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読書せずに“エンタメ”ばかり見ている子は馬鹿になる

 本稿のタイトルは、『シャイニング』でジャック・ニコルソン演じる主人公がタイプライターで打ち続けている文章「勉強ばかりして遊ばない子は馬鹿になる」のパロディではありません。日本の映像・映画文化の水準を落とすばかりか世界で全く通用しないものにしかねない、ある傾向に対する危機感を表明したものです。
 ヤングアダルト向けの娯楽作品ならともかく、20代以降になっても楽しめる映像作品は、それを創作するためにはもちろん、鑑賞するためにも一定以上の教養が必要です。ここで言う教養とは、就活などで必要になる「一般教養」つまり常識のことではありません。

 私の言う教養とは、人間や社会を多角的に考察できる分析能力、芸術作品から「美しさ」だけではなく「真実」の印象も求めることのできる精神的な余裕、興行収入や売上や各種コンクールでの受賞歴に惑わされずに作品と対峙できる知性、自分の理性が先入観や偏見によって曇らされていないか常に反省できる冷静さなどといった、総合的な心的能力のことです。

 生活の雑事に追われている時に、そのような心的能力を十分に発揮する機会はあまりないでしょう。しかし、映像作品を鑑賞したり読書したりする時、あなたの教養は作品を味わうという「楽しみ」のために、ごく自然な形で発揮されるのです。そのような教養を身に着けるためには、第一に、古典的な文学作品を中心とする読書が必要です。そして第二に、最低でも過去40~50年間に作られたフィクション映像作品の傑作(そのほとんどは実写映画であるべきです)を、一通り観ておくことが必要です。専門家を目指さない人は、合計100本も観れば十分だと思います。
 教養を身に着けるべき思春期から学生時代にかけて「エンタメ」漬けになっていると、人間は映画や小説の傑作や佳作を正当に評価することができなくなります。もちろん、そのような人間はろくな作品を創れません。その意味で、どれほどインターネットが普及しようがデジタル映像技術へのアクセスが容易になろうが、質的な面で創作の「垣根が低くなる」ことは絶対にありません。

 日本の映像・映画文化の将来に対する危機感を私が最初に述べたのは、実写作品よりも世界で高く評価されている最近の日本製アニメ映画や、日本を代表する映画作家の最近作の多くに、一種のライトノベル的な「浅さ」を感じているからです。この「浅さ」の印象は、宮崎駿や高畑勲の傑作アニメからも、80年代の黒澤明や今村昌平の作品からも感じられないものです。
 誤解を避けるために断っておきますが、私が「浅さ」と呼ぶのは、軽薄さのことではありません。作品の意味的な平板さ、単層性のことです。技術は感じられても物語世界に引き込まれず、巧みに構成されていることは分かるのに感銘を受けない作品が多いのです。鑑賞中に滑らかな床の上を滑ってゆくような感覚、と言えば分かって頂けるでしょうか。その滑らかな床はスマートフォンやiPadの本体や液晶ディスプレイと同じように平板で、中にも下にも、人生に関する知恵という金脈はないことが分かります。しかも時々、その床は鑑賞者の常識の重みにさえ耐えることができず、ガラスのように簡単に割れて空虚な奈落を露呈しています。
 若い人々は、そんな「浅い」作品を無批判に消費していてはいけないでしょう。つまらない作品、意味の薄い作品に対してははっきりそう表明すべきです。さもないと、「この程度でいいのね。今後も応援よろしく。じゃあまたね」と馬鹿にされることになります。いわゆるオタク市場はその感覚で回っているのかもしれませんが、延々と何十年も同じ物語設定、同じ登場人物で「新作」を作りつづける側も、またそれを良しとして受け入れる側も、人間として成長することを拒否している気がしてなりません。 

 私は別に、娯楽作品がいけないと言っているわけではありません。「エンタメ」作品の多くは、類型的なキャラクターたちが既存の無数の作品で描かれたような状況に置かれ、予測が容易な結末に向けてプロットが進行する、という”ジャンル映画”の特徴をもっています。そのようなジャンル映画には深みはなく、単層的です。ジャンル映画にはふつう特定のターゲット層があり、大ヒットを狙わなくとも制作費が回収できるよう、意図的に類型的なキャラクターや紋切り型のプロットが利用されます。ホラー映画がその典型です。しかし、そのジャンルのファン以外にも長く記憶される映像作品には、それ以上の何かがあります。その何かとは、意味の多層性です。意味の多層性がある名作の観客は、自分の足元に、薄氷のような床ではなく安定した地面があるように感じ、その物語世界を喜んで受け入れます。
 フィクション映像作品はもちろん「絵空事」です。しかし、優れた作品の場合は、鑑賞中にもそこに提示されている物語世界が広がり、最後にはその境界線が消えて現実との接点が感じられるようになります。この効果が生じるのは、物語世界のディテールがしっかり描かれているからというよりも、それらのディテールが、作中では語られない人類の歴史や文化そして現在の社会的現実について暗示的に語っているからです。それらの暗示的なディテールは、プロットの進行に沿って一定の順序で配置されており、無意識あるいは意識的に観客の頭に残り、物語内容の解釈に影響を与えます。
 宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』(84)を例に挙げましょう。この作品はジャンル的には、遠い未来、エコロジー的な破滅が起きてから千年後の地球を舞台とするSFです。瘴気という有毒ガスを発する不気味な植物の生い茂る「腐海」、そこに住む王蟲(オーム)と呼ばれる巨大な昆虫、戦車や戦闘機類を除けば中世に戻ったかのような人類の文明など、物語世界の設定は一見すると過去のSF小説やSF映画にあったようなものです。しかし、プロットの進行につれて、映画の冒頭で提示された物語世界に、いくつかの秘密が潜んでいたことが分かります。瘴気を放つ植物はそれ自体が有害なわけでなく、かつて人類が汚染した水や土のせいでそうなっていること、腐海や王蟲には長い年月をかけて汚染を除去する働きがあることなどです。これらの秘密は、ヒロインであるナウシカが他の主要な登場人物と会話したり一緒に行動したりする過程で(主に中盤で)、台詞を伴うディテール(ナウシカが室内に育てた植物群、地下水、その水源である洞窟など)によって明かされます。そして千年前に文明が崩壊した原因は、ナレーションや字幕や台詞によって直接的に説明されるのでなく、映画の冒頭と終盤に登場するディテール(巨神兵の化石と復活させられたそれ)を通じて暗示されています。
 映画『風の谷のナウシカ』は、同じ作者によるコミックス版とは独立した2時間弱の映像作品として、一貫性のある多層的な意味の体系を作り出しています。

 私はフィクション映像作品を観る時、途中でよく分からない状況や、共感しづらい変人が出てきてもそれほど気になりません。むしろそれを物語世界の真実性の証拠として受け入れたくなります。しかし物語世界の設定は最初のほうで極力シンプルに、具体的な出来事を通じて示されるべきです。オーソドックスなやり方は、主要な登場人物を1人か2人登場させ、その行動を通じて世界観の大枠を示し、別の主要な登場人物(こちらが主人公になります)を中心としてドラマを展開してゆくことです。『七人の侍』も『スター・ウォーズ』も前出の『ナウシカ』も、最初の10分から20分くらいはそのように進みます。優れた映画作家は、この段階で、作品に意味の多層性を与えるディテールを潜り込ませます。
 劇映画における真実の印象は、例えて言えば、大小の石が転がっていたり地面が濡れていたり坂が急だったりする道を歩いてゆくと、急に息をのむほど美しい景観に出くわすようなものです。フェリーニの『道』におけるザンパノの号泣や、黒澤の『七人の侍』における菊千代の死は、単に意外だとか涙を誘うとかいう陳腐な言葉では表すことのできない、ユニークな真実性を帯びています。

 最後に、専門家以外は途中で観るのをやめた方がよい、「浅い」映画作品の特徴を挙げておきましょう。見慣れた日常生活の「リアル」なディテールを必要以上に大量に盛り込み、現状肯定的な世界観しか表現していないような物語を語っているもの。これは問答無用の駄作です。もう一つは、古典の引用や「意外な」展開や意味ありげな沈黙や字幕の挿入によって、「意味深く」見せようとしている作品。これは内容空疎であることを小手先の技法で隠そうとしている二流作品です。
 これら二種類の「浅い」作品の特徴を念頭におき、作品の冒頭10分か20分以内でこれらの特徴が鼻につきはじめたら、我慢せずに中断するのが賢明でしょう。ソフトを買ってしまったのなら売り払うこと、無料で視聴できる作品ならそこで止めて別の作品を観る、あるいは古典を再読することです。 

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