むささび荘の春/二日目の夜(6,300文字)
大学生協で布団と机を注文してむささび荘に戻って来たのは、もう夕刻だった。
買ったばかりの小さな電気炊飯釜を抱えて階段を上がると、二階の廊下で裸電球の下に幾つかの人影が搖れていた。
「おう、来た来た」僕を見てドテラパンチが横の床板を拳で強打した。
「ちょうど、あんたの噂しとったとこたい。まあ、ここに座れや」
幅一間ほどもある広い廊下のまん中に、厳冬期には炬燵として活躍するらしい四角い卓袱台が置かれ、その上に一升瓶が二本、ウイスキーが一本佇立している。〃美少年〃と球磨焼酎、そしてサントリー・レッドのWサイズだった。〃美少年〃が山上たつひこの漫画に登場する熊本産の清酒である事を僕は思い出した。
「これが十三号室の谷口だ」
パンチパーマが僕の肩をガンガン叩きながら言った。
やはりこいつが牢名主か、と心の中で呟きながら、先輩の囚人たちに頭を下げた。
「田崎とボッチャンはもう知っとるな。この男は一階に住んどる藤沢だ。むささび荘四年目に入った学芸大の今度二年で、なんと落研に入っとる」
「まあ、よろしく」
笑いながら軽く頭を下げたのは、細い目をした、やや小太りの男だった。田崎と同程度にはまともに見えた。四年目で二年という事は、二浪後に入学したことになる。
「それと、こっちが同じく新入りで、今日入って来た十六号室の佐山だ」
「よろしくお願いします」
丸刈で目鼻だちのはっきりした男が頭を下げた。
「佐山は長野の飯田出身、谷口は名古屋だ。まあ今夜は新入りの歓迎会、ちゅうわけたい」
「そりゃ、どうも」
僕は電気釜を横に置き、場を仕切っているドテラパンチに頭を下げた。佐山という浅黒い男はただニヤニヤしている。
「な長野と名古屋か。りょりょ両方とも関西だな」
ボッチャンが何度も頷きながら言った。どうやら、箱根から西はすべて関西とひと括りにして差しつかえ無し、と確信しているようだった。
佐山は酒が強く、杯を重ねるうちに、やがて上着を脱ぎ捨てTシャツの袖を捲り上げて、隆々と盛り上がった腕の筋肉を見せた。
「おまえ、どこ落ちたんだ?」
田崎が尋ねると、
「全部落ちました。早稲田、明治、法政、専修とぜーんぶ」佐山は自嘲気味に答えた。
「勉強しなかったからなあ。駒沢だけは受かったんですけど、行く気がしなくって。浪人して早稲田を狙いますよ」
しかしその春、彼に自己未来予知能力があったならば、ためらう事なく現役で駒沢に入学していたと思う。
「ほうか、頑張りんさい。けんどな、こんなこと言っちゃなんだけどな、ここにいるボッチャン、ワシ、平沢 ―― 三人とも、……お前らは信じへんかもしれんがな、現役の時は勉強、できたんでえ」田崎が言った。
「三人とも第一志望は早稲田やったんじゃ。俺は早稲田は落ちたが慶応の商学部は受かったくらいや。ボッチャンも立教、平沢も青学には現役で受かっとった。でもワシ、どうしても早稲田の政経行きたくてな、浪人して上京したんよ。ほいで、ここでこの二人に会った」
そして彼は涸れ井戸の奥底にまで届くような、深い深いため息をついた。
「そそそれが運命のわ分かれ道だったな」
ボッチャンが唾を飛ばした。
「言うな! 酒がまずうなる」
パンチが怒鳴り、モジャモジャが黙った。
―― そうか、ドテラも元々は堅気の浪人だったんだ、と僕は妙に感心した。転落して行ったのはその後なんだ。
「あんたは焼酎よう飲むな」
ドテラパンチが言った。
「ええ。好きですね」
「そうか、もっと飲め」
ドテラパンチは僕の湯呑みに一升瓶を傾けた。
「ところで先輩方」佐山が尋ねた。
「このアパート、何で〃むささび荘〃なんていうおかしな名前なんですか? ムササビの巣でも近くにあったとか?」
「いや。これにはな、れっきとした由来があるんじゃ」田崎が話し始めた。
「なんでもな、大家がこのアパートを建てた時はまだ辺りに武蔵野の面影が残っていた。そこでまず、〃むさしの荘〃と名付けたんじゃと。まだ三十代だった大家はえらい張り切ってな、新しい木の匂いがするどでかい表札を作り、どこぞかの書家に大金払って〃むさしの荘〃って書かせたんじゃと。ところがな、四丁目に〃武蔵野荘〃っちゅう、漢字と平仮名の違いはあるけんど、おんなじ名前のアパートがあるのがわかってな、ややこしなるから変えてくれ、って文句言われたらしいわ。ほいで大家は、力の入った看板を睨みながら、なんとか最小の直しで済む別の名前はないかと考えた。ほんで、苦しまぎれの末に看板の〃し〃を〃さ〃に、〃の〃を〃び〃に自分で書き換えたんじゃ、もちろん書家には無断でな」
「……なるほど。馬鹿馬鹿しい由来ですね」
佐山がうなった。
そういえば、玄関の脇に掛かっている巨大な門札の三番目と四番目の字は他と不釣り合いに下手糞で、しかも四番目の文字には削り取ったような跡があった。
階段で足音がした。振り返ると、暗がりに、大きな黒縁眼鏡をかけた、痩せて神経質そうな長髪の若い男が亡霊のように立っていた。
「ニイちゃん、あんた、誰ね?」
ドテラパンチが尋ねた。
「じ、自分、山形から出てきて、十二号室に入る事になった、竹坂、いう者です」
身体が細いわりにごつい言い方だった。
「おう、そうか。そういや、大家が言うとった。荷物は昨日着いとるでえ。まあ、ここ座れや。駆けつけ三杯じゃ」
田崎が言った。もっとも、田崎自身は酒は一滴も飲めなかったのだが。
板張り廊下に正座した竹坂は、はい、ご馳走さんです、と頭を下げ、文字通りたてつづけに三杯あおった。そして、まあ崩せや、と言われた足をそのままに、下を向き、暗い表情と重い言葉で語り出した。
「自分、今年は落ちましたが、来年は絶対に立教に入らねばならんのです。親も今年だけなら浪人させてくれると言いました。六大学に入れば本家が学費を出してくれる事になっております」
「そそそうか。お俺はそそそういう話に弱いんだ」ボッチャンが目を赤くして言った。
「べべ勉強しろよ。俺たちみたいになっちゃいかん。べべ勉強しろ。こここんな所で酒なんか飲んでちゃいかん!」
「まあまあ、ボッチャン。今日は歓迎会なんだから……」
興奮して立ち上がったモジャモジャ頭を田崎が宥めた。
「そそそれもそうだな。いいか、いいか? ここ今夜だけだぞ!」
「はい、自分、明日から死ぬ気で頑張ります」
竹坂は神妙に答えた。
しかし、このやり取りこそがその夜だけの事だったと、僕らは後で振り返る事になる。
「竹坂君、佐山君、谷口君の三人は花の十八歳トリオ、というわけだね」
藤沢が茶碗酒を嘗めながら言った。その少し前に、芸能界で〃花の中三トリオ〃というのが流行っていた。
「おお、そそうだな! じゃじゃあ、田崎と平沢と俺は、はは花の二十一歳トリオか!」
ボッチャンがすっ頓狂な声を上げた。
「えっ、ということは、じゃあ」僕は田崎の顔を見た。
「三、浪、したんですか?」
「ああ」田崎は自嘲気味に話し始めた。
「一度落ちた早稲田を狙ってはみたものの、情けない事に、現役、一浪、二浪と年々成績は下がっていったんよ。もちろん、志望校のレベルも下がっていった。最後はもうどこでもいい、という気になった。ワシなんか二浪した後、親父もお袋も親戚に恥ずかしい言うて、もう大学諦めて東京で働いとる、ちゅう話に広島ではなっとる」
「お俺らも、ささ三年前は竹坂や佐山みたいに浪人生活なんか一年で終わるとし信じとったなあ。そそそれがなあ」
ボッチャンが遠くを見るような目付きで二人を見た。
「縁起でもない事言わないで下さいよ」
佐山が笑い、堅物の竹坂も口元を少し歪めて、〃古老の繰り言〃に白い歯を見せた。
「ほほう、なんだか賑やかだと思って上がって来たら、皆さんお揃いですね」
背後で声がした。妙なアクセントだった。東北の公家訛り、とでもいった感じだった。
今度は階段の上に、度の強い眼鏡に元は白かったはずのワイシャツ、それにダブダブの作業ズボンをはいた、年齢不詳の男が立っていた。不詳ではあるが、少なくともこの車座の人々の誰よりも年長であることは自明であり、しかも、誰よりも奇妙な風体だった。
髪の毛は自分で切ったものらしく、周囲はおカッパ刈りのように同じ長さで切り揃えてあったが、頭頂部が異常に短く、むしろ〃お〃を取って〃河童刈り〃とでも呼称すべきかもしれない。何より異様なのは、ゆるい作業ズボンがずり落ちないよう締めているベルトだった。それは間違いなく、蝶結びにした荷造り用麻縄だった。
「お、これは鷺宮さん、珍しいですね」
藤沢が言った。新入り以外は誰も驚いていない。つまり、これが彼の常態なのだ。
「おう? 酒ですね? 美少年ですか。二級ですな。ふむ、本醸造とありますな、原材料はと、米、麹、醸造用アルコール……」
鷺宮氏は酒瓶を目の高さに持ち上げ、ラベルの文字を隅々まで読み上げた。本人はひとり言のつもりなのかもしれなかったが、とてもそうは聞こえない、太い声だった。
「よかったら、鷺宮さんも一杯……?」
藤沢が声をかけた。
「え?」
まるで予期せぬ誘いを受けたかのように少し身を引いて構えた後、しかし、鷺宮氏の手は、自分の部屋から持参していた物らしい、縁が少し欠けた茶碗を真っ直ぐ突き出してきた。茶碗には布袋が、満腹したところなのか、目を細めて腹を撫でた絵が描かれてあった。
「私は今日の集まりに呼ばれてはいないんですが、……いただいてもよろしいのですかな」
レンズが厚くて表情はわかりにくかったが、穏やかな笑みをたたえているように見えた。
「いや、こりゃ失礼しました」
「どうぞ、どうぞ。やって下さい」
ドテラパンチが新入り三人を紹介した後、こう付け加えた。
「そういや、鷺宮さんは竹坂と同じ、山形出身でしたね」
「ええっ? じゃ、じゃ、先輩ですね」竹坂の目が眼鏡の奥で輝いた。
「せ、先輩。先輩はどの高校出身ですか? じ、自分は鶴岡ですが」
「高校?」鷺宮の顔つきが険しくなったのが、裸電球の下でもはっきりとわかった。
「高校なんて、私は知らんね。そんな事、君に言わなきゃならんかね?」
冷たく突き放すような言い方だった。
「え、……いえ、その、いえ」
竹坂は狼狽えた。
そういえば、ドテラパンチも、
「一号室の鷺宮さんだ」
と紹介しただけで、学校名は言わなかった。僕も尋常ではない気配を察して、それ以上彼については触れない事に決めた。
「まあ、でも、二十一歳トリオは三人とも今年大学に合格されたわけですね」
座を取り成すかのような佐山の言葉に、え、と僕は腰を抜かすほど驚いた。じゃあ、平沢も三浪の末に大学生になったわけか! ドテラパンチは照れたように厚い唇を舐めた。
「それと現役の谷口。この四人の入学を祝って、乾杯といきましょうか、みなさん!」
どうもこの佐山というのは、竹坂と対照的に陽気な性格であるらしかった。
おおそうだそうだ、と皆酒を注ぎ合ったが、鷺宮一人、いやもう私はこれで、と大きな掌で茶碗を覆った。
「まあ先輩、そう言わんといきましょう! そして、来年は自分と佐山の合格に乾杯して下さい。先輩も大学に入られた時はお祝いしたでしょう。え……?」
田崎が竹坂をこづいた時は遅かった。鷺宮氏は無言でもっそり立ち上がり、軍隊式に近い回れ右をすると、階段の暗闇に消えて行った。その表情はよくわからなかった。
「じ、自分、何かおかしな事言いましたか?」
竹坂は前以上に狼狽えていた。
「……実はな、鷺宮さん、まだ浪人続けてるんよ。今年も全部だめだったらしい」
一号室のドアが閉まる音を確認した後で田崎が小声で言った。
「え? つ、続けてるって ――」竹坂は絶句した。
「……い、一体、いつからですか?」
彼は手を震わせ、廊下に酒をこぼした。
「お俺らがむむむささび荘に来たときにはもういたな」
ボッチャンが静かに言った。
「ああ。ある時、ポロっと、昭和二十五年生まれだと聞いた事がある」
「じゃ、じゃあ……、ええと、六浪、いや、今年も、ってことは、七浪目に入ったってことですか?」
僕は声を低く抑えて言った。
「おう。弟はこの春大学を卒業した、ちゅう噂だぞ」
「じゃあ、二十四歳ですか。……悲惨な話ですねえ」
佐山がため息をついた。
「一度だけ話してくれたことがあるんですけどね」藤沢が語り出した。
「鷺宮さんの実家は開業医で、長男である彼は医学部に進学する事を運命付けられていたそうです。鷺宮さんは合気道の有段者なんですが、この東京で道場に通いながら、最初は医学部だけ受けて落ち続け、そのうち、だんだん医学部ばかりにこだわってはいられなくなったんだそうです。ここ二、三年はもう、どの大学のどの学部でもいい、と手当り次第に受けているんだけど、なぜだかやっぱり落ち続けているようなんですね。今年は専門学校にも願書を出したみたいですけど」
「はあ……。でも、そういう所も落ちたのですか?」
「さあ……なあ……」
廊下は重苦しい雰囲気に包まれた。
「自分、鷺宮先輩を傷つけてしまったんですね……」
竹坂がうつむいて、握り拳を床板にガンガンと打ちつけた。
「まあ、知らんかったんだ。気にすることはなか。それより、谷口はオリジナルを買うそうだから、佐山、お前が少年サンデー、竹坂はマガジンだ。ええな」
「は、はあ?」
竹坂も佐山も目を丸くした。
カーテンのない窓からの光で僕は目覚めた。前夜の酒で頭が少し痛かった。タオルを肩に掛けて洗面所に降りると、階段の途中に何者かが腰掛けて新聞を読んでいた。腰に麻縄を巻いた特徴的な後ろ姿は、昨夜あまり幸福そうに見えなかった鷺宮さんだった。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
用を済ませた僕は土間に目をやった。読売が二部、朝日が二部、そして東京新聞が一部、靴や草履の間に転がっている。毎日新聞は見当たらない。
(あの新聞屋、今日からサービスで入れる、って言っていたのになあ)
階段を上がりながらふと目をやると、鷺宮さんが両手で大きく開いているのは、紛れもなく毎日新聞だった。
(鷺宮さんも毎日なのか……)
僕は部屋のドアのまで行って立ち止った。
(待てよ……)
階段まで引き返した僕は、鷺宮さんの様子をうかがった。彼の目は実に丹念に記事を追っているらしく、向こうから声をかけてくる気配はなかった。ちらと覗き込むと、そこは求人欄だった。
「あのう、鷺宮さん。その新聞、鷺宮さん、のですか?」
失礼な言い方ではなかったはずだ。鷺宮さんは新聞から目を離すでもなく、
「君は新聞をとってるのか?」
と不審そうに尋ねて来た。
「は、はい」
僕はどきどきしながらうなずいた。
「ほう、お金持ちなんだね。……何新聞?」
「毎日です、―― けど」
「ふうん」
気のない返事だったが、彼の精読速度は気持ち速まったように思えた。僕もなんとなくその場を離れる事ができずに立ちつくしていた。社会面の四コマ漫画まで丹念に目を通した後、テレビ・ラジオ欄にだけは目もくれず、彼は立ち上がり、新聞を畳んだ。そして、大きな声で、
「はい、新聞!」
と叫びながら僕の方に突き出して来た。
「は、はあ。……どうも」
僕は思わず頭を下げて受け取った。
部屋で簡単な朝食を取った後、歯を磨くために下に降りると、鷺宮さんはまったく同じ姿勢で階段に座り、今度は東京新聞を広げていた。
投稿企画『#上京のはなし』用の旧原稿掲載はここまでです。
長編『むささび荘の四季』全体も、いつか何らかの形で掲載したいと思ってはいますが……。
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