自分の愚かさについて

賢く見せたいという愚かな自我が発芽したのは中学だが、それが自我だと気づき、愚かだと把握したのは大学生になってすぐだった。つい最近である。
それは、「他人に"低い"テストの点数を知られたくない」ということである。
中学の時から、他人に見せるのが嫌だった。それだけに低い点数を自慢する人を尊敬していた。嫌な意味ではなく。
"テストの点数"というのは、学生同士においてかなり使いやすい会話デッキの一つである。また、テストの点数が低いと友達も作りやすい。それ故に、テストの点数を聞くというのは"歩み寄り"であり、会話の発端に素晴らしいデッキなのだ。
人から点数を聞かれるとき、自分の弱点をわざと曝け出すような不快感と生存の危機を知らせる警笛が頭の中で鳴り響く。
他人に低い点数が知られることは"生存の危機"。人は太古の昔から集団で生活していた。無能で使えないやつをいじめ殺すのが当たり前だった世界で、人の脳は自身の無能を他者に証明することは生存の危機だと学習した。学習してしまった。
また、比較的いい点数しか口を滑らせなかったため、頭のいい人という印象を持たれてると勝手に想像していたので、それを崩したくなかった。


Noteの前で取り繕うほど愚かではない。自身に遺伝子レベルで刻まれた愚かさを認識する。この変化が何をもたらすかは分からないけど。



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