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第1回思考経路の冒険

大学から大学院に進学し、社会について、世界について様々な学問領域や考え方に触れてきました。本記事ではその中で私が考えてきたこと、そして私が思う理想の社会についてざっくばらんに書いていきたいと思います。(話が抽象的になりすぎる部分があると思いますが、ご了承ください。)社会や理想といった概念、言葉の意味については論争的であると思いますが、ここではざっくりと社会を日本社会として考えていきます。また理想は、人によって意味するところが異なってきますが、私はこれから社会人になることから、日本がどのような社会であってほしいかについて考えます。

ずばり、私の思う理想の社会とは「目に見えないものを価値にする社会」です。この理想に行き着くまでに私がどのように考えてきたか、さあ、私のこれまでの思考を振り返る冒険へ参りましょう。。。

私が大学院に進学した目的は、なぜ貧困はなくならないのか?という疑問を明らかにするためです。現在では途上国のみならず、先進国でも相対的貧困層の多さが時々メディアなどに取り上げられ、議論を呼んでいます。しかし、現在でも多くの人に読まれているハンス・ログリンス氏の著書である「Factfullness(ファクトフルネス)」において、世界の絶対的貧困層にいる人々が現在まで減少しているとデータから言われています。この本において貧困を図る指標と用いられているものは、「お金」です。確かに、途上国における貧困層は激減しています。しかしそれが必ず「幸せ」に結びつくとは限らないと思っています。

学部生時代、私はカンボジア で教育関連のボランティアを経験したことがありますが、その時の経験がそれを物語っています。現地で見たのは、日本の子どもとは比べもにならないくらい元気な子どもたちと、楽しそうな日常の風景、ゆっくりと流れる時間でした。私が訪れたのはシェムリアップでしたが、決して裕福な地域ではありません。もちろん観光都市として栄えてはいますが、一般住民はトゥクトゥクや露天商として働き生活を賄っている人々が多いように感じました。子どもたちは「今」を生き生きと生きており、その姿を見つめる(その子どもたちとは無縁の)おじいちゃんやおばあちゃんは、微笑んでいました。このようなカンボジアでの現地の人々の生活を見て、私は決して「お金」を持っているわけではない人たちの子どもと、日本のような「普通」の一般家庭の子どもを比較していました。そして、果たして日本の子どもたちは「今」を楽しく生きているだろうか?「幸せ」とはなんだろうか?という疑問が湧き起こりました。そこから卒論まで貧困について主に開発学の観点から勉強に励みましたが、結果なぜ貧困がなくならないのか?についての答えは見つかりませんでした。そのため大学院に進学を決めました。

国籍も、考え方も多様な人が集まる大学院に無事入学し、多様性に触れる中である考え方に出会いました。それが「思想」です。例えば「社会主義」や「新自由主義」に代表されるようなものです。そして私は、現在世界の主流と言える「新自由主義」の考え方に疑問を感じ、これこそが日本で「幸せ」を感じることを妨げているものではないかと考えるようになりました。では、「新自由主義」とは何か?ここでは概念の説明は省きますが、この思想はよく「自己責任」「個人主義」「自律」「自立」などといった言葉で表されることがよくあります。社会保障の分野において政府資料の中でも、このような言葉が頻繁に用いられており、日常においてもこのような生活スタイルが美徳とされている節があるように思います。

地位・お金・権力を得るために自立し、他人に頼ることを避け、努力し、自分の力で成功しようとする生活スタイルを送ることは、果たして本当の意味で「幸せ」を人々にもたらすのであろうか?もちろん人それぞれ「幸せ」を感じるポイントは異なるだろう。では自分はどのような時に「幸せ」であると考えているか、記憶を辿るとそこにはいつも他人(友達・家族など)の存在がある。新自由主義的な考え方、価値観はこのような他人とのつながりを切断させる方向に人間を進ませる。しかし私が「幸せ」と感じるのは他人とのつながりを感じた時、また信頼や共感といった目に見えないものを感じている時であることに気がついた。これを気づいた時、自分のなかで少しすっきりした感覚が生まれた。つまり私にはこの価値観は合わないと。

日本は昔から利他主義が民族的に強い国であると思う。子どもの頃に親から「自分がされたらどう思う?」とよく問いかけられたり、集団行動の中で場を乱さないように空気を読む経験をしたことが皆あるはずである。これが必ずとも利他主義的であるかは別として、少なくとも人々のつながりが強い国であった。しかし、このような利他的な価値観は時代とともに、また都市化が進むにつれて薄まっていると考えている。私が研究しているフィリピンにおいてもこれは言えることである。フィリピンでは文化人類学の研究が多く蓄積されており、その中でフィリピン人は「つながり」や相互性という価値観を大切にしてきた。貧しくても他人と支え合う生活は彼らにとって十分に「幸せ」なものであったと言えるだろう。しかしそのような価値観が現在は薄まりつつあるというわけである。貧困層に着目すると、彼らは条件付現金給付(子どもを持つ貧困世帯の母親に対して、子どもの健康診断や就学、登校を条件に一定の現金を給付する政策。英語:Conditional Cash Transfer)という政策から自律的な生活を要求される。子どもに人的資本を蓄積することで世代間で続いてきた貧困から脱却することを目指す政策であるが、彼らに求められた生活スタイルは従来とは異なったものである。親に対して無駄使い(ギャンブルやお酒)を減らすように促し、生活スタイルを変化させるように強いられた。もちろん彼らの意思で変化したわけであるが、ここから無駄使いせず自律的に生活することが彼らの新しい価値観となったのである。このようにわかりやすい例が日本にあるのかはわからないが(ぜひ教えていただきたいところ)、日本も同じように長い時間をかけて価値観の転換を行なってきたのではないのだろうか?そのために従来までの価値観が薄れていると感じるのであれば、再び価値観の転換が必要であると感じている。

価値観の転換を行う上で、日本はポテンシャルを持っている。読者は価値観の転換と聞くと、先進諸国の中でもヨーロッパ諸国を思い浮かべるだろう。環境問題や社会保障の分野に対してヨーロッパは先進的に対策を講じている。しかしヨーロッパで環境問題に対して対策を講じている企業を私たちはどれほど知っているだろうか?私を含めすぐに企業名を言える人々は少ないかもしれない。なぜなら、ヨーロッパにおいてはNGOが活発であるからである。欧米諸国NGOは人々にとって収入も十分にある憧れの職業である。彼らの運動が社会に影響力を持っていることから、ビジネス社会での動きが目立たない。しかし資本主義社会において、ビジネスは根幹を担っている部分である。その観点から日本にはポテンシャルがあると考えている。日本でのビジネス社会の動きの中で私が注目しているものは「共感資本」である。元鎌倉投信の新井和宏さんが日本の現状を考察した上で、「お金」に対する価値観を変革するために作ったものである。「共感資本」はその名の通り、消費者が生産者に共感することで資本となるものである(共感資本については以下を参照:新井和宏・高橋博之(2019)『共感資本社会を生きる――共感が「お金」になる時代の新しい生き方』ダイヤモンド社)。これを可能にしているのは、日本が持つ利他主義的な価値観であると考えている。私は昔に回帰すべきであると論じているわけではない。情報技術の発展によってオンライン上で人々が繋がりやすくなった現代だからこそ可能になる、目に見えないものを大切にできる時代になるのではないかと論じているのである。

抽象的かつ論争的な本記事であると思うが、私の最初の投稿として自己紹介を含めて自分の考えを述べてきた。ぜひ読者の皆さんの考えを知りたい所存である。私が理想とする社会は「目に見えないものが価値となる社会」と述べた。それはお金=価値とみなされる社会に疑問を感じた経験に始まり、そうした価値を提供している「新自由主義」的な価値観への批判的な姿勢を作り上げた。その姿勢からビジネスを見た時に「共感資本」というものに出会い、日本で価値の転換を起こすポテンシャルを見たのである。私はこれから生きていく中で、自分の考えていることや自分の考えに変化があれば「思考経路の冒険」シリーズの中で述べていく予定である。本記事を通して私に共感していただけたら本望であるし、ぜひ議論を深めたいと思っていることを述べて、本記事の締めにしたい。

ざっくりした議論であったが、お付き合いいただきありがとうございました!

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