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オン・ザ・ロード  ジャック・ケルアック  青山南訳 河出文庫

 私は禅の本をよく読む。ある禅の本を読んでいると第二次世界大戦後のサンフランシスコを中心としたいわゆるビート・ジェネレーションがアメリカ全体への禅や悟りの普及に大きな役割を果たしたとあった。その中心人物の一人がジャック・ケルアックであり、さらにその代表作が「オン・ザ・ロード」であると書かれていた。

 そうかあ、じゃあ、ぜひともその「オン・ザ・ロード」を読んでみねば。息子に、この本を持っているかと聞いてみる。持っていた。よって借りた。

 この本はどんな本か息子に聞いてみた。息子の返答は2つ。1つは、特にストーリーというものはないのでどこから読んでもよい。もう1つは、最初のうちは面白くなかったけど、だんだん面白くなってきた。

 これを参考にして「オン・ザ・ロード」を読み始める。内容を大まかにいうとアメリカの東海岸から西海岸の間を何度もウロウロする話である。ヒッチハイクで。鉄道で。仲間の車で。

 確かに最初のほうは全然面白くなくて、退屈きわまりない。「ふーん。だからそれが何?」って言いたいような事柄の記述がひたすら並んでいる。なんじゃこれ。あまりに退屈すぎじゃないか?

 そこで気づく。「ビート・ジェネレーション」の「ビート」を私はドラムの4ビートとか8ビートの意味だと思っていたので、鼓動が高鳴るような、エネルギーを感じるような、そういう内容を期待していたのだ。それとのギャップがあまりに大きい。

 私、文庫本の巻末にある解説は読まないことを主義としている。「自分で読んだだろ。なんであらためて人の意見や感想を求めにゃならんのだ」っていうことである。しかし、今回は主義を曲げた。ギャップの大きさに耐えられなかったのだ。

 解説を読んでわかった。訳者の青山南氏によれば、「ビート」とは精神的消耗を意味し、「ビート・ジェネレーション」とは「だまされてふんだくられて精神的肉体的に消耗している世代」という意味だった。

 言われてみればそうなんだろうな。精一杯作り込んだ笑みで顔面を埋め尽くして太ももを振り回すチアリーダーのような本だったら、禅や悟りの普及には結びつかんよね。

 「オン・ザ・ロード」は結構長い小説だ。文庫版で本文ページが493ページある。この本が発売されてベストセラーになった後、ケルアックはテレビ番組に引っ張り出され、そこでこう語っている。「3週間で書いた。」

 当時はまだタイプライターの時代だった。食べることも寝ることもそっちのけにして、ひたすらタイプキーを指で打ち続けた。タイプ用紙を差し替える時間さえ惜しかったので紙を貼り合わせてつなげ、一枚の長い紙にして打っていたという。

 その現物が残っている。写真を見ると、完全な巻物状態で、まるで厳島神社への平家納経を金箔や金泥を使わず装飾も一切排して作ったバージョンである。巻物へのタイピングはとても印象的なことであり、映画化された「オン・ザ・ロード」にもこのシーンがあったと息子が言っていた。

 が、私には、その話は本当かなあ、という疑問があった。紙を長くつなげるのであれば、タイプライターの給紙スロットできちんと紙がひっかかりなく連続して送られるようにするため、紙同士にずれがないよう、斜めにならないよう、正確にまっすぐに貼り合わせなければならない。これ、結構、神経と時間を要する上に失敗も多発しそう。さらに長い紙がどんどんタイプから送り出されてくると、その処理が大変。打ち込みに夢中で邪慳にどけると皺が入ったり折れたり破れたりもするかもしれず。結局、素直に一枚ずつ打ったほうが早いと思われた。

 解説を読むと、やっぱり事実は違った。この小説は10年ほどをかけて書いては書き直し、書いては書き直しを繰り返したもの。出だしだけで7通りとか10通り以上とか存在したらしい。よって「3週間で書いた」わけではない。ただし、巻物は確かに存在している。

バイオリニスト葉加瀬太郎にはとても尊敬するバイオリニストがおり、その人の写真をバイオリンケースの内側に貼って、バイオリンを出し入れするたびに見ていた。あるテレビ番組でその人の話題になり「XXXXさんのことをどう思いますか」と聞かれた葉加瀬太郎はこう答えたのだった。「XXXX? 知らないなあ、それ誰?」

 人は不本意なテレビインタビューでは嘘をつく。

 この小説の背景は1947年から1950年のアメリカである。つまり第二次世界大戦が終わったばっかり。しかし直接には戦争を感じさせない。戦争を想起させるのは主人公が復員兵援護法に基づいて送られてくる小切手をアテにしていることくらい。「戦争はどこに行った?」と不思議な気持ちになる。「君たちは戦争をしたんだよ」。

 「オン・ザ・ロード」文庫版の帯に書いてある。「後のあらゆる文化に決定的な影響を与えた伝説の書」。この説明を読んだときの感覚は、美術の教科書なんかに載っている「決定的な影響を与えた絵画」を見た時の気分とまったく同じだ。つまり、私にはそれほどのものであることが理解できないのだ。

 絵画で言えば、私には絵心が皆無であることも関係しているかもしれない。私の絵は、トンデモな絵を描くことで有名なはいだしょうこにさえ「これは、ひどい」と言われかねないレベル。でも血筋じゃないはず。私の父親は絵を描くのが上手だった。

 父親はアマチュアの絵画グループ「チャーチル会」に入っていて、日曜日には裸の女のデッサンなぞをしに行っていた。画家へのあこがれもあったのかな。一時期は黄色のルパシカばかり着ていた。そしてマドロスパイプ。パイプタバコって難しいらしく、まずはパイプへのたばこの詰め作業に四苦八苦していた。きれいにかつ空気の通りをよく詰めないとうまく燃えてくれないからだ。さらに火がついてもすぐに消えたりするので、太い針みたいな道具でパイプ中のたばこ葉をしょっちゅう突っついていた。

 本人が望んだはずの、描きかけのキャンバスを横にパイプタバコを悠々とくゆらしている姿より、うまく煙草をセットできなくてあたふたしている姿ばかりが思い浮かぶ。画家のような恰好をしたがったと言えば、あと、確かベレー帽が押し入れの隅で、買った本人にも忘れられて折れ曲がっていたような気がする。

 えっと、話がそれた。なぜそれがそんなに素晴らしいのか、私には理解できないことが多々あるっていうことだった。絵とか。

 たとえばオルセー美術館にあるエドゥアール・マネの「笛を吹く少年」。万人がみとめる大傑作である。ただ問題はその「万人」に私が入っていないということだ。これ、どこがそんなに大騒ぎするほどの絵? ずっとそう思っていた。

 しかし、これは私の態度が間違っている。西洋美術を味わうには歴史的背景に対する知識が不可欠だからだ。たとえば、ルネッサンス美術を見るならキリスト教とかあるいはギリシャ・ローマ時代からの連綿たる歴史的意義が分からないとあんまりおもしろくない。

 そして「笛を吹く少年」。どこがすごいのか。まず背景。背景はベタ塗りじゃないけど何もない壁のようなもの。それは背景を必ず描かなければならないという当時の伝統に反するものだった。そして浮世絵のようなくっきりした輪郭線。これも当時の伝統に反するものだった。つまり、この絵の単体の価値より伝統との対比対立こそがこの絵の価値だったわけである。そりゃこの絵だけ見ても分からんよね。

 で、「オン・ザ・ロード」。この本への評価は合言葉のように「自由と反逆」ということになっている。正直なところ、私にはどこが「自由と反逆」なのか分からなかった。約80年前に書かれた本だし、その当時の小説があるべき伝統と対比してみればそうなのだろう。しかし、私には自由を求めているようにも反逆しているようにも感じられなかったのだ。私が感じたのは「漂う」っていうことだ。この小説は社会への挑みかかりなどという強い意志を持った人間の話ではない。東へ西へ、上から下へとひたすら漂う人たちの話である。

 そして思う。この本を読んで禅や悟りに向かった人たちは、「自由と反逆」を読み取った人たちじゃなくて「漂い」を読み取った人たちだったのではなかろうか。自由と反逆っていうのはあくまで対象があってのことだから二元対立の世界そのものだ。禅とは決して結びつかない。

 稀代の禅僧、井上義衍老師はこう述べている。「相手の世界というのは、こっちへ、自分という標準をおくから出てくるのです」。

 ビート・ジェネレーションとは疲労のあまり自分を立てる気力を失い、そして、自分を立てないということの価値をあらためて味わったジェネレーション。そういうふうに言うことはできないだろうか。

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