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閑話休題 03

誰かのために我慢する事が喜びになるのならいい。心の底から。そして、その言葉がウソでないなら。そのせいで自己解離したり分裂したり、抱えきれないストレスを背負ったりとならないのであれば。そうでなければ、その誰かが知らぬ間に加害者とされてしまうからだ。我慢させた事で、おかしくなる人間を発生させられている。(そんな意図があってもなくても)その原因を作ったのは無断で我慢した側の人間自身であるということに相違ないのだけれど。「自分さえ我慢すれば…」そこに、奉仕の愛の気持ち良き祝福の光がないのならば、全くよい行いとは言えない、その場しのぎである。そうするなという話ではない。「そうしたから対処した」ことにはならないのだ。増長を促し、問題をより問題のある人間から奪い取って、さらに実害を受けることに加担したことにもなる。うーん。。。。わざと流れ弾に当たりに行くようなもの?自傷行為?と、問題が何倍にも膨れ上がるだけなのだ。

「そんな我慢ありき」で成立てようとする今の日本の状況はおかしいのだ。とは言え「譲り合いや、許し合いは、お互いのために重要な事」というのは正しい。しかし、我慢して当たり前、我慢する生き物は我慢させていけばいい、と加害者被害者共に麻痺していくことが問題の無限連鎖の始まり。「状況が悪くなる事、悪い方にひろがる広がること」に加担するようなやり方が良くないという話だ。

何事も「やだー」とか「こわーい」とか、誰かの作った印象だけで捉える習慣は害悪だ。テレビや週刊誌の無責任な同調圧力には辟易する。クラスのイジメと何の違いがあるのだろう。いや、社会の縮図が学校なのでは?

目の前で誰かが傷つくのを見たり聞いたりするのは胸が痛む。罪悪感すら覚える。その原因が「自分が自分らしくある事」にあるというのならば、もはや関係性の崩壊になる。一般論や誰かの意見が介入する余地はない。愚痴こぼし大会や慰め大会は、深酒同様に何ら解決にはならない。気休め以上に病気の元だったりもする。「自分は自分でいてはならない?」そんな思いを心に抱くことで、無意識のうちにどれほどの病気を生み、悪感情の連鎖を生み出していくのか、自分で考えないわけにはいかない。

自分が自分であるために、誰かが誰かであるために「遠慮や我慢」ではない方法で、ベストな気遣い配慮ができる身のこなしの上手い人も見たことはある。方法は人それぞれだけれど独特の魅力を持った人たちだ。

その場をうまくしのげる「上手なウソと嫌味がない程度の偽善の使い方が上手い人」もいる。「普通は」「一般的に」「常識として」などと、はぐらかして説得して納得させるのが上手いタイプ。悪く言えば、人を手玉にとるのが上手なのだ。とは言え、その唇陰口叩いて誰かを笑い者にしたり優越感を貪らないのであれば、何ら悪いことではなく、むしろ円滑な社会生活には有用な処世術だろう。程度次第か。

そして、波風を立てるのが嫌いで不器用な人間は、あえて手玉に取られて気づかぬふりをする者もいる。「自分が悪者になって罪悪感で自己嫌悪になっ他時に何かしでかすのが嫌」とでもいうのだろう。その場の信頼ある人間の意見の下で同調して派閥入りといった感じか。根は悪くないのに、場合によってはイジメ側、無理解側に属してしまうときもある。そうなってしまったら、自己正当化のための恥の上塗りで分断合戦の引き金を引いてしまう。良かれと思ってやったことが、最悪の悪手だったケースはしばしば直面する。「面倒事」と括って早期に離れて避けてしまう前に、分析と対処の努力を怠ってはいけないし、正しく受け止め、正しく対処しようとする心がけが大切だと。

窮屈な思考の檻の中で押し合いへし合いの結果、人間の自立進化に甚だ弊害のある「悪い意味での譲り合いや悪い意味での謙虚さ」そして、何だか意味のわからない「分をわきまえる」とか何とか。全てが曖昧な状況。

誰かさんに都合のいい「羊」になることこそ最高の処世術のように進める者もいる。「出る杭にならない生き方」によって捻じ曲げられすぎた自我が、暴走しないわけがない。その結果、暴飲暴食、嫉妬や陰口や虚言につながって、自己嫌悪や自己正当化で、意地悪でめんどくさい人間になるのは本意ではなかろうに。そうして、「病気」という形で自傷行為の結果が体や精神に浮き彫りになる。嫌な堂々巡り、負の感情の連鎖だと感じていた。

ところが2020年から極端になった世界の「見えざる手の可視化(幻想?)」によって、良くも悪くも大勢の人々が「固定概念化する前に情報精査の習慣」「自分の価値観を大切にする習慣」が重要視される傾向が増えてきたようだ。

一方で、この時代のうねりの影響なのかは特定できないが、やたら世を儚む人たちも増えている。リセットできると考えてか、ゲームオーバーなのか、計り知れないが「心を殺して生きること」と比較して何が違うのだろうかと考えるに、どちらも正解ではないように感じる。客観的に図に描いてみればいくつかの方法は残されていたはず。それらを全て試してからでも遅くはないはずなのだ。勿体無い。

あきらめも惰性の自己犠牲も、実行犯は自分自身である。権利行使のための現状変更の放棄である。悪くいえば「全て他人のせいにした結果」という現実を見落としている。理不尽にも不条理にも見える様々な処理しきれない感情の内情は、ナニカ別のところから湧いて出ている可能性もあるし、目に見えないナニカによる操作で起こされた苦痛である場合もないとは言えない。

じゃぁどうしろと?

要は「何もかも、あるがまま」受け止めてしまえばいい。

「なるほどねー、そうなるんだぁ。へぇー。そういうことなんだぁ」と。

そして「しゃーねーなー」と許してしまうか、そういう人や場所から離れて、楽な居場所を探す努力をすれば良いのでは。耐えて2〜3年が限度じゃないだろうか。自分を鍛えたりストレスマネジメントを覚えるための洗礼と考えてそれが精一杯だろう。

めんどくさい呪いを自分に課さない。めんどくさい感情を他人に持ってしまったら、時間と距離を置いて浄化を待つこともできる。八方塞がりに見えても正面から想いを伝えることで打開する瞬間もないこともない。

行動するかしないか、選ぶか選ばないか、知恵を絞るか考えないようにするか、あらゆる場面で自分を救えるのも追い込むのも自分自身の他に登場人物はいないのだ。誰かとの関係性に無駄な幻想は抱かないこと。心の奥からの繋がりを信じるのならばなおのこと、悪い妄想を断ち切るより他にない。

世界を変えることはイメージしずらいが、自分の反応や反応速度を変えることは意識すればできないことはないはず。ほんの些細な何かが、相手の反応や認識に誤解を与えてる場合もある。

「目の前の出来事は全て自分の心の写し鏡」という説が多ジャンル方面からよく聞かれる。「自分が自分のことをどう思ったのか、どうしたいと思ったのか、その結果が現在の姿なのだと」いう説明で不備はないと思われる。

まず始めに自分を許そう。自分に謝ろう。よく我慢したねと褒めてあげよう。感謝しよう。耐え続けてくれてありがとうと。

他人のこと?考えても他人のことは他人が考える。だから、怒っても文句つけてもしょうがない。受け流すしかない。

まず自分だ。他人に認められたいというめんどくさい感情は、早く燃えないごみ袋に入れて捨てよう。それしかない。

「他人に認められたい」とか思わずに「他人に認めさせる努力」をすれば済むことだ。時と場合と周囲の価値観を分析して、65点ぐらいで通過すれば済むゲームだ。そう、ただのゲーム。

本当の自分の姿を認められない自分の弱さは、努力の放棄だったり不安や自信の無さだったり勇気がないだけの「ただのヘタレ」と世間はそう呼ぶ。

ヘタレではないはずの根っこの自分にメールを送ろう。多分素敵な答えを持っているに違いない。

あるべきありのままの自分が「おかしなものに取り憑かれていない限り」自分らしくあるよう、そして日々新しい自分がいることを忘れずに調整すること、決めつけず思い込まず、自然に。それが難しいとかいうのならば、羊の群れやイワシの群れの適合者だと知れば良いだけだ。そこにも幸せはあるだろう。無駄に自分以外の何かにヤキモチを焼いたり、いらない目標を置く必要はないのだ。

好きなものは好き。それとは別に自分の生き方は自分なりに自分が決めればいい。たったそれだけ。誰かと比べるのをやめて、誰かに答えを求めるのをやめて、自分の中の自分の生まれた理由に問い合わせるだけの簡単な作業をすることが、これほど手間になった理由は大概「自分の悔しさや不平不満を誰かのせいにした」たったそれだけの呪詛返しである。

自分が甘えたい時もある。泣きたい時もある。それはそれでいいんじゃないかな。そういう時に、ただ黙ってそばにいてくれる人が居ないと言うのなら、それは、自分が誰かにそうしてこなかっただけのことなのだ。だからこそ、不相応な理想を誰かに求めず、おかしな夢を見ず、実現すべき理想を持って進むだけで、話は簡単になるといった先人たちの教えの本質がたくさんあふれているのだろう。

信じた者は上手いことやっているだろうし、信じなかった者は自分で自分を呪うのだろう。

自分の夢を持って自分で叶えようとしたら、大抵は叶うもの。確率上げるために調査研究実験調整はついて回るだろうけど。

見栄や嘘や優越感とかストレス解消で誰かと関わるのはやめにしたらいい。

そンな関わり方をしてくる人に「そうされることが好きでたまらない場合」を除けば、サヨナラバイバイありがとー。で、いんじゃね?

そんな「生き方の教え」であふれている世の中、おかしなことになっているのは間違いなく長い間続いた事実。自分がおかしなことにならないために、自分にあった本質の捉え方、感じ方が、ニュートラルになるよう訓練は必須だろうけど。

いつまでも「赤ちゃんのあるがまま」でいられるほど、保護者は元気でいられると限らないし、歳をとりすぎた赤ちゃんだって、いつまでも愛くるしくいられるわけでは無いのだから。「目覚めよ」と言われて腹がたつ道理もないってことだろうな。

ほどほど、頑張って、ほどほど気楽に休んで、頭のネジをうまいこと調整していこうと考える風潮が拡大している。みんなが大らかに正直になれば、勇気を持って卑屈にならない言葉を紡げるならば、きっともっといい感じの世界になるね。地球も喜ぶと思う。宇宙も微笑むと思う。

修行の途中の自問自答のようだけれども。

少しづつ、諦めない自分を強くしていこうと、意識して生きようと思う。

海に行こう。山に行こう。アーシングは気持ちがいい。下手な考えは休むことに勝るはずもない。わかっちゃいるんだけどなぁ。


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生きることは、驚きと気付きの連続です。こうした出逢いもまたキセキです。地球の状態や宇宙の状態もとても気になりますが、まずは我々の良い状態を作り上げ、維持してゆくためのクリエイティブ活動をたくさんの視点から様々な表現手法で誰かの心にのこせる人間になりたいです。日々精進です。