薄い膜
他人の評価は、私は「五分五分の原則」、
つまり、何かをすると、半分の人には気に入られるけれども、
半分の人には気に入られないと考えるようにしています。
自分が最善だと思うことをすれば良いのです。
すべての人を満足させることはできません。
―――――『ひといちばい敏感な子』エイレン・アーロン
▼▼▼HSPの内的生活▼▼▼
最近、外食をすることが増えた。
もともと僕は外食があまり好きでない。
「疲れる」からだ。
まず社交性がゲロ以下だから、
あまり頻繁には人と食事をしない。
ごく親しい人と、
2人とか3人で親密な対話をするために、
どこかで食事をする至福の時間も、
年に1回か2回はあるのだが、
それを除く「会食」は、
疲れるだけでメリットが何もないので、
逃げ続けてきたら誘われなくなった。
社会に合わせるために体力を削るつもりは一切ない。
だからなるべく新しく人と知り合わないように、
なるべく4人以上が集まる場所からは逃げるように生きてる。
僕は体力のなさには自信があるのだ。
さて。
そんなわけで外食は少なくなる。
あと、僕は料理が好きなので、
本当に美味いものを食べようとすれば、
自分で作るのが一番美味いとどこかで思っている。
いろんな理由で外食が少なくなるのだが、
一番の理由は「疲れるから」。
たとえ一人の外食、
つまり「孤独のグルメ」的な外食だとしても、
僕は疲れる。
食券を買っているときに、
後ろで待っている人がいると、
ドキドキして疲れる。
注文を聞きに来た人や、
料理を運んでくれる人に恐縮して疲れる。
隣の席で誰かが店員に文句を言っていたりすると、
もう、1日の8割ぐらいの精神力を削られて疲れる。
あまり共感していただけないかもしれないが、
これがHSP(Highly Sensitive People)の、
けっこう知られざる生きづらさなのだ。
とても神経が繊細にできているので、
普通の人にとって1の刺激が10に感じる。
僕にとって新しく人と知り合うことは、
10冊本を読むこと以上に認知的負荷が高く、
僕にとって隣でクレーマーが店員をいびっているのを見ることは、
自分自身が上司から2時間説教を食らうのと、
同じぐらいの精神的ダメージを意味する。
単位時間あたりの「刺激の総量」が、
普通のひとから比べると、
いわば「増幅」されるので、
すぐに疲れてしまうのだ。
HSPという概念の提唱者、
米国の心理学者のエイレン・アーロンさんはこう書いている。
、、、この指摘は重要で、
とても誤解されていることが多いし、
これからも誤解され続けるのだろう。
HSPの多くが内向的だと思われているのは、
人が嫌いだからではない。
ただ、単位時間あたりの「刺激の総量」が増えるから、
疲れてしまうのだ。
僕は4人以上が集まる場所に30分いると、
もう「その日は終わった」というぐらい、
脳が刺激を受けすぎて、
部屋に帰って寝たくなる。
だから音に過敏な人がうるさい場所を避けたり、
匂いに過敏な人がトイレのそばを避けたり、
皮膚が弱い人が直射日光の当たる席を避けたりするように、
過度な刺激を避けるために、
僕は新しく人と知り合うような場所から逃げる。
それは人が嫌いだという意味ではない、
ということを何度言っても理解してもらえない。
「ああ、人が嫌いなのね」と解釈される。
音に過敏な人はきっと、
クラシック音楽を楽しむこともあるだろうが、
店内の有線のBGMはできれば消して欲しいと思う。
それと同じで、僕は親密で豊かな対話を誰より好むが、
4人以上集まる場所に身を置くことに、
どうしても1時間は耐えられないのだ。
以前、このことをnoteに書いたのでよろしければご参考に。
▼参考note記事:HSPは人が苦手なわけでも内向的なわけでもない。
ただ、単位時間あたりの刺激の総量が大きいだけだ。
▼▼▼薄い膜▼▼▼
さて。
そんなわけで僕は外食を避けるようになる。
外食で受けてしまう「過剰な刺激」によるデメリットが、
外食を味わうメリットを、
上回ってしまうからだ。
そして、鬱が発症してるときは、
それがさらに増幅して現れるので、
そもそも外出ができなくなる。
通りで人とすれ違うということが、
過剰な刺激となって疲れるので、
家から一歩外に出るということが、
鬱のときは耐えられないほどの心の負荷になる。
これは僕の中のイメージなのだが、
僕の身体の周囲に、
「社交のための薄い膜」が貼られている。
HSPではない多くの普通の人は、
薄い膜ではなくて、
サーファーの着るボディスーツぐらいの強度がある。
だから街中でもガンガン歩けるし、
4人以上人が集まるところに、
何時間もいても疲れることがないし、
通りで人とすれ違うことがストレス、
なんていう人間を信じられない。
僕の場合、
これが「薄い膜」なので、
自分のむき出しの皮膚を、
外界の「社会的刺激」から守るものが、
頼りない透明な膜でしかない。
そしてむき出しの皮膚は、
放射能火傷を負った赤い皮下組織のように、
触れば激痛が走るし、
風が吹いただけでも痛みを覚える。
鬱が発症すると、
この「薄い膜」がなくなる感じなのだ。
だから外出もできないし、
部屋でテレビを見ることすら刺激が強すぎてできなくなる。
画面越しの「人間の感情」に当てられて皮膚が痛むのだ。
今、鬱が回復して、
「薄い膜」が戻ってきた。
「薄い膜」が戻ってきたことで、
僕は外出できるようになり、
そして何と、外食しても、
わりと大丈夫になった。
「目の前の食べものが美味しい」と感じるぐらいには、
外界の刺激による痛みに心奪われなくなった。
薄い膜、最高!
ということで、
最近はどこかに出かける用事があると、
その帰りなどに、
たとえば松屋のカレーを食べたり、
たとえば日高屋の餃子セットを食べたり、
そんな外食をひとり楽しむ。
そして思う。
「膜」は良い、と。
でも、ボディスーツではなく「薄い透明な膜」なので、
ちょっとの刺激で破れてしまう。
だから、店が混んでいたりしたら、
簡単に心折れて、
「あ、コンビニのウィダーインゼリーで我慢しよう」とか、
「家に帰るまで我慢しよう」とかなる。
HSPでない人は、
ここまで読んでも、
「ずっと何言ってんの?」
という話だろうが、
世の中にはこういう人間もいるのだ。
ある種の障害者だと思うので、
徐々に浸透させて理解してもらうしかない。
僕は人が嫌いなわけじゃないということを。
ただ、4人以上人間が集まると、
それがたとえ家族(妻と子どもを除く)だとしても、
やはり刺激の総量が多すぎて疲れるのだ。
もう、ヤバイでしょ。
1対1だと、
8時間連続で話しても疲れないんだけどね。
これがマジで不思議な話しで。
先週、
「会話が苦手だが、
対話は得意」
っていう話を書いた。
エッセイにして販売したが、
世の中でこれを読んだのは5人なので、
皆さんからすると「何の話」?
だろうけど。
まぁ、そんなわけで、
今は薄い膜が復活したので、
ひとりご飯を、
わりと楽しんでいる。
松屋のカレーは美味い。
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参考文献および資料
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『ひといちばい敏感な子』エイレン・アーロン
『ささいなことにもすぐに動揺してしまうあなたへ』エイレン・アーロン
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