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Hop Step Drive


明日死ぬかのように生きよ。
永遠に生きるかのように学べ。
   ―――マハトマ・ガンジー


▼▼▼2023年▼▼▼

2023年が始まった。
「明けましておめでとうございます」

昔は、いったい何がおめでたいのか分からなかった。
今も分かってないのかもしれない。
でも、多分「こうして生きていることがありがたい」
という意味なのだろうな、
というのがおぼろげに分かってきた。

生きているのは当たり前ではない。
生きて新しい年を迎えられることは、
まったく当たり前ではない。

若いときというのはバカだから、
それが分かっていない。

僕は明石家さんまさんの芸風は正直、
得意ではないが、
娘のIMARUさんの命名の由来でもある、
彼の「生きてるだけで丸儲け」という言葉は
良い言葉だといつも思っている。

生きているだけで、
それはとてつもない僥倖なのだ。
僕は鬱を患って、
死んでもおかしくなかったなぁ、
と思ったときに、
「生きてるだけで丸儲け」の意味がちょっとだけ分かった。

成功するかどうか?
関係ない。

毀誉褒貶?
どうでも良い。

人から承認されるか?
そんなん知らん。

ただ、生きていて、
仕事できている。
これだけで100万点だ。

大成功だ。

鬱を経た僕が一番変わったのは、
たぶんその部分だ。
既に死んでてもおかしくない人間が生きている、
「ボーナスステージ」なので、
もう、何が起きても、
死んでいないというだけで「大成功」なのだ。

南方戦線で戦友が全員死んだ水木しげるも、
若い頃自殺を試みたが、
戦争を生き延びて性格が変わったというやなせたかしも、
同じことを言っていた。
「戦後はグリコのオマケみたいな人生だから、
 何が起きても落ち込んだりしなかった。
 だから40歳過ぎて漫画家で、
 妻の稼ぎで食わせてもらってても、 
 あまりプレッシャーには感じなかったんですよね。
 もともとが拾い物のような人生だから」
とはやなせたかしさんの談。

アンパンマンが売れたのは、
なんと45歳のことだ。
普通の心臓の持ち主なら、
35歳で芽が出なければ再就職しているだろう。
やなせたかしさんは、
漫画界の錦鯉長谷川さんなのだ。


▼▼▼明治の日本と現代インドの農村▼▼▼

明治時代とかの名前に、
「十五(とうご)」、
「二十(ふとう)」など、
年齢を表す名前がある。

親が、
「どうか十五歳まで死なないで欲しい。
どうか二十歳まで生きて欲しい」
と願ってつけたのだという。

日本の20歳以下の死亡率はいまや1%を切るので、
そんな感覚が理解できなくなっているかもしれないが、
僕はインドの農村で「十五」「二十」という名前を、
親がつけるということの意味を知った。

被差別民の住む集落に行ったときのこと。
英語をヒンディー語に通訳してもらって、
アウトカーストの500人の集落の「長老」に年齢を聞くと、
自分が何歳か知らないと言った。
周りの人がなんかいろいろしゃべって、
「たぶん50歳」と言った。
長老はしわくちゃだったので、
その若さに驚いた。

集落のいろんな家庭を訪問し、
「子どもは何人ですか?」
と聞くと、
「5人」
「6人」
「4人」
「7人」などと母親が言った。

4人を下回ることはあまりなかった。
帰り道にバイクの後ろにまたがって、
運転するソーシャルワーカー兼牧師のバルーさんが言った。
「あの子どもの人数ね、
 あれ、全部『男の子が●人』って意味だから。
 女の子を入れると子どもの数はだいたい2倍だよ」

ヒンドゥー教の因襲が強いインドの田舎では、
今もヒンドゥー教のカルマの世界観により、
女の子は頭数に入れない。
(ちなみに古代社会に書かれた、
 新旧訳聖書もこの原則で書かれている。
 だから五千人の給食は、
 「成人男子が」五千人、って意味だ)

つまり村人たちの子どもの数は、
平均して10人ぐらいいたわけである。

なぜそんなに多くの子どもを産むのか?

国際援助とかに興味のある人なら、
「バースコントロールの啓発と、
 コンドームの配布が足りない」
などとうんちくを垂れるかもしれない。
恥ずかしながら僕も最初はそう思っていた。

しかし、バルーさんはこういった。

この田舎では、
「社会福祉」という概念はあまり浸透していない。
また、警察を含む役人が賄賂で動くこの社会では、
アウトカーストの彼らは福祉を頼ることはできない。
子どもだけが「老後のリスクヘッジ」だ。
子どもは彼らにとって「産む年金」なのだ。

その「産む年金」には「歩留まり」がある。
植物を植えるときに、
何割かは枯れると分かっていたら、
たくさん植えるだろう。
自分が老人になったときにも生きている子どもが、
ひとりでも残るようにと、
彼らはたくさんの子どもを産むのだ。
統計には表れにくいが、
インドの最貧困集落では、
それほど乳幼児死亡率が高い。

明治時代の日本もコレラや赤痢で、
多くの乳幼児が死んでいた。
日本の乳幼児死亡率が劇的に下がったのはちなみに、
東京市長の後藤新平が
水道水の塩素消毒を始めたときと一致する。

インドの最貧困集落には水道はなく、
井戸水はフィルターの目詰まりで汚れている。
役人が賄賂でしか動かないので、
フィルター交換をしてくれないのと、
人々に公衆衛生(微生物という概念)の知識がないからだ。
バルーさんは村々を渡り歩き、
微生物という概念を教えて回る。
彼は言った。
「僕はイエス・キリストの福音を伝えるときと、
 微生物の概念を伝えるとき、
 まったく同じ聖霊による情熱で話す。
 両方とも同じぐらい命にかかわるから」

ホリスティックな宣教を、
僕は彼から多く学んだ。


▼▼▼生きているというあり得ない奇跡▼▼▼

さて。

話を元に戻そう。

僕が生きていてこれを書けていて、
あなたが生きていてこれを読めている。

それがどれだけ、
「あり得ないほどの可能性」なのか。

死んでいないということが、
それだけで、
言葉の本来の意味においてとてつもなく
「有り難い」ことなのか。

「明けましておめでとうございます」
には、そういう意味が込められている。
子どもに「十五」「二十」という名前を付ける必要のない社会は、
とても良い社会だ。
僕たちは後藤新平に感謝しなければならない。

しかし、
恵まれた社会というのは、
「今年も新しい一年が来ちまったよ」
と子どもが、親が、舌打ちするような社会でもある。

今年、全員が死んでいない、
ということに驚く必要がなくなった社会でもある。
だからときどき、
僕たちは「明けましておめでとうございます」
の起源を考えることにより、
改めて新鮮に驚く必要があるのだと思う。

なんてすごいことなんだ。
今年も生きているなんて!

神の恩寵に思いを馳せよ。
奇跡的な確率で、
僕たちは2023年を生きてこの目で見ているのだ。
その奇跡に刮目せよ。

スガシカオが「Hop Step Drive」という歌で歌ったように、
「死んでしまった奴より
 生きたいと願え」

ってことなんだと思う。

「明けましておめでとうございます」
には、そんな意味が込められている。

、、、

明けましておめでとうございます。


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参考文献および資料
*********
・『後藤新平』越澤明
・『アンパンマンの遺書』やなせたかし
・『水木しげるの娘に語るお父さんの戦記』水木しげる
・『Hop Step Drive』スガシカオ



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