元アル中のおじさんとの思い出

墓参りに行った。
僕の才能というか言葉たちをとても好きでいてくれて、そして何より僕を好きでいてくれて、僕のために泣いてくれて、僕のために人生をかけて動こうとしてくれた人のお墓参り。

彼は僕が初めてお世話になった大手レコード会社の宣伝担当で、バリバリ仕事が出来るというよりは感情で動き、優しそうな見た目に反して頭のいかれたガチのアル中で、訳の分からない事を乱発し「よくこれでこんな大手な会社の課長をやってるなー」レベルで問題だらけの、欠陥だらけのバカだった。

2004年にメジャーデビューをさせて頂いて2005年に若気の至りからくる行動でバンドを脱退した後もたまーに連絡をくれていた。
2007年に2度目にデビューさせて貰ったバンドの事も追ってくれていて、2008年にこれまた若気の至りで脱退した時に彼から電話が来た。

「先日、死にかけた。死にかけた時にお前の顔が浮かんだ。お前の歌が聞いてみたい。」

唐突な話だったが、何かの必然を感じて久しぶりに会った彼はデビュー当時お世話になった頃の「いかれてる」感じは完全に抜け、仏のようになっていた。
一度ラジオ局で彼が過去に担当していたMr.CHILDRENの方々に挨拶だけさせて頂いたことがあって四名様は仏のようなオーラを纏っていたが、それに近いモノを感じた。

そんな流れで元・いかれた人と、某超大手のレコーディングスタジオの社長とのファミレスでの密会が設けられ、色んな話をした。元・アル中はずっと烏龍茶を飲んでいた。
社長は

「デモ聞いたよ。元・アル中さんと同じで僕も君の歌に感銘を受けた。やろう。」

と言ってくれ、プロジェクトが生まれた。

その秋の始めに初ライブ。バンドスタイルでのワンマンライブは友人の矢野晶裕(→SCHOOL←)、つるうちはな、太田成義、川上タカシでO-Crestにて行われた。
終わった後で彼から電話が鳴った。

「ライブ良かったよ。●●というレコード会社が手を挙げそうだ。レコーディングをしよう」

断る理由はなかった。
メンバーを再編してのレコーディング(プリプロ)は2008年の年末に行われた。
まだリーダーシップや統率力の薄かった僕はタドタドしつつもなんとか3曲のデモを録り終えて
「良い感じだな、また年明けに!」
と言われて僕らは良いお年ををした。

2009年の正月明け、レコーディングスタジオの社長から電話がきた。
年始早々に元・アル中が事故で亡くなったという電話だった。

比喩では無く、目の前が真っ暗になった。

自暴自棄から飲酒量は飛躍的に増え、馬鹿騒ぎと喧嘩を繰り返すような毎日。当時ベースを弾いていたMARK MUFFINのメンバーと、ずっと遠距離恋愛していた彼女と、O-Crest、Queという存在と、浮気相手と、メチャクチャになりながらも見守ってくれていたファンの人、そんな人たちのお陰で辛うじてまだマトモなフリをして歩く事が出来ていた気がする。

先日、お墓参りに行った。
新宿のハズレにある無縁仏ばかりの一室の位牌に話しかけた。
「見てるなら見といて下さい。あなたは約束破りましたが、その分も違う形で全力で遊びます」

あれから13年が経っていた。
いずれ体は土に還るし、心は空かどっかに行くならば、とにかく今を生きる。
そう決めてやっとさっき、彼の連絡先を電話帳から削除した。

読んでくれてありがとう。最後に彼に当てた詩をば。



交差点

少し振り返ってみたら
沢山の足跡がいくつも混じり合って
あれはあの日の僕ので
あそこで途切れたのが、あの日の君のやつだ

信号待ちの人たちは
最終電車へ。1日は終わりゆく
夜の渋谷の交差点
排気ガスと、タバコと、アルコール混じっては

鳴らない携帯電話、片手間にもてあそび
少しだけ君を想った

なぁ、行かないでくれよ。
遠くに居てもそばに感じたから、歩けたんだ
嗚咽を殺して願ったのは
普段、見向きもしない神頼み

せわしい世間の中では、僕らの夢とかは1円の価値もない
分かってたけど僕らは
ファミレスの隅っこで無邪気に妄想ごっこ

当たり前に地図も変わる街並みに
このままじゃ、取り残されそう

なぁ、聞こえてんだろ?
まだメールの返事も返していないのに
過ごした時は、多分アレだ。
僕らの足跡の交差点

魔法があるなら全てかけたい
だけど、僕には無いから
この歌を

なぁ、勝手に行くなよ
赤信号前に、足踏みしてるのに
今叫ぶのは、悲しみとは少しだけ違う心の声
「君に会いたいな」
「君に会いたいな」

君の声と足跡を散らした冬の風

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