電話で電話する。
「おれ、女になっちゃったんだよ、助けてくれよ〜」

アパートに現れる金子修介(22歳)
「お前、本当にシゲルか?」

泣きながらうなづくハーミア。

「気をしっかり持て、俺がついてる」と金子。

ハーミア、泣きながら金子に抱きつく。
「ありがとう、やっぱりお前は親友だよ」

よしよしと、ハーミアを撫でてやる金子。
「ところでシゲル、俺からも頼みがある」

「なんだよ、なんでも言ってくれ」と目をうるませるハーミアに、

「俺は、その・・実はまだ、女というものを知らないんだ」        

「えっ、そうだったのか」 

「シゲル、親友のよしみで、イッパツやらせてくれないか」

「・・・わかった」と、微笑むハーミア。

「ありがとう」
と、真剣な金子。

二人、画面の下にフレームアウト。

その夕方、国分寺の公園でロケ。

スローモーション。
木々を見ながら、幸福そうに歩いてくるハーミアはロングスカート。
(急にミニ穿かせたら、おかしいだろうと思って)

甘いメロディにナレーション・・

「おれは、女のよろこびに目覚めた。男よりずっと気持ちいい。これから女として生きてゆくことに決めた。いい友達を持って、おれは幸せだ」

・・・という3分間を、上映する環境では無い、ここは明る過ぎる。

暗幕ないのかよ・・・

焦った。
慌てて、ストーリーだけを喋った。
上手く説明出来たろうか・・・

田中登監督が「それは何カット?」
と聞いて来られた。

「30カットです」

「君は、どういうものを撮りたいの?」

「日本の現実を撮りたいです」

・・・その映画で?(^ - ^)
(笑ってるのは今の自分)(22歳は真剣)

この“日本の現実”というフレーズは、高校の文芸同好会の研究発表で夏目漱石をやった時に、江藤淳が漱石を「常に日本の現実を描いている」と評論していた文に感心して、以降なんでもかんでも「日本の現実」と言えばいいと思っていたフシがある。

いや、本当にそう思っていたんだが、それがなんで「変身」なのか聞かれたら、答えられなかったろう。

この頃のバイブル『仁義なき戦い』も日本の現実を撮っている。
田中監督の『女教師』も。
というふうに思っていた。

画像1

田中監督は笑ってはいなかったが、他の重役たちは冷笑していた・・ように思えた・・いや、好意的に笑ってくれている、と思いたかった。

「上映しようと思って来たんですけど・・・ここでは無理のようです」
と言ったのは覚えている。

村上覚社長が「日活映画を批判してください」
と言ったが、何て答えたのかは忘れた。

田中登監督は、この後『人妻集団暴行致死事件』にサードで就いた時、
「おれが金子を推薦したんだ」と言ってくれた。

結城良照プロデューサーも、かなり後で、
「金子は圧倒的に目立ってた」と言ってくれた。

とにかく受かった。
日活の助監督になることは決まった。

映画も見せず・・・

『変身』を見た人は、日活にはいない。

話すと、だいたい笑われて、「それ見せたら落ちてたかも知れない」と言われるのが定番だった。

自分で作った8ミリを見せよう、とする意欲が買われた、と解釈した。ガムシャラさが評価された。

父は、この面接の日の2/21にベトナムから「反戦ゼッケン運動」を表彰され、国賓?として向かい、3/12に帰国した。

本人は「国賓」と言ってた、と思うんだが・・・アメリカがベトナムから撤退し、南北統一に成ってから2年経った年だ。

行く前は大学卒業もヤバい息子が、帰って来た時には就職も決まっていた、ということで安心したろう、親孝行じゃん。

・・・あれ?、卒業ヤバい話は、ちゃんと伝えてたかな・・いや、もしかしたら、両親には言わなかった、内緒にしていたかも知れない・・

もう確かめるすべは無い。(金子徳好「ゼッケン8年」

翌日の3/13には正式採用通知が来たので堂々と、自慢したと思う。

隣の家に、日活が雇った興信所が来て、「息子さんはどんな人?」と聞かれたので「良いお子さんよ」と奥さんが答えてくれたそうだ。

日活が一番、警戒していたのは、左翼の”過激派”で、ウチ=金子家は“穏健派”左翼の家柄だから、身辺調査は良い方に作用した。

当時の言葉で“代々木系”というやつ。

日活の労働組合も代々木系なので、過激派が入ってくると労働者の団結が乱れるのを恐れていた。

当時の日活の経営は、労働組合が握っていたのだ。

ちょと困ったのは、この時中学生だった7歳下の弟・二郎が「お兄ちゃん、日活行くのやめてくんないかな」と言ったことだ。

「お前のお兄ちゃん、ポルノかよ」と友達から、からかわれるのが目に見えている。

「なんてことを言うの」と母が怒った。

滅多に怒らない人だった。

二郎も、すぐに素直に「ごめん」と謝った。

一家四人の食卓は四畳半の居間のコタツ式だった。
そこで、就職祝いとなった。

父は、在宅の時は和服で、とりあえずビール。
そして日本酒。
上機嫌で政治の話を漫談ふうにして、いつも楽しい食卓だ。

「美人(母)を前にして、飲めるってえのはいいね」
ということを、しゃあしゃあと言う父。

金は無いが、豊かな気持ちの家族だ。

初任給は10万くらいだろうと言うと、家には5万入れるべきだろ、と父が言ったが、ちょっと高いんじゃないか、堪忍してよ、と3万にして貰った。

2年目からは5万にしたが、家賃も光熱費もかからない訳だから、すぐ金が貯まった。

この年の夏には30万のソニーのビデオデッキ(SL―7300)を買ったので、日活の先輩たちが、びっくりしたのだった。

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家庭用ビデオデッキが販売され始めた年だ。

ペーペーの新入助監督が、ビデオデッキを買って持っている、ということが撮影所のニュースになった。

・・・それは、ちょっと後の話で・・・

食卓のテレビで70年代版の『嵐が丘』をやっていて、
「カッティングが上手いな〜これ」と言ったら、母が、

「なあに監督みたいなこと言ってんのよ(まだ助監督でも無いくせに)」
と、もう監督気分でのぼせてる僕に冷や水をかけた。

母は切り絵作家で、武蔵野美術大学が武蔵野美術学校だった時に油画科を出ている。(金子靜枝作品集

友達に、たくさん貧乏画家がいる。

「映画監督になりたいんだ」
と言った時に、
「“作家”になりたいの? “職人”になりたいの?」
と聞いてきたことがある。

これは、多分、その友達たちを思い出しながら言ったことだろう。

僕は「職人かなあ」
と答えた。

と、書きながら、今や娘の金子由里奈が、“映画作家”になりつつあるのにフラッシュバックした。

13人の女の子監督を集めた2018年『21世紀の女の子』の一般公募枠で、8分間の「projection」で立命館大学生の四年生のまま監督デビューした。
優秀だね〜(親バカは承知)

「映像作家」かぁ・・・

母に聞かれた時は、“職人”を目指すと答えたが、その後は「職人も“作家”なんだよ、職人技が無いと、作家もダメなんだよ」と思うようになっていった。

日活合格は、友達にも電話しまくって自慢した。ハーミアにも電話した。

ダイアリーに電話した相手のリストが書いてある。毎日10件くらい。

いやらしい、と思われたかも知れない・・・
謙虚さの無い青年だったから。

小学校の同級生の野田秀樹にも電話したら「オマエ、日活受かって偉そうだぞ」と言われた低い声の響きを、覚えている。

その前に彼に会ったのは、前年の12月の「夢の遊眠社」五回目の公演「愛の嵐・不知火編」を上智大学まで観に行った時だった。

演劇好きには名前が知られていた頃だ。

「夢の遊眠社」は第一回からこの五回までは観ていたが、助監督の仕事が忙しくなると、毎回は行けなくなったが、だいたい行けてたんじゃないかな・・・

遊眠社の語源というか、夏目漱石が「高等遊民」と呼ばれていたところから来てるのではないだろうか。
野田は小学校の時、「坊ちゃん」を絶賛していたから。

若い人は、もう夏目漱石は読まないでしょうが・・・

そう言えば『変身』を作ったきっかけは、前年に作ろうとしていた初の16ミリ映画『神話よ未来の国へ帰れ』が挫折したからだった。

シナリオを書いて、野田に読ませて、出てもらおうとしたが、「つまんねえな」と言われてしまった。
それが挫折の原因というわけでは無いが・・・

“中大兄皇子が蘇我入鹿を追いかけて、地下鉄・霞ヶ関の長いエスカレーターを駆け上がってくる”という映像を撮りたかった。

その中大兄皇子のイメージキャストが野田だった。

当時、月間「シナリオ」誌で募集があって参加したグループ「シナリオ研究会」で、シナリオ学習仲間に、ボロクソに叩かれた。

台本は、探せばどこかにあるだろうが、読み直したことは無い。

新宿の高層ビルの間を、大和時代の皇子が刀を振り回して駆け抜ける。

唐十郎の劣化コピーみたいだが、見ていたわけでは無い。

それが挫折した後、リアル路線でサマーセット・モームの「人間の絆」の青春時代部分を40分くらいのシナリオにして、日大芸術部の俳優科の卒業制作として16ミリ映画に出来ないか、ということを画策した。

そうなると予算は大学もちになるという、甘い計算をしたが・・・

エゴがぶつかりあって最終的に彼らと意見が合わず、これも挫折して、高校1年から毎年必ず作っていた映画が、大学最終学年では何も出来なくなり、四年生の夏はちょっと荒れた気分になった。

ダイアリーには少しヤバいことが書いてある。
「ひどい憂うつにおそわれる。こんなひどいのは生まれて始めてのような気がする。もう生きていても仕方ないような気になって来て、夜中は泣いてそのまま眠ってしまった。いったい本当に人は何故生きているのだろうかと思う。何の価値もないのではないか。この自分なんて。だったら何故、生きようとするのか」

ただ、友達と、野球ごっこをしたりの日常は淡々と続いていた。

学芸大にはチームを作れるほど男子がいない。

ピッチャー、バッター、野手という3人で、校舎の壁に向かって投げ、今打ったのはヒットだ、とか二塁打だとか言いながら点数をつけてゆく。
なんとも貧しい遊び・・・麻雀よりは健全か?

だが、クラスの女の子から優しくされて「金子くんのとなりに座っていい?」と言わられたら「ハッピーな気持ちになった」とか、1週間後には書いている・・・死ぬような悩み事はそんなもんで消えたのか?

父に言った「教員採用試験は終わっちゃったよ」というのは嘘で、まだ終わってはいなかった。ただ受けたくないから、そう言っていたのだ。

父は母に「それなら四月になったら家を出てもらう」と言っていたのを母から聞いて、「1日調子がおかしくなった」とか書いてある。

そこから半年で、なんとかなったわけですね、金子くんは・・・
初体験も出来て・・・

大学の卒業式では、日活に受かったことを告げると、クラスメートの女子が、新調したスーツの袖を掴んで、
「私たちのこと、わすれないでね!」と言った。
目が潤んでいたわ。

山田先生のお宅に伺って、ご馳走になっているが、普通は逆だろう。

カノジョとは新宿京王で『イーハトーブの赤い屋根』を見た。
山の分校の教師夫婦の心暖まるお話で、そういう理想を持っている人で、教師を目指していた。

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これからロマンポルノの現場に進む僕とは、多分、無理かも知れない。

そういうこともさせてくれないし・・・
(二つの“そういう”がありますが)(“やらせてくれない”とか下品でしょ)
(結局、書いてるじゃん)

一人でフランソワ・トリュフォー監督『恋愛日記』をスバル座で見た。

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女性の脚を追いかけて、次々ベッドインしてゆく男の物語。

今や、撮る映画で脚フェチがバレてしまう監督だということは自覚してるが、この頃は、まだ胸の方に目がゆく年齢だったらしい、そこまで共感しなかった。

気持ちの余裕があったこの頃、4月1日からのオリエンテーションが始まる前、3月17日に日活撮影所に呼ばれた。

ゴールデンウイークに「日活スタジオまつり」というのを開催し、調布市民を集めて日銭を稼ぎたいから、何か君たち新入社員の斬新なアイデアないか、ということである。

京都の東映が太秦映画村というのを始めて、お客が集まっているので、日活もウチでも何かやれないか、ということらしい。

この時、同期の助監督・瀬川正仁と会った。面接の時は、僕より前にいたから、僕より筆記の成績が良かったわけだろう。彼は早稲田だ。

大人しそうで優しそうな感じだ。爪を噛むのが癖らしい。
彼とはライバルになるのか? そんな感じ、しないな。
瀬川は、今はノンフィクションライターになっている。

甲斐さんというコワモテの製作次長が、「模擬撮影をやろうと考えてる」と言った。

フィルムを入れないカメラで、所内のオープンセットで撮影する真似をして、観客に見せる、というわけだ。

「それだったら、フィルム入れて、短編作らせて下さい、画コンテ描きますから」
と、言ったら、甲斐さん、「はあ?」という顔になった。

まだ16ミリも撮ったことは無いが、ゴールデンウイークまでなら1ヶ月あり、それまでに35ミリの操作方法を覚えて・・・いや、覚えなくても、プロがカメラを回して、自分は監督すればいいんだから、サイレントでも編集は出来て、これは、いい監督の訓練になるだろう、と思ったわけなんだが・・・

結構、図々しいよね。まだ、正式入社してないのに。

もう、監督になった気分でいてるみたいですね、今思うと・・・

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