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軍都 旭川

こんにちは、こんばんは。鉄舟です。

北海道旅3日目の話を書きます。
この日は旭川駅付近のまねきねこさんで迎えました。

旭川では、北海道護国神社、北海道戦没者慰霊碑、北鎮記念館を訪れました。

この3つとも、私が大学生時代、ソフトテニス部で、思い出深い大会が行われていた花咲スポーツ公園の中 or すぐ近くにあり、驚きでした。


この日中に稚内に移動しようと思っており、その終電が旭川 12:33 → 稚内 19:49 (名寄で乗り換え) だったので、午前中に上記の三施設を周ることにしました。

前日は身体を洗えていなかったので、花咲スポーツ公園のすぐ近くにあった快活クラブでシャワー&スマホ類の充電を済ませて、北海道護国神社、関連の慰霊碑、北鎮記念館を周りました。


北海道護国神社

北海道護国神社をはじめて参拝したのは、確か大学4年の大会のときでした。夜、散歩していたら偶然見つけて、閉門してましたが氣持ちだけ参拝していたのを覚えています。

それから5年経過し、ようやくちゃんと参拝できることに喜びを感じました。

北海道護国神社


北海道護国神社は、明治35年に建設され、戊辰戦争以降の国事殉難者および開拓に殉じた北海道/樺太関係の英霊63,140柱を祀っています。

この神社の境内にも、札幌護国神社の彰徳苑のように、多くの石碑がありました。

戦後50周年を記念した慰霊碑
合同慰霊碑
南太平洋で壊滅した北海道出身の部隊一木支隊の鎮魂碑


本州から遠く離れた土地で亡くなった方々のことをなんとしても後世に伝えていこう、そんな意志が境内全体から感じました。

一つ驚いたのは、戦争で命を落とした軍馬の慰霊碑があったことでした。当時の方々が、動物も同じ仲間と見ていたことがわかりました。

軍馬の慰霊碑


日本では、たとえ動物であっても、ともに戦ったり働いたりした命は大切に思い、命を落とした場合は供養する、そうして霊を慰める、という習慣がずっとあったことを認識しました。

ここで連想したのが、研究で使用されるマウスのことでした。だいぶネガティブになってしまうのですが、今の文明は大量の実験用マウスのお陰による部分は大きいと思います。マウスだけではないとも思いますが。

後々、少し調べてみると、実験動物の慰霊祭を催している大学は数多く存在しているようでした。

今の便利な暮らしやいろんな知識は、実験動物の犠牲の上に成り立っていることも、頭の片隅に置いておいたほうがいいかもしれません。

北鎮記念館

北鎮記念館は陸上自衛隊が運営する、北鎮部隊と呼ばれていた旧陸軍第7師団にまつわる展示館です。

自衛隊とかそういう普段厳しい訓練を積んでいる組織や人に近づくとき、私はいつもビビってしまいます。。。

北鎮記念館


ビビりながら北鎮記念館に入場し、キビキビした自衛官の方に受付してもらい、自由に見回りました。

展示物は撮影OKとのことで、たくさん撮影させてもらいました。

ゴールデンカムイとのコラボ、軍都と呼ばれていた旭川の変遷、屯田兵や陸軍の歴史等が主な展示内容でした。


北鎮記念館で印象に残ったことは大きく分けて2点ありました。
①屯田兵及び家族教令の内容
②軍と地域のつながり


①屯田兵及び家族教令の内容

  黒田清隆が、屯田兵として働く人達および家族に対する生活規範として作ったのが屯田兵及び家族教令です。全20箇条あるのですが、参考になることが非常に多かったです。読んでて身が引き締まる思いになりました。一部ご紹介したいと思います。


二、汝等の命は、天皇陛下にささげるもので、自分自身の命ではない。故にいやしくも自らの不摂生により病気を発病し、又は心掛け悪く罪を犯す等決してあってはならない。万一にもこれらがあった時には、忠義に背くものなので常に健康に注意し、言動や行動を慎み、命を大切にせよ。

十二、年少者のしつけは、兵村の評価につながるのみならず、将来の進歩にも関わることなので年少者の教育は最も重視し、忠義と孝行を重んじ、武勇を尊び、信義を守り、礼儀を正し善良活発なる人となる様にさとし教え導くようにすべし。

「汝等の命は、天皇陛下にささげるもの」という表現自体は、今の時代では拒絶されるかもしれません。しかし、自分の命が自分のためのものでないから、自分の命を大切にする、という考え方もあることに、少し考えさせられました。

今は、自分の命は自分のもの、という考えが主流かなと思います。

それは、自分の人生を生きるためには必要な考え方だと思いますが、場合によれば、自分の命を大切に扱わないのも自分の自由と考えることができてしまうなと、氣づきました。

自分の命は自分だけのものではない、という考えをもつことも大事なのではないか、そんなことを考えさせられました。

また、十二条の「年少者のしつけを最も重視し」ということから、当時の人がいかに教育を重要視していたのかが見て取れます。

これを兵員の評価ではなく、「兵村の評価」としているところは注目すべき点ではないかと思いました。

兵員の評価だと、家族ごとに教育を頑張ればいいという考えになるかもしれませんが、兵村の評価だと、村ぐるみで教育を頑張る必要があります。

そうすることで、村全体で子育てをしていく仕組みを作ってたのかと思いました。

他にも、当時の価値観を知れたり、学べることも多いかと思いますので、ぜひご一読ください。

昔はこんなことを意識して、いい地域づくりをしてたのかと思いました。

屯田兵及び家族教令(現代語訳)



②軍と地域のつながり
旭川が元々軍都として栄えていたこともあり、当時は出征する兵士が村から出ると、旗を作って盛大に送り出していたそうです。

出征を祝う旗1
文字がすごく力強い

学校では、当時の日本は軍国主義で、軍は国民に対して高圧的だったという話ばかり聞いていたので、地域と軍人がこんな温もりのある関係だったことが、私には心に残るものになりました。

「外面を庶民に強要させていたんじゃないの?」という疑いの声が聞こえてきそうな氣がしますが、いろいろと資料を拝見していると、軍が庶民にそのような行動を強要させていたとは、私は思えませんでした。

出征兵士を送る旗2
これは遊郭の方々が書いたのだそう…。
よほど素敵なお客さんだったんでしょうか。

現在の北海道の一部の地域では、自衛隊の基地があるおかげで経済が回っている場所があるようです。

そのような地域では、地元の方と自衛隊の距離が近く、たとえば自衛隊のスキー大会がある際には地域の人みんなで応援しに行く、というようなことがあるようです。当時の旭川市民と軍の関係も、同じような関係だったのかもしれません。


余談

午前中に旭川の見たいところは全部見て、午後は稚内へ6時間の電車旅。
旭川で食べた昼飯と、車窓からの景色をおすそわけいたします。

旭川ラーメンの梅光軒さんにて。
稚内に向かう途中の音威子府駅にて。
車窓から眺める夕日

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