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“緩い”ドラマツルギーが日本映画を衰退させる

 本稿のタイトルは、あれこれの個別的な作品に関することではありません。研究者としての観察と推論から論理的に導き出される「一般論」です。まず、その点を強調しておきたいと思います。

 私がここで、“緩い”ドラマツルギーと呼ぶのは、登場人物間の葛藤が少なく、抒情的に流れてゆくようなドラマの作法です。好きな人には悪いですが、戦後の小津映画、特にその代表作とされる『晩春』や『東京物語』などがその典型です。もちろん、そのようなドラマ作法も“多様性”のためには必要ですが、時と場合によりけりです。そのようなドラマをあたかも万能であるかのように、または“日本の伝統”であるかのように、あるいは単に無意識に採り入れてきたことが、過去20年ほどの日本映画が世界市場で敗退しつづけてきた一つの理由だと思われるのです(映画祭で芸術性を評価される個々の作品の成功は別の話です。そうした「個人プレー」は世界市場における日本映画のシェアや観客に与えるイメージにはほとんど影響しません)。

 “緩い”ドラマは現在、世界的に見て非常に分が悪い、もっとはっきり言えば能天気で時代遅れに見え、国内の観客の多くさえそっぽを向く性質のものなのです。なぜそうなのか、以下で説明しましょう。

 現実の世界は矛盾に満ちています。その矛盾をドラマに反映させるには、登場人物同士を衝突させる必要があります。劇映画の上映時間は普通1時間30分から2時間前後なので、登場人物は最低でも2人以上いないと上映時間をもたせることができません。主人公が自分以外の誰かと何らかの関係をもち(あるいはそれを変化させ)、それまでと違う行動をし、彼らを取り巻く状況を変え、主人公自身も変化すること、それがドラマの本質です。何も変化しないのなら劇映画として観せる必要はなく、観客はそれを観る必要もありません。ユニークな物語世界を楽しむだけならビデオゲームでも十分なのです。

 こんなことを書くと、「映画は娯楽ではないか。矛盾に満ちた現実を一時的に忘れてストレスを解消したいから映画を観るのだ」と反論する人もいるでしょう。しかし、私が説明したような“緩い”ドラマツルギーで、「ストレスを解消する」ことはできるでしょうか? できません。“緩い”ドラマツルギーの映画が観客に見せるのは、現実世界よりもはるかに調和している世界です。人間は誰でも年を取れば死にますし、愛する人との別れも経験します。家族や親しかった人々と疎遠になることもあります。私が例に挙げた2本の小津映画が描いているのは、そんな、誰でも経験する最低限の人生の悲しみ「しかない」世界です。この路線がより通俗化されているのが、『ALWAYS 三丁目の夕日』に代表される昭和テーマパーク的なレトロ映画です。

 観客が「ストレスを解消する」には、主人公が勇敢に戦って悪人を懲らしめたり、恋を成就したり、努力が認められて成功したり、降りかかった災難を乗り越えて幸福になったりする必要があります。そのようなドラマをなるべくご都合主義に見えないように作ることができれば、娯楽映画としては成功なのです。「人生には別れがある。それは悲しい。でも美しい日本に生まれて良かった」などという結論しか出てこないのでは、ストレスの解消もなければ普遍性もなく、世界市場での競争力もあるはずがありません。 

 物語における葛藤は、たとえ主人公の内面で展開されるものであっても、その物語が描きだす世界で起きる(あるいは起きた)具体的な「他者との衝突」であると言えます。例えば、主人公が過去に轢き逃げをしてそれを隠しながら生きているとか、師と仰ぐ人を目の前で殺されたとか、生活のために違法行為をせざるを得ないとかです。轢き逃げをすれば被害者の恋人や家族に恨まれますし、恩師が目の前で殺されれば殺した相手を憎みますし、違法行為を犯せば逮捕を恐れて生きることになります。やがて、被害者の恋人や家族、恩師の仇、警察という「他者」(敵)と衝突することで、主人公はそれまでとはまったく違う行動を強いられます。衝突は脅迫電話、仇の部下による追跡、警察の職務質問といった間接的なもので始まり、敵との対決によってクライマックスを迎えます。

 このように、葛藤の本質は主人公の「他者との衝突」なのです。「他者」は地球外生命体や猛獣のような場合もありますが、成功した作品では大抵それら以外に、事態を悪化させる人間側の敵(エイリアンを利用しようとする企業など)がいて、ドラマをより現実世界に近づけています。

 葛藤はその原因が具体的で普遍的なものであればあるほど、観客の興味を引きます。もちろん時代によって観客の求める「具体性」の種類は違います。社会の矛盾、文明の矛盾がますます明らかになってゆく21世紀の20年代という我々の時代には、どんな葛藤が最も観客の興味を引くでしょうか。

 この点で参考になるのが、アメリカにおける“social thriller”(社会スリラー)と呼ばれるジャンルの興隆や、韓国映画における社会派ドラマの成功です。それぞれジョーダン・ピール監督の『ゲット・アウト』(2017)とポン・ジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族』(2019)が有名ですが、この二つの傾向は作者の「個人プレー」のレヴェルではない広がりをもっています(他にも多くの作品名を挙げることができますが、ここでは省略します)。

 東西冷戦が終わり、先進国の一般観客のあいだに多幸症的な楽観論が広がっていた1980年代後半から90年代初頭にかけてなら、“緩い”ドラマツルギーにはまだ世界的な需要があったと思います。日本の映画ファンのあいだでホウ・シャオシェンとアッバス・キアロスタミが人気を集め、彼らが小津映画のファンであることがしつこいほど強調されていた時代です。しかし、時代は今やすっかり変わりました。矛盾と対立が目に見える時代、言うべきことを言わなければ矛盾や対立の解消があり得ないことを人々が自覚している時代、“緩い”ドラマツルギーには、非常に限られた需要しかないのです。そこから脱却できない限り、日本の劇映画は世界市場でハリウッド映画や韓国映画ほどの需要を得ることはできないでしょう。

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